fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

好きな事がうまくいかない理由

haruradio.hatenablog.com

 

この時って、一生懸命ヒリヒリ痛い自分を感じていた頃で。

 

過去記事を読んでて、なんか晴れそうで晴れない感じだったから

再編しようとしたら、記事が消えてしまって…。

 

せっかくなので、そのヒリヒリ痛い感じもありだよ、いいねと

残しておけって事にして

今の私から過去の私への観察日記を書いてみようかな。

 

 

あの時はまだ、そのいたたまれなさのままに書いていたから

上手くまとまってないというか。

「全く売れませんでした!」って

エクスクラメーション・マーク付けちゃう感じとか

ブログ書きながらも

これって、恥ずかしさをどうにか隠したかったんだろうなと思う今で

自分自身を「すごく残念な人」って思いながら書いてた。

自分をすごく残念だと判断してることが

残念だったけど。

 

去年の自分への追い込みというか、自分でやってきてる事だけど

きつかった。

 

お金がなくなる不安が強かった。

お金に対する執着が凄いあったと今更ながら思う。

 

そうゆう「お金(だけ)」が欲しいという想いの元で

お金に対する嫌悪も同時に持っていた。

 

欲しいものなのに嫌悪という

アクセルとブレーキ

水と油

みたいな中で色んな行動を起こしていたから

ずっとヒリヒリするような、落ち着かなくて汗が出るような思いが消えなかった。

  

お金だけじゃなくて、好きな人や仕事も

当時の自分の気持ちで欲しいと思うものに行動を伴わせて

10歳以上離れた男の子に告白事件とか、

慣れてきた仕事を辞めて転職とか、それも続かず辞めるとか

 

今までにありえない大胆過ぎる行動で

おいおいおい…な感じ。

 

これって、自分のしたい事に別の欲求が絡んでるから

粗末な結果だったと、心が揺さぶられて怖くて仕方なかったと

今書いてて思った。

 

好きになる気持ちが嘘ではなくても

その仕事への憧れが嘘ではなくても

それを行動に移す時になぜ恐れが強くなるのか?

 

行動に強い恐れが付きまとうのは

「好き。それだけ」ではなく

別の何かを手に入れようとしてるから。

 

実は何が欲しいかと言えば

恋人がいる「自分」だったり、いい仕事に就いてる「自分」が欲しかった。

とにかく重要なのは「自分」。

 

これは今だから書ける憧れや好きの裏に隠れた欲しいものだったけど

 

そうとも気付かないこの時の私の前提は

自分の好きや憧れを手にする為の条件でもあった。

 

 

・今までがダメだったからちゃんと働かなくては

・適当にやってはいけない

・楽しむより、しっかり真面目に取り組む

・頼らず自立

・楽してお金をもらってはいけない

 

 

そしたら、憧れを行動に移して出てくるものが

 

そのままの自分では嫌われてしまう

何もない自分では、そのままの自分では酷過ぎると思ってる事や

自分の見てくれや、いつまでも成熟しない内面や

あんなに憧れだったはずなのに、

仕事への興味が尽きる程の自分の中の過度の要求

(完璧さや失敗できないプレッシャーなど)や

〇〇しなければの応酬で

 

自分の嫌ってる側面と

それをどうにかしようとする自分がじゃんじゃん出てきた。

 

そして、何より 結果を残して見せびらかしたかった。

その結果は努力の証明だから。

ダメな自分をやっつけた証明だから。

これでダメな自分はもう克服しましたと誰かに言えるから。

 

常に「しなければ」が付きまとう理由は

心の内にダメな自分という劣等感が住んでるから。

 

好きな事を目の前にするからこそ、ちゃんとした自分でいたい。

理想でありたい自分が強く出る。

 

どちでもよければ、そこまでの「しなければ」は出てこない。

 

良い結果以外は許されない。

その強さの事=執着。

 

 

 

ぐいぐいやって心が疲れた後、

ずっとやりたかった畑の仕事をしに行った経験は

今の私にとてもいい影響を与えてくれてる。

あの時に出会った人、環境、働き方、価値観が

今の自分を助けている。

 

