fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

タブーにしてきたこと

弟の結婚式を機に、私には人に言えないことがあるというのを思い出した。

ここのところ家族とあえてコミュニケーションをとろうとしてる。スキンシップも。
「あえて」じゃないとしないから。することで出てくるものが自分にいい影響を与えると信じてるからで。
ただ出てくるものが良いものかどうかは別だけど。

人に言えないことなら無理に何かしようとしなくてもいい気もした。でも最近はそこを「あえて」する。
ただ今回のことに関してはそれができる勇気が自分にあるかも分からなかった。


最初に両親に打ち明けた。結局父に面と向かって言うのは出来なくて、布団に入った後に母に伝えた。でも父も話は聞いていたと思う。興味があればだけど。

その後、なぜだか母が自分の生い立ちを話す流れになった。
複雑な家庭環境だからこそ、血の繋がりだけが家族じゃないことを知ってる人だった。私はこの年まで母の家族構成もよく知らなかった。
みんなが支え合う中で、自分以上に大変な思いをしてる兄弟に、自分の問題を語ることをしなかったし出来なかったというのを聞いた時
ああ、私はやっぱり甘いのかと思った。そして、そうゆう部分を自分が認めたくないんだと思った。

母の過去と私の今が交差して、私は自分がタブーとしてきた過去に対してどんな風に思ってるのか改めて考えた時、出てきた言葉が「軽蔑」だった。
ああ、私は自分を軽蔑してるんだ、と口にした。

軽蔑された状態を自分の中に作り出すことで、つまりは罪悪感を持って生きることで
私は違う!自分が異常ではなく正常である!と主張したかったんじゃないかと思った。
罪悪感とは自分に罪を与えてる状態。お前は悪者だと自分が指摘してる状態。それが他人なら四六時中とはいかない。でもそれを自分の中に住まわせてるから四六時中責めてる状態。
他人の目に怯えるというけれど
実際他人が四六時中ひとりを誹謗中傷するなんてこと
なんてまれな話で、(この前TVで隣人がストーカーになるってゆう話は見たけど)
そうゆうことをする人は何人もの人の色んな事柄を取っ替え引っ替え誹謗中傷し続けてたりする。見張るように自分ひとりに攻撃ができる可能性を考えたら、それは自分自身の方が確率が高いように思う。


過去に起こった想いも出来事も変えられない。変えられるのは自分の過去への認識だと思う。それはいつでも出来る。
私が過去の自分の行為や想いを異常だと思ってるなら、その異常さもある自分だと諦めて認めること。
そうする為に私は母とは違って自分の問題をひとり内に留めるのではなく、打ち明ける形を取った。私が問題だと思ってきたことは家族の中で起きたのだから。

弟にも同じことを話そうと思っていると伝えたら、母は今更、しかもこのタイミングでそんな話をして何の意味があるの?とか
認められる為とか受け入れてほしいとかないなら、過去に起こったことをむし返すようなことしなくていいし、幸せになろうとする彼らにとってむしろ迷惑でしかない、とか
そこは私と同じ心境だった。それは同姓だからだと思う。

そこに答えなどないことは何となくわかっていたけど
関係を壊してしまうかもしれない恐怖と、そんなことをするような相手と思われる白い目。
ただこうしてひたすら話をしようとするのは、あの時の私を知っていて、助けてくれたのは弟だからで。
関係性を壊したい訳じゃない。信じたいだけ。
そんなんで壊れるほどの関係でもないとどっかで分かっているからで。

結果、話しを大きくしてるのは自分だけだった。
それでもやっぱり私にとっては重大だった。

人は自分と関係がある事柄に反応する。私の心配と母の心配が重なったのは自分達が女性として、そして姉と母として関係があるからじゃないだろうか。
男性はこの辺のことに無頓着だから、というのを実感する。

本人が抱えた問題に自身で「そんなこと」と言えるまでどのくらいの時間が必要なのかは知らないし
「そんなこと」という事柄に抱く大きさもその人によって違うんだろう。
関係のない人間にとってはどんなことも「そんなこと」になる気がした。

経験してきた事は無駄じゃないけど、人が固執することで失う時間の大きさを考えると、行動する勇気はほんの一瞬で終わった。


家族とあえて話すということを重ねる度、感じたことがあった。
人に理解や共感してもらおうとして話をすることは空しいことだと感じる。
近い存在ほど共感が遠くにあった。
私はずっと家族に認められたかったのかもしれない。家族の中で自分だけが孤立してると思える。そうゆう寂しさや悲しみがやって来る。
でも私は自分のそうゆう感性をもう特別だとは思わないことにした。そこに原因を作らないでいい。そこになんの努力もしない。
それともたんにヘソ曲がりなのだろうか。
大切にしたいものが違うだけじゃないんだろうか。

弱さに留まる為に悲しみはある訳じゃない。でも強くなる為に寂しさを敵にまわしてはいけない。
自分の流した涙を無視しないで初めて、私はあなたに理解されなくてもいいと、自分が一番愛されたいと思ってる人にも普通に言えるようになるんじゃないだろうか。
強がるでもなく、ごくごく普通のこととして。

そうゆうのは自立だと思っていい気がする。