幸せのためのエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

続き

身体がダメになるほどに色んなダメが私を包んでいくのだけど
私は喜びを感じる瞬間を探す旅へ出ても、それを感じられなければ、受け取れなければ全く意味がないという感覚の方が先にやって来てしまうようで。
それでもそうゆう自分とどう付き合うかなのだろうけれどっていうのが今の感想で。

ここから下は先週感じてきたこと。

松本から東京へ帰ると、いつもその人の多さや忙しさや苛立ちや閉鎖的な感じばかりを見て
ああ、この街はやっぱり...と思ったりしてきた。

ずっと東京の街を写真に撮ってきて、都会の美しさが好きで、おしゃれでアートに感化されてきた生活と
上にも書いたような都市に集まりすぎる人の多さや、余裕のない感じや、閉塞感の方ばかりに取り込まれて、結局私はこの街にいれなくなったから飛び出したんだと思った。
移住の理由が本当はそんなんじゃないと思ってきたけど
振り返ってみれば東京での毎日は、追い詰められるようで、でもそれが嫌だと自覚できるほどの余裕さえなかったし、その状態でいることを自分に課してたようにも思う。

東京に出てくる度、そうゆうネガティブな側面とクリエイティブでパワフルな側面とでは、感情的に引っ張られるネガティブな方が先に出て来る。

今回弟の結婚式は新潟で行われた。私は東京経由で弟の結婚式に参加したのだけど、短時間で地方と都会を往復したからか、今まで感じた東京へのイメージが少し崩れたように思えた。
相変わらずあそこの街はイライラと忙しなさが詰まっていて、近くで喧嘩が始まったり、私にかどうかは分からないけど怒鳴られたりがあって
いつもならそうゆうものに耐え難くなるものの、
今回は、ドキドキしながらも「ああ、そんなこともあるよね」くらいで切り離せた。

松本の自然の風景の中で癒されると感じていたものに慣れてしまったのかもしれない。
人の怒りやイライラがそこにあると認めると、その対局にある人の優しさも特別ではなくなっていくような感じがする。
人に優しく出来る人は優れていて、それができない人は劣っていて
なんて評価を無意識の内に自分や他人に重ねている。
人の気持ちに気付けない、人に優しくなれない、冷たい自分は駄目な人間か。それができないあの人は駄目な人間か。
気遣いのできる人は、思いやりのある人は、何だかずっとそうゆう誰かを追いかけてる気がした。例えば、優しくなかったり社交的ではなかったりする自分を感じて居心地が悪いのは、そのせいなんだろうと思う。

東京で自分の好きなものに触れてきた。そうゆう時間は松本に来てからは少なくなった。
今思えば、好きなものでバランスを取っていたのが東京の過ごし方だった。
松本はそうゆうものもが少ない、というより東京では必須だと思ってきたものが、こちらではどうでもよくなってしまう不思議。
モノがたくさんあるうちはそれに満たされていたし、好きなモノや好きなコトがどんなものかで自分というものを作っていたのかもしれない。
私はこんな人間です、と言える何かを探していたのかもしれない。
自分で自分を満足させることより、どんな風に見られるかに怯えていたから。

だからといって、好きなものが変わるわけでもなく。
東京に戻った時、久々に立ち寄った古着屋で流れていた曲にすごく惹かれた。でもこのアーティスト、以前PVを見たのは覚えてはいたから、それが何となく不思議で。youtu.be


女性であることを思い出したし、なぜか披露宴での父を思い出した。いくら嫌悪しても自分の性からは逃れられない。
私のタブーは性に関することだったから、その曲で出てきた女性である事実と、産まれてから初めて接する異性というのが父だという事実を、未だ受け入れられない所はあっても
その古着屋で制服以来初めて膝丈のスカート購入してる自分と出会えたのは新鮮でならなかった。

ちなみに思い出した父のことというのは列席者への挨拶の後のこと。

弟の風貌は父の世代からしたらナンセンスで、披露宴で畳だった会場に裸足というスタイルだけは許せないようだった。用意した挨拶の後、弟の特に「裸足で」というのを申し訳ないと誤り、俺はそれだけは許せないと心底訴えてる様子だった。
弟たちも今回の式はオリジナルで作っていて、会場こそ品のある日本特有のホテルだったけど、式のスタイルもお友だち手作りのお嫁さんのドレスも、引き出物も、海外で暮らす彼らの色が濃く出たものになっていた。そこは譲れないようだった。だからプランナーさんやホテルの人達にも感謝してもしきれない様子でいた。

弟にしても私にしても、あの父親にしてこの子供たちなんだと思った。
みんな自分のこだわりを譲らない。私は我慢せずに最後に一言言った父の姿も、今回の式を作った弟とお嫁さんの姿も、そして私自身も同じ空間に交わることのない違いがあってもそれでいいんだと思える機会になってよかったと思っている。

と同時に、自分の中の漠然とした希薄さが気になっていて、それは最初に書いた喜びを感じられるかどうかに繋がっている気がしていて
つまりは、自分の中にあるものを人は感じるし受け取っているのなら
私には「それ」が有るかどうかが分からないでいることと、「それ」に触れても気付けないで終わるんじゃなかろうか、と思うことだった。