読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

前回の続き

「些細なズレも許さない完成度の高さが持つ緊張感のその裏に、抑圧の影を見る。」

 

なんて、前回書いたわけで。

 

あまり調べることもしてないから、感覚で書いてるだけだけど

伝統として受け継がれるものも元を辿れば、生活の中で生まれるもので

ものづくりは生きてる人の知恵や工夫から生まれたり、装飾は祈りや魔除けの意味合いで付けられていることが始まりだったりする。

 

手仕事の始まりは物を大切にする事や素材を生かしたり、無駄なく使うことであったり

使い手ありきで、そこから形が完成されていったような気がするから

作ることは想うことかなとも感じる。

 

ここでは障害者と健常者とあえて使っていく事にして

この部分が障害者の人達と違う所なんだと。

目的は近い未来のことだし、作るものも完成されてからが本番であったり、他者に使われたりするものだから

 

目的というものができた途端に自分の行為は意味付けられる。

 

当たり前だけど、彼らのようにはできない。

 

でも一般の施設は、彼らのような人達を私達の生活に合わせようと指導するのが普通だから

しょうぶ学園のような試みは稀だし、たくさんの受け入れは難しいとも言っていた。

 

ほとんどの人間が社会という枠と折り合いを付けながら生きている。

 

本当はそうゆう所から私は出て行きたくて、

だからずっと前からだけど

障害を持つ人達がほんの少し羨ましかったりしてる。

それでそうゆう人達の絵や作品にやたら惹かれるんじゃないかと思ったりする。

 

ただ行為に没頭していられる時間がある人達が羨ましい。

 

でも障害を持つ人たちの「作る」というのは

私達側の都合であって

トークショーの中でも出てた、障害者とアートの関係も同じ事が言えるという話は

以前も別の展覧会で聞いた事がある。

 

兵庫県立美術館-「芸術の館」Anatomia Metamorphosis 解剖と変容 プルニー&ゼマーンコヴァー チェコ、アール・ブリュットの巨匠 アール・ブリュットの最先端がここにある! 2012年2月4日(土)から3月25日(日)まで

 

この頃は展覧会に行く度にメモをとってたからやたら疲れて、展示を見ていた。↓

 

http://pinhole-photo.jugem.jp/?month=201203

 

 

海外の作品は作り込み方が尋常じゃないからか

なんだか露骨に気持ちが悪いと感じたものが多かった印象。

 

例えば障害の種類で出来上がる作品も違うし

しょうぶ学園や、ねむの木学園の人達の絵もそうだけど

一部傾向はあるように思う。

 

プリミティブとか純粋とかを

作品それぞれに引き出されるけれど

立体になるとグロテスクまで紙一重みたいな。

 

 

 

不自由だって感じている中で

それでも自分でできる事ってどんな事だろう。

 

彼らは今に没頭できる達人かもしれないけれど

それだって、人の縁で押し潰されたり発揮されたりする。

大きな大きなコントロールの中にいるのはみんな同じ。

 

ヘンリー・ダーガーだって自分が死んだ後にその絵が生きてる人達の趣味で作品になったようなもの。

これがアートですって言ったもん勝ち。やったもん勝ち。続けたもん勝ち。

好きではあるけれど、そうゆう印象を持ってるのも確かで。

 

行為に枠を付けて飾れば、それは作品になって意味を与えられる。

 

自由が欲しいのに、その逆の意味あるものに欲が働くのも否定できない。

 

どんな所で、どうあれば幸せといえるのか?

それは人によって違うから

 

自分の幸せの形を知る事が大切なんだって思う。

 

芸術ほど自由に意味付けできる遊びを他に知らないけど

そうやって自由に自分の趣味嗜好でどんどん枠付けて

素晴らしい作品ですって自分の存在そのものに許せたら

それこそ豊かな気がする。