不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

心配されることがずっと煙たかった件

 

私は母の不安と安心の的であり

母の幸せと不幸せが私にかかっているとどこかでずっと思ってきた。

 

そしてその事をどんより重く感じてるのは分かっていたけど

それを言葉にすれば

私の不自由はあなたのせいと

奥の方で母を責める気持ちに蓋をしてるお陰で重かった。

 

自分が幸せになるということと

それが母に関係があることと結びついているから

幸せが

しなければならない義務のようなプレッシャーのようなものに

なってしまっていたけれど

 

私の幸せ≠母の幸せ

 

これが本当。

 

 

母親が私のことで心配するのも、安心するのも

癪に障るのは

 

それが私のせいで母のが苦しむと勘違いしていたことや

最初に書いた

私の不自由は母のせいだと勘違いしていたことにあって

でも結局私のせいでも、母のせいでもなかった。

 

それが理解出来たのは

 

「私のことを勝手に自分の悩みにするな」

という母に対する怒りが自分の中にずっとあったのを

出したり、認めたりしたからだった。

 

勘違いでもなんでも理由はどうであれ、

その感情があるならちゃんと認めたり出したりをしたら

理解までたどり着いた。

 

良い娘や仲のいい親子で居るために

自分の中の感情を否定していたり見ないでいたから

母の心配をどう受け止めていいのか分からない

みたいな

悩みを作り出していたけど

それは明らかに

私ではなく母が悪いとするのを見せつける為の悩みだった。

 

 

 


最近、憎しみや怒りのようなネガティブと言われる方があるなら

「あえて出す」

ということをしていて

 

でも相手に想いをぶつけるでも

身体で発散させるでも

なんでも。

 

 

出した後に気付いたのは

母にとってはそれも1つの愛情であはないか

という新しい発想。

 

 

決して相手はその形を変えられないこと。

なぜなら母にとってはそれが愛だと疑わないから。

そして、私がただその形じゃ受け取れなかったこと。


母の生い立ちを思えば、この愛情表現はとても普通なのかもしれないと

話したりして分かってきたこと。

 


そして同時にもう1つ分かったのは

ずっと、母が不幸だと勘違いしてきたこと。

 

 

交わることが辿り着く場所のようにいつも錯覚してしまうけど

ハッピーエンドがいつも同じカタチとは限らないし

仲の良さだって色んな形があっていい。

はたから見て、仲悪そうにやってても

それも1つのカタチに過ぎないだけ。

 

 仲が悪くても一緒に居られる素敵の方を見ようよって。