fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

工房しょうぶクラフト展 in LABORATORIO

松本にあるLABORATORIOで

しょうぶ学園のクラフト展示が20日から始まった。

しょうぶ学園を知ったのは
渋谷パルコのロゴスギャラリーで開催された
「しょうぶ学園の手仕事」展がきっかけだった。
 

www.parco-art.com

 

今こうして調べたらもう3年経っている。

 

その時に印象に残ったのは、布に細かく施された刺繍だった。

細かく入った縫い目は刺し子のそれと似ているようでやっぱり違う。

作り手の秩序の違いとでも言えばいいのか、

細かく並んだ縫い目で布は自然に手繰り寄せられ

まるでデザインされたシャーリングの様な収縮を見せていた。

計算されてできるものでもなく、あんな手仕事初めて見たと、驚いたのを覚えてる。

 

他にも木のお皿やトレーなどもあって

そこで小さな木の器を購入した。

彫り跡を見るたびに、なぜか今彫り立て!というような臨場感が消えない。

まるで生きているよう。

 

 

工房しょうぶクラフト展のオープニングイベントとして開かれた

上映会とトークショーに昨日参加してきたのだけど

彼らは手仕事の他に、音でもパフォーマンスをしていることを今回の映像作品で知ることになった。

 

sobutand1234.com

 

どの作品にも共通して言えることは、臨場感と開放感。強烈でダイレクトなこと。

それが物からも伝わるのだから

音やパフォーマンスとなると、そのエネルギーも半端ない。

だから直接公演などで触れられるなら、みんな泣いちゃうんだろうなと。

ちょっとダイナミック瞑想みたいだった。

 

舞台後方に立つ職員達と、主に打楽器やパーカッション、ダンスなどのパートを受け持つ

しょうぶ学園のメンバー達。

映像はドキュメンタリーで、公演の様子や練習風景、工房の様子

施設長の福森さんの後を追って映し出される普段の学園の様子に

職員のコメントなどで構成されていた。

 

映像のコメントの中で何度か出ていた

障害者と健常者と分けてる事。

 

2曲目の公演の演奏が流れてからだったか、

心の角で自分の方が正常だと思っている意識が揺らぐ事になる。

 

 

ステージの上では、明らかにしょうぶ学園のメンバーのパフォーマンスが大らかで自由でありのままなことが

健常者と呼ぶ私達の不自由さを、あからさまにしてる感じがした。

でも同時にお互いがお互いに補い支え合っているように見えた。

私達だけが彼らをサポートしてる立場なのではなく、彼らもまた私達のサポートをしてる。

 

障害者は一体どちらなのか。

 

型には決してはまらないその情熱を、私達は自由に引き出せない。

 

社会の中で上手く生きる為の術を身に付ける事はできても、

私達はどこかで葛藤や抑圧に慣れて、満足する事を知らない。

 

心の中は他の人には見えないけれど

自分だけが目にする不自由さにいつも縛られる事、窮屈に慣れ過ぎて縛られていることにすら気付かないことは

障害と呼んでも間違いではない気がした。

 

 

上映が終わってから

施設長の福森さんと今回の映像作品のプロデューサーであるイワタさんのトークショーへと続いた。

 

福森さんが現場で生で感じる彼らの様子から受ける影響を

細かい所まで聴く事ができた。

 

木を削る事も

削ってといえば、全てを削りきって

残ったのは木屑だけの状態だったり

ご飯を食べる時に、一粒づつ食べてる人や、

いつまでも水をぴちゃぴちゃたたいて

その感触をただ楽しんでいる人のことも

 

私達からすれば

そうゆう意味のない、結果のない行為ほど

なんの価値もないと判断して時間を優先したり、

結果を与える為に誘導しようとするけれど

彼らの世界からすれば、行為そのものに価値があって

 

福森さん曰く、

それを観察し続けてると美しいのだとか。

そういった行為を映像に収めたり、音で残したりして、後で確かめてそれを実感してるそう。

 

没頭する彼らの行為をプロダクトとして世に出せるものか判断するのも

福森さんの役目で

「~を作ってください」と指示して、指導することは

彼らの行為が単なる作業になってしまうと言っていた。

彼らがのびのび行為に没頭できるような環境を作りながら、自分もその中の一員として交わる一方で

製品としてのセレクトや、行為だけではプロダクトとして成り立たないような代物を

イデアや視点を変える作業を繰り返しながら

私たちに触れられるモノとしての価値に変えていくディレクターのような役割もこなしている。

 

 

彼らに触れて、

どんな特徴や癖や質があるのかというのは

私達の社会に合わせようと指導し始めるなら、気付けない事なのかもしれない。

 

同じように私達も、合わせる事に必死で沢山の自分の個性を殺して

気付けないでいることがあるんじゃないか。

 

 

健常者と障害者という言葉を使えば

それぞれがどちらも持っている要素。

 

私達の当たり前から見れば、彼らは障害者に当たるのかもしれない。

彼らの当たり前から見れば、私達は障害者に当たるのかもしれない。

 

視点をどこに置くのか。

だから健常者だろうが、障害者だろうが

1人の人間の中にこの2つのどちらもあるように思う。

 

どんな時も飾らずに自分自身である事を選ぶ時、

彼らの視点が私達に教えてくれる事は多い。

 

私一人の中にもし福森さんのような全体を見られる視点がひとつあると

私というひとつの個性がとても自由に発揮されて、同時に他者との繋がりも健全な形で結ばれていくようなイメージがしたのだった。

 

 

 

それと、職人の手仕事と彼らの手仕事の違いについて思ったこと。

それは比較などできないけれど、作業の連続性が強烈に爆発的に伝わってくるしょうぶ学園と

 

日本の文化に宿された、そこはかとない静けさが語る伝統美。

些細なズレも許さない完成度の高さが持つ緊張感のその裏に、抑圧の影を見る。

 

このことは個人的に感じてる事だけど、それと今から下に書くトークショーで言われてた話がちょっとリンクしてるように思えた。

 

 

不自由さの殻を破れない理由に

日本人が単数民族であることなどがあげられていて

秩序を守ることに徹しているのは、異文化の与える影響を受けないからみたいな話も出ていた。

例えば多民族であることで、自分以外の文化も日常に混ざってくるから

どうしたってお互いを知って受け入れなければならなくなる。

自分たちの文化しかなければ、それしか知らないから

そこから外れることが許されなくなる(制限のみ)だけど、

他もあると知ることになれば許可が生まれる。

いろんな制限を許可できない理由の一つはそうゆう背景もあるって話し

etc... 

 

もうこの辺の内容はうる覚えで書いてるけれど

ただ、日本人が自分の殻を破るというのは

そうゆうこともあって

相当しぶといということかもしれない。

 

殻を破ることが良いか悪いか、ではなく

 

やっぱり自分はどう在りたいのか?という所へ行き着く。

 

今回のトークショーへ足を運ぶか迷ったけれど

こうゆう好きなものに対する小さな行動の連続がきっと

私にヒントをくれるのだと思う。