幸せのためのエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

自分の苦手にようこそと言えない時

自分の苦手をようこそと迎え入れる必要なんてどこにあるんだろう。

でも辛さや苦しみと向き合うのは結局、自分を大切にすることだから。

 

私の世界には好きな人と嫌いな人がいて、嫌いな人のことを苦手な人という表現をしてオブラートに包んでいる。どこかで相手のことを許せなかったり、自分のそうゆう思いを許せなかったりしている。

居心地の悪さを避けるために、その人を遠ざけようとする。出会わないようにする。

本当に出会いたくないのはその人と出会ってしまった時に出てくる自分の思いなのに。

自分の中に同じ要素がない相手ほど案外うまくいく。自分の中の良い悪いが同じ、価値観が同じ相手もうまくいく。自分の中の許せないものを表現してくる相手こそ苦手だったりする。

私が我慢してることをぬけぬけとやって生きてる。私は努力してるのにあなたはそれをしない。

そうゆう見えない想いの現れとして苦手な相手がいること。

 相手の気持ちを想像するときはいつも自分の気持ちを元に考えを巡らせる。だってそれしかできないから。

こうしたらこう思うんじゃないか、という予測はいつも自分がそう思っているからで、相手が同じように考えて、同じ気持ちを抱くかどうかなんて分からない。

 

今は足枷のように思える小さい頃に教えてもらったこと。

「人を傷付けてはいけない」という制限は自分を傷付けない為のお守りのようで

「人の気持ちを考えなさい」という誘導は好奇心を削ぐ魔法の言葉のようだと思った。

自分が傷付いてもいいと言えるのは、そこに弱い自分がいることを認められた時だと思う。傷付く事も例えば笑うことも何らかわりなくそこに在るもので、

それに拘りを持つ時、その自分ではダメだと思ってる時、今の自分を否定してどこか理想の自分像を思い描く時

傷付くことがいけなくなったり、笑うことが良いことになったりする。

鬱っぽくなった時は明るさを求めたし、傷付くことが怖いときは、強い自分を求めてる。

いつだって今の自分でいいと言ってきたことなどなかった。いつも自分の中は争いが起こっている。

生きているものがロボットのように常に同じ状態を保つのは不自然なのに、人がそれを求めるのはそうやって教えてこられたからだったりする。

最近、苦手な相手が現れた時にやることがあって、それは外国人や宇宙人くらい違うって思っていい事にするというものだった。

苦手な相手が自分では受け入れられない個性なのは、そこを直そうとしたり変えなければならないと思ってる自分の個性で、そこには執着があるからだった。

自分と同じだと思うから許せない。相手は何も知らない。そうやって一旦自分と切り離してみる。

この国のルールも法律も正義も悪も…何も知らない。そんな相手にどう取り組んでも相手が耳を貸すだろうか。相手を変えようとする努力を、何も知らない外国人や宇宙人にする根気が自分にどれだけあるだろうか。

人と人という単位も国と国くらいに違いがあると思う。その人の習慣がある。その人が守らなければならないと思ってることが自分のそれとは同じだと思わない方が

相手を尊重できたりする。相手のそのままを受け入れたりできる。

 

自分の苦手に取り組むっていうのが、ネガティブな感情にただ留まり続ける事だと思っていたり、そのネガティブな思いが抜けるのを待っていたり、何かをすることで外そうとかなくそうとしていたり…そんなことを繰り返してきた。

自分を変える努力の方はたくさんしてきたけど、自分を受け入れる努力というのはなかなか難しくて。

それは自分以外の人に対して思うことと同じなのだと思う。相手のそのままを見たくはなかったりする。

相手の弱さを、相手の傲慢を、相手の冷たさを見たくはなかった。

でももしそう思ったなら、本当はもっと優しくしてほしいとか、興味を持って欲しいとか、そんな怖い顔して欲しくないとか、怒らないで欲しいとか、批判しないで欲しい、拒絶しないで欲しい…そうゆう自分の思いはどこにもないだろうか。

相手の行動からそうゆう自分の寂しさに気付けるだろうか。

そしてその寂しさをちゃんと抱え込めるだろうか。

 

ここまで書いたけど、結局は執着があって、受け入れることに必死な自分が見える日記だなって思うんだよ。