 

憧れの仕事を辞めて、外側の事を切り替えて

押せ押せの執着はポロっと脱落していたから

自分のしたい事に別の欲求は絡んでなかった。

 

疲れていたから、心に優しいものをちゃんと選んでた。

 

この時重要だったのは「自分」ではなく、

自然の多い環境、畑でする仕事、土いじり、など「経験」の方

そこでどんな「自分」かは全く重要ではなかった。

 

だから前提が違っていた。

 

・重くない気持ち、無理なくできるもの

・できなくても許せる場所と期間

・結果が出なくても、それで問題ないこと

・何の理想も持っていないこと

・楽しむこと

 

 

 

そして

実際とても楽しい経験だった。

びっくりするくらいたくさん与えられた。

そのままの何も持っていない素の私で喜んでもらえた。

 

同じように好きや興味があるものをやってみて

そうやって2つの結果が出たけれど

 

あの時はその2つの違いも分からないまま

とにかく自分の欲しいをやり続けていた。

 

 

でも最終的には、「しなければ」と恐れが伴う方の選択をきっかけに

自分の強過ぎる執着で

今度は私の方がボロっと脱落してしまった。

 

畑に行った時は執着がもう出ないように外側の事を変えたけど

執着は自分の次の選択でカタチ変えて又やって来ていた。

次の選択というは自分の好きな事で

雇われずに働く憧れだった。

 

実際売ろうとしてみたり、ビジネスでお金を稼ごうとしたり

ここでも色々やってみた。

 

そうやって、欲しいものを追って追って

でも何も手に入らないその事自体が

今まで、自分は自分に何もしてこなかった事に気付かせた。

 

自覚はあったけれど

本来の自分を嫌い続けていたことが更に明らかになった。

 

 

「安全の約束されない所まで遂に来ても

この先どうなるんだろうと思ってる自分がいる。

自分がピンチなのにどうなるんだろうって視点」

 

 

どうなるんだろうって言う、まるで他人事な感じ。

「きつかった」という感想が残ることがその証拠に

私の中で、自分のことなのにどこか放置してたんだと。

 

いつもなら、しない選択

例えばお金がないからとか、自信がないからとかでやらない選択を

敢えてしてみたら…。 

 

してみたら=させてみたら

 

怖いと分かっても敢えてそう自分にさせてきて

 

そしたら

自分の選択なのに、こんなにも恐れているのに

後の祭りみたいにほったらかし。

自分で決めたのに、怖さが出るって分かってるのに

 

見守るのではなく、その怖さの自分自身をずっと放置してた。

 

出来事や人をきっかけに出てくる感情がある。

その感情を人は見たくはない。

見たくはない、避けたい理由が何処かにあるのだけど

でも、この感じたくないものが出てくる場面に出くわすのは

ある意味変わるチャンスとも言える。

 

でもそのせっかく出会ったタイミングで

どう対応してるのか?

反応ではなく、ちゃんと「対応」できるかどうか?

 

反応=無意識

対応=意識

 

 

例えばだけど、これってもし自分が母親なら

子供を見守るのではなく、放置するような感覚じゃないかと。

 

感情への対応って親と子の関係のような気がしてならない。

 

感情をコントロールしようとして、でも実は出来ないことが判明して

じゃあ、感じようとしてるのに上手くいかなかったのは

感じてるつもりで、それに飲まれたり振り回されてしまうのも

それがあるとは認められないからじゃないか。

ネガティブな卑しい、酷い感情が自分の中にある事を許せないからじゃないか。

 

子供が場なんて気にせず泣き出すことや、わがままを言うことに

ヒステリックに対応してしまうのは

その感情(子供)に振り回されて、周りの目を気にして

早くどうにかしなくてはと

その場しのぎに強引に押さえつけようとして

心を聞く余裕が持てないのと似てるんじゃないか。

 

