fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

ソール・ライターの写真展

観に行ったのはソール・ライターの展覧会ですが

 

 

いきなりダイアン・アーバスの事から書きます。

 

Diane Arbus: An Aperture Monograph

Diane Arbus: An Aperture Monograph

  • 作者: Doon Arbus,Marvin Israel,Diane Arbus
  • 出版社/メーカー: Aperture
  • 発売日: 2012/09/30
  • メディア: ペーパーバック
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http://www.atgetphotography.com/Japan/PhotographersJ/Arbus.html

 

 

この人の写真

正直ずっと手に取れませんでした。

何がいいのかさえ分からなかった、

というより


何か嫌だと思って、でも何が嫌かよく分からなくて
何か触れてはいけない感じにさえ思えて
そっとしておいて

 

写真集になっていれば

それだけでかっこいいと思ってるような所で見ていたように思います。

 

いや、それで十分なんですけどね。

 

かっこよく作られていて、そう見えるならもう

それで良くて。



でも本当の所は

直視出来なかったし、受け入れ難かった。
エグくて、痛みだった。

 

この本音を私が自分で持ってる事を隠したかったから

それが違和感という自分でも何やら分からず、でも心地いいとは言えなかった理由で

出てきてたこと。

 

だから、ダイアンの写真を受け入れることが難しいのは

自分が醜さについて

とても厳しく、それを許せないから。

 

あの違和感の正体はそうゆう事かなと

今更思い返す機会でした。

 

 

自分の容姿にずっとコンプレックスがあって

痩せたいとか、綺麗を憧れにしながら

どこかでそうなれる事を期待して 

色々やってきて。

 

でもその色々というのは全て

気分を厳しく批判するものだったし、責めることや虐めることだったし

 

人様にはしなくても

自分だったら平気で傷付ける。

そうゆう自分の中にいる刃物のような鋭さやキツさで

 

でも、ずっとそうしていられる程

自分の厳しさに自分が耐えられずに

 

今度は少しずつ自分を大切にしようと

し出しました。

 

 

 

自分嫌いがそれをするのは

試みのようなものを、ずっと繰り返して行く地味な作業で

その過程でたくさんの〝嫌い〟や〝痛み〟を結局見なきゃならない。

そしてすごく時間がかかるし、終わりが見えない。

 

責める事をやめても

受け入れることに必死になっても

 

喜びに直接繋がらないことに

時間もお金も割かれてく気がしました。

 

ダイアン・アーバスという人は最後に自らその命を断ちますが

結局私も同じだったから

傷んでいたと思います。

 

 

 

でも自分の中に刃を持ちながら

自分の喜びを始めてもいい気がするこの頃。

 

 

何かを得るためでもなく、そこに行けばと期待もなく

自分の喜びという部分で

今回選んだのがソール・ライターの写真展でした。

 

 

自分が満たされてない人間にとっては

自分の喜びをそのまま体験することさえ

自分に許せなかったんですが

 

本当は自分が自分に許可するだけみたいです。

 

自分を大切にするという試みも

無駄ではなかったのは

そうゆう許可が少しずつ出せるようにはなってるから。

 

でも今思うと

その許可に条件はいらないかもしれないということ。

 

本当は自分が自分を大切に出来たからでもないし、

愛せたからでもないし

優しくなれたからでもないし

 

どんな自分でも

喜びを体験していい。

 

どんな酷い自分でも、どんな醜い自分でも

価値なんてなくても、愛されてなくても、許されてなくても

弱くても、出来なくても、何も残せなくても、のろまでも、まぬけでも

過去にどんな経験をしてきても

 

喜びを生きていい。

 

自分が許可できないだけ

この条件をクリアしないと

与えられないって思ってるだけ。

 

 

今までやってきたことは

その条件をクリアしようとしてきたこと。

 

 

「好き」を自分の鎧や武器のように使い始めるのも

誰かより凄い自分(優越感)

これをやってる自分が素晴らしい(プライド)

手放したら落ちぶれる(依存)…

 

何かをしている自分に価値があると

思い込んで

だから、それをやらない私は

何もない私は価値がないと思い込んで。


美しさに憧れて、醜さをやっつけることも

 

 

 

で、今回渋谷でやってるソール・ライターの写真展の感想ですが

 

ソール・ライターって人

とにかく写真好きなおじいちゃんだったってこと。

写真が好きだし、撮ってるその街が好きだし

愛する人を写真に撮ったし

撮り終えてプリントになった写真がまた好きだし

絵も好きだから描いちゃうし

 

 

私はその空間に入って

その人の人生を映像で垣間見て

(今回ドキュメンタリーも一緒に観ました)

 

愛がベースで

その今の自分で何も問題がないという前提の空気を吸ったから

 

そうでないものを垣間見ました。

 

今まで自分が否定して責めてきたことも問題がなく、醜さを否定することも問題がなく

愛せなくても問題がなく

 

 

自分が否定してるものに触れてる時って

痛みが走るんです。

 

だから傷付いてるんです。

 

本当はほっとけないんです。

 

だから痛いんだから。

 

それお知らせだから。

 

相手が傷つけるんじゃなくて

自分が自分に傷付けてるっていうお知らせ。

 

自分がそれを決して受け入れないという厳しさに傷付いてる。

その隙のない厳しさに怯えてる。

 

 

ソール・ライターのドキュメンタリー映画の中に

ダイアン・アーバスの名前が上がっていて

それはほんの少しだったけど

私がそこに反応したのは

 

同じ写真でありながら、

ソールには愛を見て

ダイアンには醜さを見ていたから。

 

同じ写真でありながら、

身を任せられるほどの安心感と

身を切り裂きたくなるほどの攻撃性を垣間見たから。

 

 

写真という紙のプリントに

私が重ねた2つのモノ。

 

 

ソール・ライターの

そのままで何も問題がないという安心感の海のような展覧会場の中で

その反対にある

ダイアン・アーバスの写真に重ねた

嫌って恐れていて醜さだと退けていたものが

強烈な人間の不器用なまでに愛おしい個性のようなものに変わっていく。

 

それは私の中の

醜さや厳しさや攻撃性をそのまま置き去りにしても

 

その自分のままで喜びを自分に許可してもいいという

ソールからのメッセージのように受け取れました。

 

 

 

saulleiter-movie.com

 

 

 

自分が感じられる楽しみの為の時間を

自分に許すだけ。

 

でもそれは、私からすれば

色々勇気がいることみたいです。

 

 

www.bunkamura.co.jp