不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

人と関わることを最初から諦めていたのは私の方だった話。

 

今、

ある事情で(自分がそうしたくて)

長野と東京を行ったり来たりしている。

 

仕事も上手く見つけられない見切り発車のまま

収入の目処も立たず

一見そんな面倒なことをわざわざ選んだものの

 

やっぱりお金もそこが尽きて来て

少々怖い想いが出てくる今日この頃。

 

でもそんな緊張感漂いながら

 

わざわざ面倒なことや自分を追い詰めることをした先に

気が付いたことが一つ。

 


それは父との関係であったり

お金との関係で自分がしてる姿勢であったりが

ぼちぼち見え始めている。

 

それは、わざわざすることを選んだ先の

私が明確に言える成果だった。

 

タイトルの通り

私が対人において感じていることは

人との関係性を最初から諦めをスタートにしていたことに気付いたこと。

 

それは関わる中で

自分は人と理解し合えないとか

分かってもらえないとか

それらは、根っこに「どうせ愛されない」という諦めを持って

人と接して来ている在り方が

見えないながらどこか自分の中にあるからだった。

 

だからその代償としての寂しさも薄々感じてはいた。

 

「どうせ」

という口癖が止まないのは

自分の中に大きな諦めがあるから止まないわけで

 

この世の中は全て「どうせ」という

私のかける色眼鏡から見られていて

 

自分のことにしろ

友人にしろ

仕事にしろ

好きなことにしろ

お金にしろ

そして、両親のことにしろ

 


そのほぼ全てにおいて

諦め感というのが漂っていた。

 

でもこれは、大半の人が持つ感覚だと思ってる。

 

それは、危険なことを冒してまで

人は何かをしようとはしないからだし

それは推奨されない共通の感覚をどこかで察知してるから。

 

そんな無謀なことは、危ないから止めろと

自分に近い人ほど

その想いに同調はしてくれなかったりする。

 

心配される愛もあるけれど

 

安心の中は

既に経験済みの世界で

自分ができること、知ってること。

 


その安心を続ける限りは、一生変化は得られない

ということが

最近ようやく分かってきた。

 


それで、

その緊張感を感じつつも

私が感じてきた諦めについて

 

友人とシェアする機会があった。

 

私は愛されたいと思ったり

自分にある抑圧を表現してる相手に出会う時

いちいち恐怖する癖を持っている。

 

友人に持つ憧れは

自分が欲しい在り方の一つだから羨ましいのだ。

 

するとその憧れを前に

私は劣等感を露わにする。

 

その在り方の始まりは

父との関係が最初で

 

私は父から1番に愛されたい

という想いがあったことに気付いた。

 

1番にというのは

1番ではない何かがあったからで

 

それは自分の家が宗教の家だったから

ということがわかった。

 


どうやら私は愛情を言葉にしない

恥ずかしがり屋の父の愛を勘違いして

 

私は信仰と自分を天秤にかけたのが

諦めの最初だった。

 

愛されたいという枯渇があれば

そんなことまで理由にしてしまうんだなと

途方も無い感じがしたけれど

 

それはもう仕方ない。

やってきてしまったことだから。

 


それでも対人や父の前で出る恐怖や

今まで自分がやってきたことを

怖いけど相手に伝えた時に

 

始めて、自分が自分にやってきてることが見えて

 

それが

「恐怖や緊張ゆえに人と関われない」という自分のせいであることや

「どうせ理解し合えない、愛されない、喜び合うことはない」という

諦めの姿勢そのものだった。

 

 

恐怖や緊張を理由に

どうせ愛されないことを理由に

 

私が関わりを止めたのだ。

 

自分の方こそ、その理由があった。

 

自分のせいで、感情のせいで、宗教のせいで…

 

何かの要因のせいにして

関われないのではなくて

関わらないように

私がそうした。

 


全て自分がそうしてる。

 


その事実に人は気が付かない。

 

自分を知らないまま

打算と諦めを繰り返して

 

不平と文句もそれは仕方の無いことと

そこも諦め

 

自分はこの位だと諦め

どうせと皮肉り

 


そうゆう当たり前を自分に許して生きている。

 


私は決して上手くは生きられない。

 

でも、今の私にできる可能性はどこまでかを

最近は試してるんだとは思う。

 

 

そうそう、成果としては

いつも父との会話が正しさや論破するされるの

勝ち負けでなされていて

その会話になるのこそ、宗教のせいだと嘆いて

どうせ私の言うことなんて

心に届かないと諦めていたのだけど

そうゆうことも父に全部明かして

 

そうしたら、メールの不慣れな父から

 

「あまり難しく考えるな、

楽しみながら生きていく事がだいじ」

 

という返信が来て、私は号泣する羽目になった。

 

ただこのやり取りが欲しかっただけなのに

それを諦めて

何十年も争い続けてた時間の大きさといったら…。

 

たくさんの時間とお金をかけて

私はこんなに大袈裟にしないと出来ないほど、

ほんのちょっとの勇気も出せなくなって

 

それが諦めることに慣れてそれに気が付かない状態のこと

なんだろうと思った。

 

映画のマトリックスで言えば

あのカプセルの中でずっと眠ってる状態。