Love life, love my world!

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信頼について

 

はじめに、

私はブログを2つ持ってる。

 

1つは夢ノートとかアクセサリーとかで

人と繋がる用

ameblo.jp

 

 

そしてここhatenaは自分用。

 

その都度気分で書き方も変えてたり、

オフレコといった感じかもしれないし

人に見せる用の為の下書きかもしれない。

 

だから人にわかるように書こうとしない。

 

精神世界や神やスピリチュアルの見えない方とか

かと言って何かが見えるわけでもないし

ただ、見えないものを信じてる1人なだけ。

 

 

先日、友人と話しをしていた時の感覚を忘れないように

まだそれを言葉にできる程の理解はないけど

備忘録として。

 

込み上げるあの瞬間を忘れないように。

 

 

目に見えないこと、心のことについて

当たり前にそれを話せる友人がいることがありがたい。

 

その時に話していたことは

頭の声と感情、さらにその奥の目

そして愛することについて。


愛することはやっぱり

どこまでも「すること」なんだと

そんな所まで出来ないなんて言い訳もなく

「すること」

 

それは母親の無償の愛と同じ感じがする。

 

自分の身を献上する勢いで「すること」

 

そこに打算の余地もなく、当然に。

でもそれは、手助けするような

なにか加えることではなかった。

 

優しくするのは手を出すこと。

でもそうゆう「する」ではなかった。

 

ただ信じて、見守ることを

「する」だった。

 

どんな事でも例外なく見守る。

どんなあなたであっても決して離れないという毅然さ。

でも、手は貸さない。


それとは逆に

頭の声というのはだいたいロクなことを言わない。

私はそれに飲み込まれている当たり前に慣れ過ぎて

疑うことも出来ない。その声に気付きもしない。

 

でも頭の声に反応して感情が始まる。

そして絡まるそれに苦労してる。

私が分かるのは、その事。

感情に振り回されている、ということは分かってる。

 

私が私を見張り、正そうと手を出し

見守るのではなく、でしゃばり

この自分という存在や能力を小さく見積もり

お前はそれだと言い聞かせ、誘導し

希望を削ぐ。

 

具体的なことを一つ。


私が見知らぬ誰かを見て、批判を始めた時のこと。

私の頭の声はその人のその行為を

〝はしたない〟と呼んだり〝そうすべきではない〟と呼ぶ。

 

例えばそれは、詰め放題の場面だった。

例えばそれは、セールでワゴン内を漁る姿や取り合う姿だった。

例えばそれは、不機嫌に横柄な態度で座る姿だった。


そしてそれらにNOという頭の声が同時発生する。

頭は忙しい。

 

目に映るその場面に自ら反応し

その声を自ら制圧しようとする。

 

でも反応は止められない。

〝はしたない〟と咄嗟に出たのだから。

 

出てくるのは私の中にもそれがあるから。

〝はしたない自分〟〝不機嫌な自分〟

でも頭の声はそれを表に出すのを許さない。

悪いものは排除、退治、そして我慢。

 

反応するのは自分にも同じものがあって

でもそれを悪や敵と見なして

放っておかないから。

 
放って置かない衝動に巻き込まれて

戦ってる。

感情が出るのはそうゆう合図。

 

でもその奥にそれを見守ろうとする目があること。

 

どんな私でも手出しせず、ひたすら見守ろうとする目。

どんな私でも無条件に。

 

そのどんなものも無条件に見守るという信頼は

愛以外に思えなくて

泣きそうになった。

 

頭の声と感情のもっと奥にある

どんなものも見守る目のこと。

 

それは愛以外の何者でもないと思った

日常の中で起こった出来事。