Love life, love my world

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正しさという鎧を着て

 

最近私は

自分が見下しているものになっている。

だから、それをするのは本当に避けたかった。

でも、自分が達成したい事の為に

それを選ぶのも一つの勇気だった。

 


私が鬱っぽく、いつも死ぬ事ばかりを考えていた頃

倉庫のバイトをしていたことがあった。

 

その仕事は奴隷のように見えていた。

そこで働く人間の心は

私と同じように弱く、そして死んでいて、希望がないと

周りの人様を勝手に不幸せな色眼鏡で見ていた。

 


最近その仕事をたまにしている。

(それが見下すものになっているという事だけど)

でもそこで働く人たちは間違いなくタフだった。

 

一言で言えばそれだった。

全く弱くはなかった。むしろ尊敬だった。

 

 


仕事はお金の事に繋がる。

 

稼げる人とそうではない人と

お金のある人とない人と

自分はどんな仕事をしているかと

どんな仕事ができるのかと

能力の有無

そんな風に

劣等感と優越感のシーソーにお金はよく使われる。

自分が人を判断してるその時

自分が正しさの塊であることに気付いてない。

 


自分が作った優劣の中で

自分そのものはいつも劣等感で

底の方に沈んだ人間のようなセルフイメージだった。

 

劣等感を持っているなら

すでに優越感もどこかに持っている。

 

でも劣等感だけを強く見てたり問題にしてる人は

自分の優越感は隠しておきたいと思っていたりする。


可哀想でいるその立場と良い人でいるというのは

どこか似てる。

 

 

最近

不満や文句や愚痴や不機嫌や怒りなんかのネガティブな腹の底を

まんま浴びせられて

それに私が強烈に怯える事件のようなことが続いていた。

  

そうされることに私は猛烈に恐怖したけれど

同時に怒りもあった。

 

でもそれは相手が悪いという正しさからの怒りだった。

 

怒りこそ悪で、

「それを人に向けるなんて悪い」

だった。

 

自己主張も同じ類のものになってしまっていて

いつの間にか人に自分の本音を伝えなくなった代わりに

説明する事ばかりが上手くなっていった。

だから私は無駄に話が長かった。

 


私の中で怒りも自己主張も

「人を傷付ける」という位置づけだった。

 

でも実は、

「人からされると自分が傷付く」

というのが先に自分の中にあるからそれだった。

 

自分が傷付くのが本当は怖いのに

人を傷付けるというのを大義名分として使っていて

それはどこか美化されている。

弱い私こそ正しい。

 


いつも不満を言わず我慢してる私の方が正しく、

相手は悪くなっていた。

 


ずっと弱いという立場にいたことで気付かなかったけれど

私は自分の正しさを言葉として伝えない代わりに

弱者で怯えるという態度を相手に示すことで

自分の正しさを誇示してきていたんだと。

 

 
そんな風に見えた時に

人当たりの良さや優しさや気遣いを

本音を隠すのに使っているのも

結構怖いと

初めて感じた。

 

 

そしてあれらの事件は

弱いさを利用してる強さを教えるために

私の所にやってきた強烈な自己主張達だったと

今は思う。