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日々のこと

fantasiaの為の研究ブログ

好きなものちゃんと自覚してる?

先日、高校の同級が遊びに来てくれた。

色んなことを知るきっかけをくれたのはあの高校のお陰だし

出会えた友人達の影響は大きい。

 

それであの頃はファッションや映画やアートとか

少しクセやアクの強いものに惹かれていった。

決して万人受けするものでもなければ、むしろ呪われそうだったりするような

悪い世界にでも引っ張って行かれそうな黒さだし

ただそうゆうのが好きって言っていたいだけかも、と思ったりしていた。

 

でも夢中になってのめり込んでるものや、理由なしに信じてたり

話し出したら止まらないもののことを好きって言うんだと思う。

 

 

先日、どんな本が好きなの?なんて言われておもむろに澁澤龍彦と言っていて

しばらく読んでないし、そんなに好きって言うほど何も知らなかったりもするのだけど

それからなんだか気になって

NHKの澁澤特集をたまたま見つけて、見入っていた。

 

m.youtube.

 

結局好きなものなんて、そうそう変わらないことを自覚したら

過去の自分をどんどん肯定できてくる。

 

何もかもが殺伐とした環境に感じて、常に生きることに後ろ向きで

穏やかさとは程遠い日常を写真にしていた。

外に出るときはイヤホンをして、儚なそうなものばかり見て写真に残して

悲しみたかった。

自分を嫌って醜さを嘆いて常に鋭さや危うさを抱えていて

例えば死や闇やグロテスクや

ただただそうゆうものへの憧れがどこかにあったのかもしれない。

全然軽くない、悲壮感で世の中を楽観出来ない自分を嘆いたけど

 

私が好きなものを作った人たちはエネルギッシュでパワフルで

そしてその時代もまた同じだった。

辛かったあの頃の私もある意味でとてもエネルギッシュだった。

行動の量もやることも、無理してでもそうしていた。

そうゆう私を笑っていた友人もいたけど、緩くないし強引だった。

自分の世界に閉じこもって必死だった。

もう捨ててしまった写真や絵や、書き残していた言葉を思うと

あの量産体制は価値あるものだったんだなと思うし

行動するのに利口さがない感じは今もだし

 

でもそう思えたら、あの時の底なし沼のような繰り返しの日々が

なんだか眩しく思えてくる。

 

自分が人と違うことを自覚するって、できないことを認めるってことだと思った。

 

みんながいいねと言ってくれるような自分でいなくていい。

ひねくれてるのかもしれないけど、自分の闇の部分にいいねって言えるのは

自分だけだったりするから。

 

もうみんなから褒められることを追いかけなくていい。

それを家族に理解されなくても、

自分の好きを自分にだけ許すように貫いていい。

そうゆう好きがあってもいい気がする。