幸せのためのエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

自分の性をそのまま受け入れること

書くことに勇気がいると思うのはそのことに恥ずかしさがあるから。

恥ずかしさをちゃんと見て当然のこととして受け入れられたとき、自分のことも理由なく受け入れられる。

そのくらい性のことと自己肯定は繋がってる。

以前もこのことをブログで書いてはいるけど、過去記事を遡るのが面倒だから

改めて今の感覚での備忘録も兼ねて残すことに。

 

過去に性的なことでトラウマを持ってしまうと

何も考えなくてもそのままの自分でいいとは言えなくなる。

自分のどこに良さを見いだせるのかさえ分からなかった。

常に考えずにはいられなかった。

自分に問題がなければ何も考えないし悩む事もない。

 

 

性的なことでなくても経験をトラウマとか罪悪感にしてしまったら、やっぱりそこは生きづらくなる。

トラウマを持つと、その痛みの経験に2度と触れたくないから

そのことを自分自身で隠して分からなくしてしまう。

今は過去を整理できてるからこうして書けるけど

最初のうちは性的な事が自分のトラウマになってることさえ分かっていなかった。

 

自分で自分を恥ずかしいと思う存在にしてることがどうゆう状態を作り出してきたのか、このサイトを見たときに納得した。

 

人間の意識レベル[恥]

 

自己評価は誰よりも低いだろうと思っていて、誰よりも下に見てたのに

実は自分はスゴイと思ってる部分もひそかに持っていたけれど

批判される事からは逃げたいから、自分を低めていた。

 

頭の中で自分が思ってる事は他の人も同じように思ったり考えていると錯角してしまうから

周りも私を認めてない、もしくはしてくれる評価も社交辞令だと思ってきた。

自分を信じられないから、他人も信じられなかった。

 

自分がなぜそこまでに自信がなくて、自己卑下が止まなくて、責めることしかできなくて…

普通になりたいと願って、周りはそうゆう普通を生きてて、自分だけ一人黒い点のように思えて

なぜ自分の存在をそこまで自分が嫌がっていたのかが分からなかった。

 

 

その理由の大本にたどり着くことができたのは、生きようと決めた事が大きかったと思ってる。

もう生きるしか道が残されていないという諦めにも似た感覚から全てが始まった。

分からないと言っていたのは、自分の過去が悪いものだらけだったから。

悪と決まってるものに自分が加担していたから、手をつけない、変えられない、触れない部分にしていた。

分からないことにしている方が自分の悪に触れなくて済む。

汚いものには触れたくないと思う感覚と一緒で、でもそうゆう感覚を持ってると

いちいちめんどくさいことをしなければならなくなる。

 

見ないように遠回りしたり、

溜まってるのにいつまでも捨てなかったり、その逆で汚いから必要以上にいつまでも洗ってたり、

些細な汚れで異常に細かく掃除してたり…

そんな風なことを自分自身にするから生きづらいんじゃないかと思った。

 

自分は悪いモノであるという認識=罪悪感

 

性的な行為や体感覚、それに付随してる性表現の数々…

嫌悪感でしかなかったものとあえて向き合うことにした。

 

いやらしくて、卑猥で、汚らわしくて

そうゆう言葉でしか自分を表現できないくて、とても受け入れるなんて出来そうになかった。

 

でも、誰でもみんな父と母という男女の二つの性からやってくる。

どんなに嫌ってもその事実はリアルで人間の原則だから。

 

自分の存在が性を通してやってくるのなら

そこを否定してしまう事自体、自分の存在の否定になる。

 

ここを受け入れられないという事が自己否定に繋がるのは

ある意味当たり前の構造のような気がする。

逆に歪んだ性を持たせれば、自己否定の構造を作れてしまう。

 

自分では大したものになってしまった痛みの経験も

他人から見ればそれ程でもないかもしれないし

他人も自分同様受け入れられないかもしれない。

 

結局それを決めるのは、自分しかいなかった。

 

 私はずっと自立を求めてる。

 

それは自分で自分の事が出来ること。

 

自分の中に湧いたものがどんなものであれ、ただ見守ること。

 

誰かや何かのせいにしないこと。