周りの目がある所では、大丈夫だよと言えない。

周りの目がある所では、その感情に寛大ではいられない。 

周りの目がある所では、その部分にはyesと言ってあげられない。

ちゃんと育てなければと真面目になるほど

一緒に遊べない。

周りの目がある所では特に、いつまでも母で大人でいようとする。

一人の女性、一人の人間である前に

みたいな。

 

 

自由で無邪気で純粋で癒されるその子供は

大人になった今も自分の中にいて

本当は一緒に遊びたがっている。

無茶も言う、強引で、わがままで、こっちの言うこと聞かないけど。

 

だから子供との関係は、そのまま自分との関係が

そこに現れてくるんじゃなかろうかと思っている。

子供はそれを知らせる為に生まれてくるのかもしれないと

 

って書きながら自分に子供はいないけれど

もしいたら、私は子育てを楽しめるのかどうなのか。

 

 

怖い事をし続けて分かってしまった事は

自分の負としてる感情は見放してもいいと思ってる事だった。

そうゆう見て見ぬ振りをする事だった。

自分のことなのに、誰かに解決してもらいたいと思ってることだった。

自分には手に負えなくて

自分の人生が苦しい理由を誰かのせいにし続けてないと

誰かに解決してもらいたいなんて思いは出てこないから。

 

そうやってどんどん

母のせい、父のせい、お金のせい、会社のせい

自分のメンタルのせい、容姿のせい

〇〇のせい、せい、せい…

 

 

自分の中で苦しんでも

いい事は受け取るけれど、悪いものは他に任せようとしてた。

 

最終的に選んだ自分のしたいことはお金のことだった。

そしてそこに絡んでた別の欲求は自立することだった。  

 

「なにか出しても売れない理由の奥には

実際それで発生してしまう関係性に対処しきれないと思ってる自分がいることだった」

 

売る行為は、出会いの窓口を無差別に広げることだから

自分の知らない人との関係で怖い場面は必ずやって来る。

特に私の場合なら尚更やって来てしまうだろう。

 

怖い事をやり続けても

その怖さを受け止められないと上手くいかない。

 

自分の中で出会ってしまう恐れや、怒りや、罪悪感や、執着も、全部

そうゆう出会いたくない方に優しくなれたら

出て来てもいいよって言えたら

出て来ても責めないよって言えたら

 

なんか、大丈夫な気がする。


本来の自分を嫌い続けて

私の中のあって欲しくない部分で見たくない部分で

認めたくない部分で

それを責め続けた。

 

でもそれを、諦らめて

持っていてもいい事にして、責めないように努めてる今

 

不思議な事に何もなくても素晴らしい自分だったと

気付き始めてる。

 

 

人は

自と他で

子供と大人で

意識と無意識で

陰と陽で

内と外で

精神と肉体で

目に見えるものと目に見えないもので

 

そうゆう2つからできているから

そのどちらかだけという生き方を選択すると

上手くいかないのだろうと思う。

 

 

 

私が本当の自分に戻って来た。

1冊の夢ノートが終わったその時に。

 

夢ノートは夢を叶える為の願望引き寄せみたいに思ってた。

いや、多分それであってる。

夢を実際叶えてる人も見て来たけど

私のプロセスは外側のものは何も手に入らなかった。

 

その代わり、今の自分以上のものは外側にはないことを知る事になった。

それがこんなにも満ち足りて安心した気分だなんて知らなかった。

生きてる喜びがこんなにも近かったなんて。

 

ありがとう。

 

 

私の今までの取り組みのベースはこのノートにあった。

 

 

だから、今度は何もないこの私のまま

夢ノートの不思議を誰かに伝えようと思ってる。

 

 

結局全部自分が望んだことだったんだろう。

だって、経験がなければこうして言葉で伝えることも出来ないのだから。

 

 

なんだか全てが、茶番だった〜

フー

 

でもね、いつも心は伝えたがっている。

あなたの好きからの取り組みが、あなたを輝かせる事を。

 

しなければならないから外れたら

好きがもっと近くなる。