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逃げ場がない程、追い詰められるという感覚の先にあるもの

2018.2.5

加筆修正してみました。

 

 

最初に正解を言ってしまえば

「追い詰められても、死なない」です。

※運良く今生かされているという結果論です。

 

なんだよ、そんなことかよ⁈

 

でも、追い詰められる限界に挑戦して、わかったことがもう一つ。

 

それは何も変わらないそのままの自分で大丈夫だった

という安心の場や人が増えるって事です。

以前は恐怖だったものが、普通になる。

それは別の言い方をすれば、

変化や成長という言葉を使う人もいるかもしれない。

 

 

それで誰、もしくは何に追い詰められているのかといえば

自分自身です。

 

自分が自分の鬼なんです。

 

外にあるように勘違いしてるけれど

外は自分が鬼になってしまうようなきっかけでしかなくて

自分がその出来事に反応してるんです。

 

追い詰められるような場面は

私のようなビビりの場合、頻繁に起こります。

 

過去に追い詰められていた時は、

よく自信がないと口にしていた頃でした。

自信がないことばかりが目に付き、それのせいで何も出来ない

もしくは、

自信が付いてからとよく考えていました。

 

あの当時は、自分が自分自身にとても厳しく

とにかく許せない項目がとても多かった時でした。

 

でも、なぜ自分がそんなに苦しいのか

当の本人はまるでわかってなくて

自分が自分の何に厳しくして何を許せないのか

頭の中にいろんな声がしてショートしそうでした。

 

例えば

あれが悪い、すべきではない、今のはまずかったのではないか

自分が○○だからいけない、出来ない…

そうゆう類の言葉で頭が埋め尽くされてる感じ。

何もしてないのに疲れるのは

その頭の中の言葉にヤラれてるからで

 

その発想が出るのは

常に「自分が悪いから良くしなければ」としようとしてる。

 

そうしようとするのは

自分の存在が悪という前提だから。

素の私はいけない存在だと

自分が自分のことを危険視してるから。

 

でもこの自分が社会に出て、人と関わり、家族と関わる源なのに

最初からこの存在そのものが悪で危険としてるから

外に出ていくのにルールや制限や見張りを

いっぱいつけなくてはならなくなるわけでした。

 

頭の声はそのルールや制限や見張りの声。

しかもほぼ自動再生。

でもそれをどうにかしようとすることも

実は上手くいかないです。

これについてはまたの機会に。

 

今はといえば、自信がない事についてはどうでもよくなり

でも、あの頃とはまた別の課題を抱えているのだと思います。

 

 

なので今、自分がよく使っている口癖が何かを観察すると

無意識で自分のことをどう思っているのかのヒントにはなると思います。

 

例えば、使ってる口癖が「○○ない」という時

呼び込む現実も「○○ない」とその通りのものがやって来ます。

 

人は欠けている、不足の部分に目がいく習性があるので

それは自然なことなんです。

無意識では。

 

そう、無意識なんです。

苦しい自分に対しての接し方がいつも同じという意味で。

 

でも苦しいから色々やってはいるんです。

 

その「○○ない」という不足を見て、それをどうにかしようとする

というのが無意識的やり方です。

 

不足を見つけては取り組み

また別の不足を見つけては取り組み

と、ずっとそれをやり続けることになります。

 

 

例えば、今の私の口癖ってなんでしょうか?

 

「頼りない、だらしない、どうしようもない」です。

 

以前の「自信がない」は、実際追い詰められ

その恐怖過ぎる体験をしたが故に

だったらもう自信が無くてもいいわ!となり

 

出てこなくなった模様です。

 

そして、今やそれがどんな恐怖体験だったかも忘れました。

 

 

 

 

どんなに心で「○○ない」と自分や現実を嘆いても

この現実を作っているのは紛れもなく私自身であること。

誰のせいでも、何のせいでもないと

それを自分ごとにできるか? 

 

だからと言ってそれは、自分を責めることをする

ということではないんですけど

出ますよね。

でも出てもいいんですよね。

その踠きはある意味チャンスです。

 

自己否定という自分という鬼で責めて

心はどんどん疲弊するんですけど

 

「頼りない、だらしない、どうしようもない」っていう事実を

それは私の作ったものだと認めるんです。

 

例えば、

自分で選んだんでしょ?自分でやると決めたんでしょ?

お金だけ払っておいて、結局なにもそれについて取り組まない。

 

残念だけど私ソレなんですって

一旦ちゃんと認める。

 

自分を責めるという在り方の裏には、

実は誰かのせいや何かのせいにしてる自分を隠すのには

もってこいな在り方だったりします。

 

だから認めるということは負けたり降参するという事になるから

それを認めるのが難しくて

苦しいけどやめなかったりするんです。

 

 

今このどうしようもないと思ってる現実を作ったのは

私自身です、と。

 

責めることは長引かせて

認めるとは責めるという戦いの行為とは逆です。

終わらせる、です。

 

頼りなくて、だらしなくて、どうしようもない私でしたって

事でした。

 

 

 

そして

「○○ない」と自分を責める時に

周りの人も自分をそんな風に見ているに違いないと感じる時は

 

責めるという行為自体

周りに理由があったりします。

 

周りに見られてる。

だから、こんな酷い自分は責めるに値する。

それはまるで自分に制裁を与えるようです。

 

責め出す動機はいつも

私があなたにそう見られているから。

あなたが私をそんな風に見るから。

 

自分で自分を責める裏にはあなたのせいが隠れてる。

 

 

でも、それは本当なのか?

 

 

 

「あの山が美しいのは、山が美しいからじゃなく

自分の心がそう感じたからだ」

 

という言葉を急に思い出して

そのくらい全ては自分が作り出している。

 

外に正解はなく

 

それぞれの人の今の世界観があり

唯一その世界をどう見るかを変えていけるのが

自分の意識だけなんだろうなんだろうなと思ったのでした。