fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

ありがとうを言う相手

自分が「ありがとう」と全てに快く言えたなら、見てる世界はとても豊かで穏やかで争いのない世界になるんじゃないかと思えた。
最近、意識的に自分の中に出てきたもの全てに「ありがとう」を言うようにしてる。全てに。←ここが肝心
目に見える相手も大切だけど、今は意識的に見えない自分の内に向かってそうしている。 嫌な気持ちがしてるのにありがとうなんて言えるわけないけどって思いながら。
すると良いと感じてるのは片方だけなんだというのがよくわかる。ありがとうを言いづらい場面こそ相手こそ、そしてそれを抱いた気持ちこそ自分こそ、大切だったとしたら。

他人を(自分を)太ってるとかブスって思ってる時の気持ち、食べ過ぎた時に太るかもって思ってる時の気持ち、お金を出し惜しみしてる時の気持ち、お金がなくなっていく恐怖、レスポンスがないとすぐ不安になる、怒られるのが怖い、誰かの言葉や反応にビクッと怖じ気づく...
日常で自分が感じてる居心地の悪さにありがとうを言う。というより、それを感じた自分に向けて伝える。
どんな思いも排除しない。どんな自分も受け入れる方法としてのありがとう。自分で出したものは自分で処理する練習みたいなこと。良いと悪いっていう回りの価値観に任せずに。
死んでしまえばそんなことも感じられなくなる。それさえも生きているからこそ。
誰かへの憎しみさえ、生きているから感じられる。

これをし出したら、幼い頃にみんなで仲良く遊びなさいと言われた時の、内心嫌いな子は輪にいれたくない思いがしていた自分を思い出した。本当はそうゆう傲慢さを持ってるし、冷淡だし、自分さえよければなんて事を感じていたのに、それでは社会のなかではうまく生きられないって教えられてきたし、痛い経験をしてきた。
でも別に痛くて良かったんだ。悪い過去なんてなかったと思えた。
同時に全ては相手ありきだってことも。相手がいるからこそ今感じられる、今の自分がいる。相手や環境に対して自分がどんなものを感じたとしても。誰かを傷付けてしまった思いも、傷付けられた思いも。
その時に聴きたい音楽が違うように、感情の変化を楽しめれば良いと思った。

そしてもう1つ、「状況を見る→判断する」という当然のパターンを崩せるかもしれないこと。
外側に起こってくる状況が先ではないのかもしれなこと。
怒られないために何かするとか、お金がないから働くとか、 防止するとか、禁止するとか...そうやって外側の状況や環境にアプローチしようとする。そうゆう状況がやって来たら大丈夫ではいられない自分がいるから。本当に恐れてるものは外側で起こることじゃなくて自分で感じてるものだった。
だから自分が何を感じても大丈夫なら、外側で何が起きても問題ではないのかもしれない。

環境を変え続ける事で自分の安定を保とうとするけれど、これでは環境を変え続けなければいけなかった。
起こりそうな未来の想定は全て過去に影響されてる。
そうやって過去の痛い経験をまた見ない為に今の自分が外側の環境に手を加えようとする。
でも今やる事は痛い過去を頼らずに未来を想定すること。今ありありと過去の経験を思い出せる能力があるなら、今起こしたい未来を自由にイメージしても同じじゃないかって。
過去は経験が伴ってるだけにありありとイメージしやすいだけで、結局は過去も未来も今からすれば想像の世界でしかないのだから。

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写真は伝えるためのものって習ったのに、本当に伝わらないっていうのを実感してしまうこのジレンマ。