fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

与えてもらったら、その後《写真考》

川上村を出て、一旦東京の実家に顔を見せに

帰ることにしました。

 

東京から長野へ移住して3年目。

思い返せば東京以外の場所での長期滞在中、

そこにいる人達の人柄に触れて癒されたというのが

寒い場所ではあるけれど住む場所を変えても大丈夫だという安心感に繋がりました。

助けてくれたり、車に乗せてもらったり、物をお裾分けしてくれたり

そんな事をするのがただ好きだから気にしないでと言うけれど

今回の川上村での住み込み生活はかなりの頻度でたくさんの物を受け取ってました。

 

最後にみんなで夕食を囲んでいた際に

2014年に働いていたメンバーからの色紙が目に止まりました。

お世話になっていた農家さんは毎年同じようにアルバイトのメンバーに

沢山のものを与えていたんだという事が、その色紙を見ると伝わってくるのでした。

 

3ヶ月間過ごしたその家を後にする時、私は何もお返しせずに出てきました。

もちろん農家さんは見返りなんて求めてないのは知っていても

私の中で何かお礼を形にできればいい、という想いはあって

東京に帰ってきてから、その事を考えたりしてました。

 

例えば農家さんの好きなお酒を贈るとか、それとも食べ物か、とか

 

でも私が過ごした3ヶ月の中で、圧倒的に残っている思い出というのは

やっぱりそこの自然でした。

遠のきつつあって持ってこなかったカメラも結局取りに帰り

休みの際に撮影に出てました。

 

もう撮ることもないだろう、なんて思っていた程

今回は本気で止めると思っていたのに。

 

美しさというのが全ての始まりで

その為の煩わしさを頭で考えては排除に追い込もうとしたけれど…

負けた感じがします。

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

 

 

東京でフィルムを現像に出してプリントして送ろうなんてひらめきが

なんとなくやってきて

デジタル時代に後もうどのくらいで消えて行くものなのかを

視野に入れるのがアナログというものなんだ、というのを

誰かに見せたい思いが湧いて初めて実感する歯痒さ。

 

ポジフィルムからのダイレクトプリントは

もうペーパーがメーカーで終了していて

私のピンホールという手法を維持しながらそれを人に見せるには、

フィルムをスキャンしてデジタル原稿に変えなくてはいけない。

 

アナログへのこだわりを捨てない限り

私が撮影したものは、私以外の人の目に触れることはなく。

 

もう興味は薄れたと思った写真だけれど

結局それについて考えたり、話しをさせれば止まなかった。

 

以前ポートフォリオレビューという機会に写真を応募して

自分のコンセプトについて明確な答えがないことを書面で指摘され

実際に見てもらうまではいかなかった。

 

見た人が自由な解釈で見る事しかないと思っていたあの頃は

見せる側が意図的に誘導するような事を嫌っていたからだった。

 

アナログへのこだわりと、ピンホールという手法と、自然を撮影するというのが

手を加えない自然の表現=私(撮影者)の意図を加えない

だったのだと思う。

純粋さのようなものを望んでいた。

 

ピンホールカメラの持つ仕組みは

通常のカメラのようにレンズがなく

その小さな穴からフィルム面までは何も介さずにダイレクトに当たる光だった。

その裸の光が何を描くのか?

人の目でさえ水晶体というレンズに潜った光しか知らないのだから。

私は常に鑑賞者でいたい。美しいものをただ見続けたいという、それだけの。

もしくはそれに支配されたいとさえ思う程の。

 

でも写真を個人のものに留まらせず、伝える道具にするなら

私は意図を加えなければいけなくなるのだろうか?

それなら、美しさを独り占めしたいという欲求の方が楽でよかった。

 

もし、写真を人へ届けたいと思うなら

意図は加えなければいけないのかもしれない。

それが言葉になるような意図でなくても。

 

何も介さないことが純粋で無垢な光だということにすると

それを見せる為に私を介さなければ伝わらないというのは

なんだかタブーを犯してるような気がする。

 

自分が守りたいものは犯さなければいけないような

相反するものを許さなければいけないみたいな。

 

 

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