fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

備忘録

f:id:haruradio:20160502201350j:plain

 

目で見える物が、触れられる物がリアルだと思っていて

感じる物が私だと思っていて

だからどんな物を感じてるかが重要で

 

でもこうして写真に収めようとする程、留まらないし、取っておけないし、囲えないし、私だけの物と欲ばれないし

そうゆう物を追えば追うほど、掴めない物を掴もうとする努力だけが目立ってくるこの頃。

 

以前、先生と何をリアルと呼べるかという話しになったことがあって

その先生が留学時代に絵の学校に通っていた頃の話しをしてくれた。

 

課外授業で美術館に行った時のこと。

少女が描かれているある一枚の絵を前に、

講師が少女の印象がどんな風に見えるかを生徒に聞いてきたそうで

この少女が病、または死にかかっているように見えると言った生徒が1人いたのだとか。

 

実際、少女が描かれた背景とその推察は合致していたそうで

その生徒は学生でもあったが

職業は医者だったという話しをしてくれた。

 

誰の絵で作品だったか忘れてしまったのだけど、

私はこの話しを聞いた時に忘れないようにしたいなとずっと思っていた。

 

時間を経て違う時代の私達の目に触れた時に、伝わるものはなんなのか?

目の前のそれは、物質としてはただの紙に絵の具で描かれたモノなのかもしれない。

でも画家が切り取ったものは時間を越えて

そこにある何かをごっそり切り抜けるほどの技術と感性で今ここの私達を圧倒させるのだから

そこにかける情熱だとかエネルギーだとか時間だとか…

絵という結果の中にこもってる何かを

私たちは絵という物質を通して受け取っているんだと思うと

自分の持ってるものを蔑ろにはできない感じがする。

ただ感じられる存在ってことが、どれだけの能力なのか。

備わってるものそれだけでもう、完成されて、完璧だった。


私たちはこぞって何を身につけようとするのだろう。

出来ないことを嘆くのは自分に対する冒涜のような気さえする。

優劣に気を取られてる時間ほど無駄なものもなく。

社会という集団が生む刃に騙されませんように。

 

感性や感覚は人によって違うけど、それを自分がいかに分かっていることが大切で、活かそうとするのか。

 

落ち込んで、落ち込んで

あぁ、もう2度と出会いたくない、繰り返したくないと思う時間でさえ

本当は責めることなどできない。

 

解決しようとする程にもがくだけだった。

そして、苦しみから逃れる為の方法は執着に近い。

 

そうゆうことを手放す為に、苦しみはきっと何度も私の前に現れる気がする。

 

それさえ与えられてる有難さ、なのかも。