不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

両親のこと

誰かの言葉を見ては、なにも判断がつかずに決められなかったり、迷ったり...
ここへ何を書いたらいいのか分からなってきたのも、色々感じてもそれを書き止めていく必要がどこか遠くに行ってしまったから。
なんとなくまとまらない感じで、それも問題ではなく。
残すことに意味があった今までと、残してもそれが何も役立たなくなってる今日だから。


食べ物の事。
例えば肉を食べないとか、その逆とか。玄米が良いとか、毒があるとか。食べないことが良いとか。マクロビとか。
食が豊富にあって長持ちするのは添加物の恩恵だったりする。
昔よりも寿命が延びたのは、誰のお陰で何のお陰なんだろうって。
食だけじゃない。寒ければ暖かくしてくれる道具も増えたし、水も電気も火も使えて衛生面も整って便利になった。
今の時代に生まれてそれしか知らなければ、気付けないことはたくさんある。
どれもこれもなにもかも、良い面と悪い面の両方を持っている。
そしてその中のひとつをとことんやり続けた人たちがそれぞれの思いを発している。

間違っていることも、信じられることも経験した人は確信的に言える。

色んな方法があって色んな伝え方があって、それが例え正反対に見えても、想いは同じだったりする。

ある菜食の人が動物の命を頂かないようにする理由と
ある肉食の人が頂く命の事を考える理由は同じような気がする。

そうゆう人の言う
「皆さんは、何のために生きていますか?あなたの命は他の命を犠牲にするほどに価値のある命なのですか?あなたは人間の命の価値から目をそらさないで生きていますか?」
という問いかけは、普段何気なくで済ませてしまいがちな食という行為に意識を向けさせてくれる一言だったりした。


愛情の事。
母親の愛情について、あの人の生い立ちや時代背景や経験を私は知らなくて、そんな母が私にかける心配を今までは母のエゴだとしか受けとれなかった。母の心配は私を信頼しない母の不安だと思っていた。
母は私の経験を知っていても欲しいものを私の欲しいカタチで提供してくれるとは限らない。
私はずっと心配より、信頼が欲しかった。でもそれは私のエゴでしかなかった。 母親に心配される度に自分の頼りなさが露呈されてるようだった。私がいつまでも母の不安でしかにように思えたのは、私自身が自分に不安を抱えていたからだった。

母は母なりの方法で私にずっと愛情を注いできた。それは父に関しても一緒だった。
ずっと心配ばかりする母と、基本的に何も語らず何を考えてるのかよく分からない父。

それは、もしかしたら心配をかけてもらえることが母にとって子供の時にしてもらいたかった愛情表現かもしれなくて、
父にとってはスキンシップやコミュニケーションよりも、やりたいことをただやらせてくれる環境を何よりも欲しがったのかもしれなくて、
というのは両親が以前語ってくれた生い立ちやその当時の想いから想像できることだった。

彼らにとってずっと欲しくて、でも与えられなかったものを私は与えられてきた。
私は信頼というカタチで愛情を欲しがったけれど、愛情であればよかった。心配であってもかけてもらえるありがたさとして、そのカタチを愛として私が受け入れられるか、そうゆう力が自分にあるか、そうゆう事のように思えた。

私はずっと彼らのやり方でちゃんと愛されていた。
私は彼らの愛そのものだから。と、今は自分の存在を肯定できる大きな理由になった。