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日々のこと

fantasiaの為の研究ブログ

現実は行ったり来たり

書き方を変えるだけで、自分にとって書きやすかったり

そうでなかったりします。

 

「誰かに見せたくはないけれど…」という事を抱えていて

でもそれを言葉にする時は、ですますの文末形式は避けたくなります。

なぜなら開示してる感覚がより強くなるからです。

人に見せてる意識がそこに加わるからでした。

 

こんな些細な事で抵抗は感じるし

自分の書き方に拘ってるとも言えるのですが

共有する事に意識を向けられたらとも望んでいます。

意固地な世界の方が私は物凄く自由でいられる事を実感します。

それは、人の中では不自由にしか出来ない自分がいるという事でした。

 

 

食べる事について前の日記を書いた時に

純粋に美味しさを誰かと共有できる喜びを感じられた自分がいた事を

嬉しく思いました。

同時に私には、自分ひとりの時間がどれだけ貴重なのかも

今の住み込みの生活を続けてると感じる事だったりします。

 

昨日の夕食もお世話になってる農家さんと一緒に取っていたのですが

この人は本当に与える事を喜びとして楽しんでいるな、というのを感じていました。

そして子供みたいに楽しがったり嬉しがったりしています。

手伝ってくれてるのだから、こうして与えるのは当然だと言っていて

その与えるがお金だけというよりみんなで行くご飯や、遊びや、楽しい思い出や…

それは労働の対価をお金として与えればそれでいいという周りの農家さんからすると

少し変わり者のように見られたりもあるようでした。

自分の労働と引き換えにお金をもらう当たり前のルールも自分仕様で

他にも話しを聞く度にそのルール外な事が沢山ありました。

ルールを守ろうとしてきた真面目な私からすれば

そんな事が出来る方が凄いなと、ビビりながら聞いてます。

 

少し前にここを去っていったアルバイトの男性がいましたが

その人は農家さんからすると

とてもやりにくい相手のようでした。

もちろん私もその人にやり辛さを感じていましたが

ただ居心地の良さはみんな同じではないし

どんなに良いと思ってる事でも、そうではない人もいる

ということだけなんだと思います。

そして合わせるということを全くしない人だかこそ

環境や人の方に合わせて生きてきた自分のやってきた生き方は

消極的だったとも思います。

ただ争いたくはないだけですが。

 

全て多数決で決められるものではないのでした。

私自身も今の環境や人の中で刺激を受けながら、ただ全てを受け入れられるわけでもなく

それは自分がネガティブな側面や静けさも持っているからだし

食べ物に関しては固執してるし

でもそれは、例えば農薬の事を知ってる農家さんからすれば

出荷用の野菜を子供には与えないと言ってる事とあまり変わらないようにも思います。

 

食べ物を選んでいること、食べる事を敵視してること

過食の後の嘔吐をタブー視してること、

それを未だにしてる自分がおかしいと思ってること

そこには自分に持てない自信とまわりの目

 

なにより迷惑ということ。

 

ただここへ来て以前と違うのは、自分の好きな場所で食べるご飯や

美味しいものを食べた時の有難さや美味しさやその時間が有難いというか

食べ物を選べないから、すぐ側に好きなカフェもないから、

だからカフェでご飯できた時や、美味しいパンを食べられる事が

泣けてくる程だったりしてます。

食べていいんだよって自分に許可を出せた時に

食べられるご飯というのは本当にとても美味しくて感謝が湧いてきます。

全部自作自演で、なんて回りくどいんだろうと思いながら。

 

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ここに書き出す事は、私の無意識の世界なのかもしれません。

私自身の良い悪いを通してみた世界です。

 

今はどんな事もokにしたいとは思いますが

そうできないのものが沢山ありながら生きています。

 

今ここに書き出してる自分には何の問題もありませんでしたと

言い切れないことと

迷惑をかけることが関係してるみたいです。