fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

偏見という見えない枷

今日は思い付きで名古屋へバスで向かった。
Q:お金もないのに何の為に?
A:幸せな感覚を体験する為に。
Q:それは宗教でしょうか。



宗教とか祈りとか目には見えない結果への行為について。日本はというよりきっと私の見てる世界は偏見に満ちている。私が宗教を嫌うのは、信じることを強要するような所があると経験で感じたからだった。

私の両親はある宗教を信仰している。そして私はその家に生まれた。小さいうちから正座をして、お経を覚えさせられた。優しい母が妙に厳しかったりしたのを何となく覚えてる。
ずっと違和感を抱えたまま、時に信じてみようと努めたり、時に反発したり、両親の信じる正義に違う正義で戦おうとした。あなた達が間違っていると。
そしてどれもうまくいかなかった。
でも私をここまで育ててくれた両親は、私にいつも選ぶ権利を与えてくれていたように思う。
あの人たちが隙間や余剰を私に持たせてくれていたと感じるのは、自分達の信念は変わらないというのがすごく伝わってきても、その強烈な信念で子供をがんじがらめにするようなことはしなかったからだ。
子供の幸せを願って私にある一定の教えを経験させたけれど。
f:id:haruradio:20150211220515j:plain
私はその経験から一つの偏見をもらった。
宗教を信仰してる者への偏見。
信じることへの頑なさや妄信が、誰かを脅かす危険なものになったのは、そこに不自由さがあったからだと思う。それと同時に強烈な恐れが存在するからだった。
不自由さだけではなく、攻撃されるという恐れ。世の中の争いや事件に信仰が絡んでいるのをみんな知っているから。

私は自由でいたい。
でもあなた達はそれを押し付けて私を不自由にする、もしくは傷付けるかもしれない。そしてもし自分が逆の立場に回ったなら、今度は回りからは偏見と恐れの目で見られるだろうと。
でもそれは自分がそうゆう眼差しで世界を見てるからじゃないかって。
その偏見の世界を信じてるんじゃないかって。

目の前の一人の人がどんな行為をしているのか、どんなことが出来るのか、どんな考えを持っているのか、どこに所属しているのか、どんな宗教なのか。
このグループは安心で、このグループは優秀で、このグループはかっこよくて、このグループは危なくて...
無意識の内にそう振り分けて、判断してる。
もし目の前の人の持つ考えや、所属するグループや、その人にくっついてるものが、いいものじゃないと感じたなら、私はその人を偏見の眼差しで見ているのだと思う。

偏見を持つことが悪いと言いたいのではなくて、ただそう感じた時に自分が目の前の一人の生に色んな理由を付けて共感できないでいる。あなたのままでいいなんてとても言えないと。
そうゆうものを私は持っているんだと。


祈りは信仰する宗教によって変わるのだろうか?

人々は過去の事件を忘れないでいるだろうか?

盲信は本当に人を傷付けるのだろうか?

幸せになる為に信仰するのだろうか?

目の前の見知らぬ誰かは自分にとって危険な人だろうか?それとも善き友だろうか?

私は何を信じるだろう?


どんな答えも間違いではないと思う。
良い悪いで決着がつかないのは生きるということに良いも悪いも誰も口出しできないから。

信じていいものも、信じてはいけないものも、何もないのかもしれない。
そして信じることも、信じないことも選べる自由を人は与えられてるんだと思う。




A:宗教かどうかなんてどうでもよく、
信じたいものを自由に信じて、信じたくないものは信じなければいい。

自分の答えはごくごくシンプルでした。