fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

自分が今生きているということの凄さ

便利が当たり前の時に生まれると

それがなぜ目の前にあるのかも考えないのは自然なことだった。

 

知ることさえ自ら探したら

その答えにビックリしたりする。

 

与えられることに慣れてしまうと

なぜなのかさえ疑わないのに

心は違和感として訴えてくる時があるのは

生きてるこの命が

自分という意識だけのものではないからだろうし

この時間に至るまでに多くが関わっているからだろうと

何か見えないものに馳せてしまう。

 

その心で感じることは嘘じゃないだろうから

最近はその心で感じたことを行動に移すという繰り返しをして来てる。

人に言われてこうだからとか、こうゆう決まりだからとか、

普通はとか、時間がとか、お金がとか…そっちを基準にするというより

怖いけど心で思った方を採用してみる

というやり方。

 

決めるのもそして動くのも

今の自分にその主導権が与えられてる。

 

 

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話に聞いて写真で見るのと

空気や匂いや音や…そうゆう全てで感じる

現場で経験するのとは

やっぱり別なのだった。

 

というのも

今朝鹿が採れたから要らないか?という知らせが始まりで

どうやら解体して食べるという流れになっていた。

狩猟で捕られた鹿は顎と尻尾を切り取られた状態で届けられた。

それらを届け出て「駆除」の証明とするらしい。

というのも鹿の害というのがあるからなのだ。

 

 

もらい主達は自分達の食べるものを

結構自給自足に近い形賄っている。

畑仕事でお金をもらい

自分達の住んでる庭に

トウモロコシやかぼちゃや夏野菜色々を植えていた。

 

そして遂に今朝撃たれた鹿を貰い受けていた。

 

私はグロテスクなのは割と平気だったが

内臓が取り出された時点で部屋に帰った。

やっぱりずっと見てたら、しんどかった。

 

今日鹿の心臓を見た時に

母親の摘出された子宮を思い出した。

 

首だけになった顔に銀蠅がたかり

膝下の細い足と爪

そして皮。

 

 

 

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食べ物だけじゃなく

私達は自分の身に付けてるものも

命の後だってことを中々想像できない。

 

以前ハンズで買った革が部屋にそのままなのを思い出した。

 

財布に鞄、靴

そうやってたくさんのものが

私たちの便利で彩ある生活と生きることを支えている。

 

私はだから獲るな

という立場はとれないけれど

あまりに知らないということが多過ぎるとは思った。

そして見過ごしてると思った。

立ち止まらないと思った。

 

つまりは、「今にいない」ということだった。

 

例えば

食べる時も

着る時も

それがいつもやってる繰り返しであればあるほど

別の事を考えてるのだなと。

 

袖に手を通す時、その着る物の事を考えてるか?

靴を履こうとする時、その靴の事を考えてるか?

食べ物を口にする時、その食べ物の事を考えてるか?

体を洗う時、その水のことを考えてるか?

 

そんなこと、いちいち考えない…のか。

 

でも「いただきます」という言葉1つ

今に吸い込まれる。

 

ずっと想うのが難しいのは

それくらい他にたくさんしなければならないという

余裕のなさの中かもしれない。

それとも、そんなことより

もっと大切なことがあるからかもしれない。

 

そのくらい今の人は色んなことに忙しい。

 

 

でも私達は、本当に本当にお陰様なんだなと思う。

 

当たり前に、その繰り返しに

忘れてしまうけれど

人が1人生きているだけで

その背景にはたくさんの命が関わっているんだなと。

 

そんな事も見過ごせる自由を私達は与えられてるんだなと。

 

こうして書いていたって、どうせ何かやれば何か忘れてくんだから

そう言えばそうだったと、どこかで思い出せればいいと思う。

 

 

最近あまりに腑抜けで過ごしていたので

カンフル剤にはなりましたが

 

正直なところ、腑抜けが腑抜けでなくなるまでではなくて

 

もう自然が癒してくれるわけじゃないって時点で

 

自分が今までと同じようなスタンスでいると

一生気の抜けた炭酸のように過ごすことになってしまいそう

と思ってる今だから。

 

 

 

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