fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

「どうせ死ぬなら」 ここ最近のちらほら

どうせ死ぬなら今何をやっても無意味っていうのも

どうせ死ぬなら今やりたいことをやるってっいうのも

どうせ死ぬならみんな同じ気がする。

私は私に何も残せないから、残せるとすればそれは後に続く人のものなんだろう。

自分のために残せるものなんて何にもなくて 、だから自分のために残せるというのは生きてる間に限るものなんだろう。 人がモノに執着するのは当たり前だし、そうしなければならないのも生きいるからこそだけど。

 

あなたの意見が正しくて、あなたは間違ってるなんて言えるほど人に違いなんてないのに、物に限らず経験や知識も持ち物にして違いを自ら生み出そうとするのは、比べなければならないほど自分に確信が持てないから。

自分そのものに問題がない人ほど比べるなんてことも必要ないんだろう。

 

 

自分の中の好きと嫌いを好きなものだけにすることもできないと思いながら、自分の中の嫌いを見るたび不機嫌な思いをするのは、嫌いという感覚をないものにしようとしてるってことなんだろう。

ちゃんとした大人であるべく、あれもイヤこれもイヤ、あの人イヤこの人イヤって思ってしまうのは大人になりきれない子どものやることだと。

でもあれもこれもどれも嫌ってしまうなら、そこに諦めを使ってもいい気がする。どうせずっと嫌なままでもいられないだろうし、どうせずっと好きでもいられないんだから。

そうやって嫌いと好きの間で揺れるように生きていると思っていたけど

自分の嫌いを認めると、相手が問題だというよりも嫌った感情の方が溶けていく感じがする。

例えばこの人嫌だなって思わないんじゃなくて、密かに思いっきり嫌ってみたらいい。問題だったのは気持ちに素直ではないって事の方だったりする。

私には嫌いなものがいっぱいあるから。小さい頃から沢山のわがままを言って母を困らせていたのがその証拠だった。

母はいつもそれを見守ってくれていたんだろう。とても骨の折れる仕事もここまでだと諦めるしかなかったんじゃないかと思う。

今私の胸の中にもそんなただ見守るだけの母がいて

大人になった子供のようなわがままを頭ごなしに叱らない母が住むようになった気がする。