fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

なんちゃってcolumn「東京セルフィー」

自分の人生の大半を毎日厄年かと勘違いできるくらいに

悲惨に過ごしてきたと思ってる私だけど

その理由を言えば、ひたすら自分を抑圧した生き方だったからで。

 

自分の気持ちは出す前に一々吟味して

出しても大丈夫か、それとも小出しにして

相手の顔色ばかり伺ってきた。

腫れ物に触るように、石橋を叩きまくって

それでも足りないと思っていた。

 

世の中怖くてたまらなかった。

 

でも最近自分の欲求と向き合う作業を繰り返す中で

もともと持ってる素質や性格にどんどん近づいてってる。

 

自分の本質をずっといけないものとして見てきたから、生きづらかった。

なんて言ってみても、自分の本質なんて実は全然分からず

いかに自分知らずで過ごしてきたか。

 

そして振り向きもしないくらいに放置して

認めてこなかったかというのは

本来の自分に近くなってきてるから出てくることで。

 

本来の自分っていうのは、きっと幼い頃の自分のこと。

あの頃の私は目立ちたがりだった。みんなから注目されたかった。

わがままで、自分本位。

それを悪いとしてしまったのが全ての始まりなんだけど。

だから私自身がずっと人の目を気にするキャラなのは

至極当然のことだったように思えた。

 

だって人から見られたいし、注目されたいって思ってるのが本来の自分なのだから。

 

例えば見られる仕事してる人って、どう見せたいかを考えてると思う。

見られることに何のルールも設けなければ

見せることにとても素直だ。

 

自分そのものを売ってるようなアーティストなら

自分の個性は自然に大切だし、合わせるというより、そこを守ることを重視するんじゃないか。

でなければ曝け出す意味もないだろうし。

 

特に美に関して携わってる人達はそうゆう所があると思ってる。

 

casabrutus.com

 

こうゆう写真を撮れる人を見たら、もうそれで刺激受けちゃうしね。

 

ココって思う最高の配置、バランス、流れ、雰囲気…

それらを探したり、組み変えたり、イメージを繰り返して

そうゆうの直感や感覚でやるんじゃないかと想像してみたり。

 

表現したい人は、考えてるし探してる。どこがいいか。そうゆうデザインを無意識に繰り返してる。

 

 

 

私がいつも自分のやってきたものを自分で評価できないのは

自分が実は表現したい方の人間なのに

ずっと人の目を気にすることはいけないと拒んてきたことが原因じゃないか?

 

見せたいものはあっても、偏見や評価を気にしていたら

表現の方法なんて出てきやしない。

 

例えば写真をやっててもどう見せるかが決まらなかったのも

他人からどう評価されたいかがずっと最優先だったから、いつまでも分からないし、決まらない。

 

自分に価値がないとそうやって人から貰おうとすることに必死になる。

 

だから自分で自分の表現を見せようとすることに携わったこと、

実は一度もないんじゃないかと思う。

 

このブログだって、書き方を変えられたのはほんの少し前からだし。

ライティングも自己表現のひとつで、

以前はどんな風に見てもらいたいかという無意識下で

何年もブログを書いてきてる。

 

やってきたことは全部自分じゃなくて、誰かにとっての正解を予想して言葉を選んだり飾ったりして

それもやっぱりデザインには違いないけど。

 

 

 

 

どの写真を使うか、どの順番で、写真だけかそれとも言葉もか…

そうゆうのは作品の、同時に自分自身のデザインになるんじゃないかと思うのだけど。

アラーキーにこんな写真集があったのは今まで知りませんでした。

 

 

 

私が東京の写真を撮っていた時は 

こうしたらオシャレ写真が簡単に出来るという手法で

それはどこか私のオリジナルとは言い切れなず…

なんていうか、凝りすぎて

素っ裸の写真が撮れなかったんだと、今更知った。

 

凄いって言われたい程に飾ってしまう。

 

言葉もそう。

 

あの頃は埋めて欲しくて仕方なかったよ。

 

 

 

 

久々に東京の街を当てなく歩きながら

なんだか眩しく、ノスタルジックで愛おしい。

 

 

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東京に戻ると写真を撮りたくなるのは、沢山の人の思惑が街に染み付いて、誰かの記憶が消えない場所だからと思ってしまう。

 

勝手に撮りたくなる。もう憑依かもしれない。 

 

渋谷の公園通りで

私の前を歩いていたのは森山さんの様に思うのだけど、それって偶然なのかしら。

 

 

 

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自分でも呆れるくらい、そのつもりになればいい。