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日々のこと

fantasiaの為の研究ブログ

自分を受け入れる方法さえうまくいかない、こじらせ女子へ

注:こじらせ女子へとはまさに、自分のこと。

 

 

そのこじらせ女子へ

今から書くことは、過去にすでに書い来てることですが

自分の中の整理の意味で、改めてここに残そうと思い立って

 

 

自分を愛するとか、受け入れるって言葉

 

例えば

現状に不満があったり、苦しかったり、生きづらかったり

そこを変えて生きたい人が探し物を始める時などに

出会っていく項目ではないかと思います。

 

・自分を大切にする

・自分を愛する

・自分を受け入れる

 

 

人生がうまくいかない原因について、もしかしたら…と

何かしら思い立ってから

探し始めると結構な頻度でぶち当たります。

 

で、すでにここら辺について

たくさんの方が、その方法を言葉やセッションや音声かもしれませんが

あらゆる方法で伝えてくれていると思います。

 

私もまたそうゆう方法を試して来た1人ですが

私は素直ではないのと、真面目ということで

大概のことがうまくいかないタイプだったりします。

 

 

執着であったり

方法が絶対になってしまいやすく

 

すると、その伝えられた事が自分の中で

厳しいルールになってしまうのでした。

 

真面目すぎる、というのは理由の1つです。

真面目さを捨てきれないのは、恐れがあるからです。

 

そして、従うことへの不信 

にわかに信じがたいという疑いが

見えないものに付きまとっています。

  

自分を愛することの中には

今の自分にとって優しくするとか、今まで厳しかったとしたら

甘やかしてみたり、緩めてみたり、体に良さそうな事をしてみたりと

 

受け入れるや、愛するの文字通りのことをし始めました。

 

目に見える身体方面では

湯シャンとか、布ナプとか、オーガニックの食材とか

それらも1つだと思います。

 

目に見えない方面では

例えば鏡に映る自分に向かって、「いいぞ」とか「可愛い」とかを

心では抵抗があっても、まず言ってみるってことから

始めて行きました。

 

そしてもう1つ、「感情を感じる」ということです。

特に負の感情と言われる部分についてです。

 

正直、この辺間違っていました。

 

ネガティブ

例えば、怒りや悲しみ恐れなどの感情が出て来た時

感情を感じれば

その感情からは抜けられる、その感情にまた支配されない

と言った印象で捉えていて

私はそれらの感情が出てる時に

温泉のようにどっぷり浸かるということを

長らくやっていたように思います。

 

なので、負の感情が出たら

それらに囚われないように、その感情に取り組まない

という別の意見と出会った時に

それでは今までのような苦しみからは逃れられない

と密かに思っていました。

 

方法に優劣をつけて比較し始め

自分が採用してる方法が唯一だと思ってしまってました。

(しかも、ちゃんとそれを理解もしないまま)

 

でも結局は負の感情を感じるどころか

負の感情から逃れたい、負の感情と二度と出会わないようにしたい

つまりは排除の方法として

「感情を感じる」を利用していました。

 

自分から負の要素を取り除きたくて仕方がなかったのです。

 

 

でも結局は、良い部分だけを残すというのが

出来ないというより不可能なんだと

散々そこに浸かって来ただけあってようやく気付き

 

ようは、浸る中でいつまでも変わらない現実と苦しみに疲れた。

 

というまで散々その負の感情とやりあったのです。

 

私の場合は「恐れ」という感情にものすごく執着があり

それさえ感じなくなれば

全てがうまくいくと思っていました。

 

負の感情を感じると称して実は、戦い続けていたのです。

 

戦いに疲れた私は

「感情を感じる」とはいったいどうゆうことなのかを

改めて見直すことになりました。

 

感情を感じるとは

まずその感情でいる自分を許すことでした。

 

ある場面で恐れが出るなら

その恐れてビクビク、ハラハラしている自分が

人にバレても構わないと許すこと。

 

それは弱い自分でいることを許すことでもあります。

プライドを捨てることかもしれません。

悲しみが出るなら、悲しみの自分がいると認めることです。

別の自分を装わないことです。

 

ヒリヒリと晒されている感覚があったのは

それらを排除しようとしてる時の方でした。 

 

恐れている時に、そこで頑張って恐れようとさえしていました。

そうやって感情が出てくると同時に

頭で感情を捉えようとして、感情をどうにかしようと必死でした。

 

そもそも感じるも何も

その感情に落ち着けなかったということです。

 

「感情を感じる」とは

弱虫くん

怒り大魔王

ガクブルちゃん

 

そうゆうキャラクターでいることを自分に許すことです。

 

それは自分にとって情けない自分であり

認めたくない自分でした。

 

私はプライドが邪魔をして

弱くいることに耐えられなかった。

だらしないこと、結局何も出来ない自分に耐えられなかったのですが

 

でも目の前の私は、何も出来ませんでした。

 

 

 

正直、自分を愛するとか受け入れるというのは

「諦める」ということの連続で

 

何にもない自分を、それでも愛せますか?という問いを

最後に突きつけられるように感じるのです。

 

 

認められなくて頑張ってる今と

不安にかられる今と

何も出来ないと落ち込む今と

怒りの収まらない今と

嫌いでいる今と

 

 

一緒にいることを許せますか?

 

 

 

最近、ますます思います。

 

私は何にも持っていなかったと

そしてその自分で何も問題はなかったと。

 

 

 

今日は「この世界の片隅で」 

という映画を見ましたが

 

これは理解する映画ではないなと思いました。

自我やエゴが嫌う映画でした。

私には感動を呼ぶ映画でもない気がします。 

こんな映画がヒットする時代になったのです。

 

漠然とですが、自分を愛せないと

どんどん厳しくなる時代のような気がするのでした。

 

 

 

最後に、

どんな方法も自分以上になることはないのです。

それに力を与えるのは自分でした。

絶対なら絶対になるし

それが正しいなら正しいのです。

 

自分が信じてるものが力を持つのです。

その力をいつも与え続けて自分の現実が作られている。

 

そう思うようになりました。