幸せのためのエッセイ集

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「ある」と「ない」何が反転するのか。お金から神様まで

今日もお金のこと。
お金ってすぐに変化として現れるものらしい。「ない」を連呼してた時は本当にない毎日で、今は「ない」と言ってた代わりに「ある」を心の中で連呼してる。そして不思議なことに実際あると言える現実が続くようになってる気がする。
とは言いつつ、実際に働く時間を少し増やしたり、支払いを少なくして調整してるからなのだけど。
ただないと言ってた時との違いは気持ち的に安心感が広がっているからで、心に余裕ができたこと。知恵や工夫や閃きが生まれるようになったこと。環境を変えずに働く時間を増やせたり、支払いを安く済ませられるようになったのも閃きやはからいのように感じる。
そして何より、使えることに感謝できるようになったこと。以前と大きく違うのはここかもしれない。
お金の為にただ働くという選択はしたくないけどやっぱり探してはいて、でも「ある」為に今持ってるものの中で探すようになったし、そしたら「ない」時は見つけられなかったのに「ある」になった今見つけられたりしてる。だから尚更「ある」と言えてたりする。
もし言葉を変えただけで渇望している状態ならそれは「ない」の延長なんだろうけど、そうゆう状態なら「ない」為に今持ってるものを否定するんだろうと思った。
人は自分の環境を自分で作っているのかもしれない。その時どんな言葉を多く使っているかでその人の現実がどんなものか見えてくる。
ちなみに私の場合で言えば「自信がない」から「お金がない」に来て、今は感謝と「ある」について意識的でいようとしてる。
そして自信がない頃の私と同じ状況にいる人と今出会ったりしている。だからその時の私がどんな思いでどんな言葉を使っていたのかをその人通して今見せてもらってる感じがする。

「ない」から「ある」に変えたきっかけとして、お金の価値なんかで自分を計れないことに気付いたことが大きい。というよりその気付いた事で言葉を変えられた。
暗黙の了解のような当然の価値観も本当に腑に落としてたらお金に振り回されたり、ないことに嘆いたりしないんじゃないかと思えたから。色んなことがお金を理由にできなくなるんじゃないかって。
お金をもらってるからちゃんとしなきゃいけないとか、
この時間まではお金が出るけど、その時間を少し過ぎただけでも嫌な気分になるのは、お金と自分を同じスケールで計ってるからだと思ったりする。人の単位とお金の単位は違うから比べられないのに比べてるような。
この作業だとこのくらいの金額で、この野菜はこの品物は、そしてあなたの時間はあなたのやったことは...全てがお金の単位で計られる。でもそれらって実は全部お金じゃ計れないもので。
数字にできない価値をお金で見積もってるのが社会なんだと思った。
お金はただの代替えでしかなくて、本当に受け取っているのは他の命であり、他の人の知識であったり行為や労働や時間だったりする。
だから目に見えて手に取れる物は見えないモノが関わった結果だった。
そのうちお金は物を通して見えない命への感謝として使うものなんだろうと思うようになった。相手への恩返しとして、お金は使う人の欲しい物にいつでもなれる素晴らしいチケットだから。

それで神様までと書いた理由は、目に見える物が目に見えないモノの結果なら、見えないモノの方がいつも最初ということになるからだった。
神様は目に見えないモノで人が曖昧にしてる代表のようなものに思えた。そのカタチは人によって国によっても全然違う。曖昧だからこそ自分で設定していい気がしたから。
そこにあると決めた(信じた)人からあるという現実がやって来る。同時にないと決めてる人もそこに居続ける。あると決めてる人の中でも神様がどんなものかも違う。
宗教上の神様はその組織の中で教えがあったり、写真や絵のようなイメージがあるから断定的になっている。
私の中ではそこらじゅうにあるものが神様なんじゃないかと思うようになっている。そのくらい自由にある、そしているものだった。それはなぜかといえば感謝の対象は全て神様に思えたからだった。でもそれは私の中の話しだけど。

あるとない、ネガティブとポジティブ、善い悪い...真逆の2つは最初からそこにあり続けていて、最初に自分の信じたセカイに居心地が悪ければそこに留まろうとする必要もなかった。
どちらもあるセカイの中でそれぞれの人がいつもどちらかを最初に決めている(信じてる)。その結果が現実だった。

恐れや苦しみを乗り越えた先に、楽しさや喜びがあると信じている間は、何を見ても受け取り方が恐れや苦しみという方法だった。先に恐れて苦しんでいた。それはお金のあるないも同じ。
何かをした先にあるという未来を捨てて、喜べる何かを今探せばいい。それは大きくなくていい。喜ぼうとすればそれは毎日必ず見つけられる。見つけようとする意識が芽生えたら、もうそこにあるものなんだろうと思った。

私の中の反転それは多分、目に見えるもの全ては目に見えないもので出来ているという認識のことだと思うのだった。