幸せのためのエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

「気のせい」っていう独り言

ここ最近は常に誰かと何かをしてる時間がだった。1人でふらっと過ごすのに慣れてる私にとって、ほんの数日なのに盛り沢山で、なんだか台風のような凄いエネルギーが一気に去ってくような感じがする。

そのせいかどうかは分からないけれど、日々現実味がなく自分の見聞きや感情さえ幻のように思える。だからか、自分の中で何かを感じる度「それは気のせい」って言葉が頭をよぎってくる。

 

楽しいことも、嫌なことも、緊張も不安も…疲れることも、お腹がすくことも

全てに「気のせい」を当てはめたくなってる。

 

ずっとみんなが楽しいと感じられる所にいた。

でも自分の楽しみがその場所にあるかどうかは分からない。そしてみんなと同じように楽しめなくても構わない。今はそんな思いがする。

楽しみを心から感じてる人はそれが嬉しくて何かを自分からしてる人、与える人って印象がある。

私が感じたいと思ってるものは、自分からやらないと感じられないものなのかもしれない。

誰かの嬉しいや楽しいという用意された船に乗せてもらってる日々、

今気のせいだと言いたくなるのは私が与える側にいないからだとも言える。

だから自分が今まで選んでやってる好きなことや楽しいことを見直すきっかけになってはいて、ただただ好きや楽しいで始めたものの前で少し立ち往生している。

全てが気のせいだったとしたら、自分にとっての気のせいではないことは

探すのではなく決めることなのかもしれない。 

 

そして確かなこと、リアルって何を持ってそう呼べるのだろう

といういつもの疑問も始まってしまう。

 

このことは写真をやってる時から持ってるし、追求でもあって

写真を撮らなくなった最近は忘れていて、分かりそうもない難しそうな哲学に

知識が追いつかない自分が頭を使ったところで何も出ない感じがしたからだけど。

それを言葉で探そうとするだけ、たどり着かないもどかしさ。

だからこそしつこく追いかけて投げてみたい問いかけだったりする。

 

気のせいを繰り返そうとするのは現実から目を逸らす為というより

自分の感覚に疑いを持っているからかもしれない。

人は自分の感覚を頼りにいろんな判断をしている。この感覚に頼りきって疑うことなどしない。そんなことは当たり前だし

同じようにみんな持っているのに比較しようのない領域にそれらはあるから。

言葉で表せても、例えば自分の空腹の感じ方と人のそれが同じかどうかはどうやっても見えない。視覚さえも、同じものを見て色の感じ方も光や暗闇の感じ方も違うだろうから。

感覚ってそうゆうもの。感覚って曖昧なもの。でも自分にとっては確かだと信じてるもの。

感情、刺激、痛み、五感、空腹…

私たちはそれらに絶えず反応している。

食べること、守ること、責めること、行動すること、やめること…

感覚を経て全部どうするか決めてきてる。

心が壊れて感情が停止することもあるけれど、そうすることで暴走しそうな強烈な一部の感情を全部の感情をショートさせるまでして全力で抑えてるような気がしてならない。

 

人が病になるのさえ自分自身の選択の延長だったり、体からの当然な反応で

悪いことではないような気さえする。

 

繰り返される無意識の反応に一言「気のせい」ってつぶやくのは

自分自身のその感覚は信じられるものなのかという問いかけなんだろう。

過剰に反応する部分や依存的な何かは生きやすさを奪う。お金がかかったり心に負担がかかったりする。

お酒、タバコ、甘いもの、嗜好品、洋服、金品…モノが心を救ってくれることはない。

薬が心を救ってくれることものない。他人が、宗教が…心を救ってくれることもない。私はそう思っている。でもこの感覚さえ「気のせい」なんだと。

過去の経験から、色んな情報から自分の感覚は作られていく。

強烈な痛みを経験すれば、同じことがないように自分を守ろうとする。

同じことが起こる想定で構えれば、人も場所も変わっていても

痛みの感覚を忘れないから同じ過去を何度も経験して今という新鮮さが入り込めない。

自分で大丈夫って言えるようにするのだって本当は今そう言えることなのかもしれない。経験が伴わないとそれを認められないのが人って生き物なのかもしれない。

でも生きるってそうゆうことなのかもしれない。

 

自分の中に出てきたものに支配されてしまうと思い込んでる。

感情が自分よりも大きなものになってコントロールが効かないものだと思い込んでる。

怒りをぶちまけたり、恐れに取り込まれて身動きが取れなかったりする。

その感覚が自分より大きなものだと、そこに小さくした自分を用意してどうしようもないと信じて疑わない。

自分の感覚が生きやすさに繋がるならそれは信じていいものだけど

うまくいかない何かに気づき始めたら、自分の感覚こそ気のせいと言って

受け流してしまえばいいと思ったりする。でも強ければ強いほどそうすることは難しいだろうけど。

 

笑ったり泣いたり怒ったり好きになったり嫌いになったり、そこに体の感覚もついてくるから本当だと大騒ぎできて

でも体の感覚だから本当だと言えてしまうのも、

生きているうちの戯言なんだろうって、思ったりしてる。