不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

至福の感じ方の練習

最近、書くことが何だかままならなくなってきた。

 

多分、書くことが

「自分の頭や心の整理のため」

としていたつもりで

 

本当のところは

「整理して何かを分かりたかったから」

なのだと改めて思う。

 

そしてその分かることや理解や気付きが

誰かよりも知っているという優越感であったり

いつかどこかで役立つと考えてきたからじゃないだろうかと。

 

だって私自身が誰かの言葉や情報を頼りに

今までやってきたからで

 

それは楽しく読んだり学んだりではなくて

苦しみからの脱出を試みて色々探したからで

 

苦しみをどうにかする為に情報を必死に漁ってきてたから。

 

でも、その情報や知識や

書いて自分の中を整理して、分かるという事が

それ程重要でもなくなってきてるように思える今だから

書くことから遠ざかってるように思えた。

 

 

 

自分の為にする事がいちいち

自分には足りないという前提からスタートする事ばかりだったから

もしかするとこのブログも

そうゆう前提でやってきたものような気もして

 

だから書けなくなってるんだろうって。

 

考えて、そして自分で色んなことが分かったら、気付いたら、

私は楽になるって思ってきたから

だから知っていたかったし、気付きたかったんだと。

 

でも今は知ることも、気付くことも

もしかしたらそんなに重要ではないのかもしれない。

 

そして書くということで鍛えられたもの

それは、

 

考える事。

 

 

 

四六時中、忙しないのは

考える事に慣れ過ぎて、そのパンパンに頭が考え事で詰まってる状態を

普通にしてきたから

 

考えない事が怖くて仕方ない。

 

でも考えても

本当に良い答えや解決は

その中にはないのではないかと思うように

自分の価値観や大切にしてたルールが

壊れかけてる。

 

何も行動しないで

迷ってるか、考えてる時間だけを

膨大に過ごしてきたあの頃と

 

何にも考えてない最近と比べると

考えないことの方が

本当にゆったり過ごせていて

今という時間の豊かさや至福を

感じやすくなってる。

 

 

考えを頼りにすると

それは過去しか見なくなるから

いつだったかに見聞きした情報や自分の体験を元に

色々巡らせて

 

今という時間に全然気付かない。

 

 

今この空がこんなにも美しい

ただそう感じるだけで

至福だと思える。

 

この時間の豊かさのことだよ。

 

もっとこの感覚を鍛えていこう。

答えなんて出さずに

この感覚を自分の中に充満させて

その時間が1日のうちに増えていくように。

  

 

 

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自分が今生きているということの凄さ

便利が当たり前の時に生まれると

それがなぜ目の前にあるのかも考えないのは自然なことだった。

 

知ることさえ自ら探したら

その答えにビックリしたりする。

 

与えられることに慣れてしまうと

なぜなのかさえ疑わないのに

心は違和感として訴えてくる時があるのは

生きてるこの命が

自分という意識だけのものではないからだろうし

この時間に至るまでに多くが関わっているからだろうと

何か見えないものに馳せてしまう。

 

その心で感じることは嘘じゃないだろうから

最近はその心で感じたことを行動に移すという繰り返しをして来てる。

人に言われてこうだからとか、こうゆう決まりだからとか、

普通はとか、時間がとか、お金がとか…そっちを基準にするというより

怖いけど心で思った方を採用してみる

というやり方。

 

決めるのもそして動くのも

今の自分にその主導権が与えられてる。

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

話に聞いて写真で見るのと

空気や匂いや音や…そうゆう全てで感じる

現場で経験するのとは

やっぱり別なのだった。

 

というのも

今朝鹿が採れたから要らないか?という知らせが始まりで

どうやら解体して食べるという流れになっていた。

狩猟で捕られた鹿は顎と尻尾を切り取られた状態で届けられた。

それらを届け出て「駆除」の証明とするらしい。

というのも鹿の害というのがあるからなのだ。

 

 

もらい主達は自分達の食べるものを

結構自給自足に近い形賄っている。

畑仕事でお金をもらい

自分達の住んでる庭に

トウモロコシやかぼちゃや夏野菜色々を植えていた。

 

そして遂に今朝撃たれた鹿を貰い受けていた。

 

私はグロテスクなのは割と平気だったが

内臓が取り出された時点で部屋に帰った。

やっぱりずっと見てたら、しんどかった。

 

今日鹿の心臓を見た時に

母親の摘出された子宮を思い出した。

 

首だけになった顔に銀蠅がたかり

膝下の細い足と爪

そして皮。

 

 

 

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食べ物だけじゃなく

私達は自分の身に付けてるものも

命の後だってことを中々想像できない。

 

以前ハンズで買った革が部屋にそのままなのを思い出した。

 

財布に鞄、靴

そうやってたくさんのものが

私たちの便利で彩ある生活と生きることを支えている。

 

私はだから獲るな

という立場はとれないけれど

あまりに知らないということが多過ぎるとは思った。

そして見過ごしてると思った。

立ち止まらないと思った。

 

つまりは、「今にいない」ということだった。

 

例えば

食べる時も

着る時も

それがいつもやってる繰り返しであればあるほど

別の事を考えてるのだなと。

 

袖に手を通す時、その着る物の事を考えてるか?

靴を履こうとする時、その靴の事を考えてるか?

食べ物を口にする時、その食べ物の事を考えてるか?

体を洗う時、その水のことを考えてるか?

 

そんなこと、いちいち考えない…のか。

 

でも「いただきます」という言葉1つ

今に吸い込まれる。

 

ずっと想うのが難しいのは

それくらい他にたくさんしなければならないという

余裕のなさの中かもしれない。

それとも、そんなことより

もっと大切なことがあるからかもしれない。

 

そのくらい今の人は色んなことに忙しい。

 

 

でも私達は、本当に本当にお陰様なんだなと思う。

 

当たり前に、その繰り返しに

忘れてしまうけれど

人が1人生きているだけで

その背景にはたくさんの命が関わっているんだなと。

 

そんな事も見過ごせる自由を私達は与えられてるんだなと。

 

こうして書いていたって、どうせ何かやれば何か忘れてくんだから

そう言えばそうだったと、どこかで思い出せればいいと思う。

 

 

最近あまりに腑抜けで過ごしていたので

カンフル剤にはなりましたが

 

正直なところ、腑抜けが腑抜けでなくなるまでではなくて

 

もう自然が癒してくれるわけじゃないって時点で

 

自分が今までと同じようなスタンスでいると

一生気の抜けた炭酸のように過ごすことになってしまいそう

と思ってる今だから。

 

 

 

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考えるのを止められないのは、直視出来ないから

今は山の中に篭っている状態。

 

小さな商店は近くにあって

でもスーパーまでは自転車でも20分以上

コンビニは電車で一駅。

 

生活にクルマは欠かせない。

 

誰かが亡くなれば、放送が流れ

 

虫と鳥の声がいつもしている。

 

畑と家の間を車で行き来する毎日。

 

そして去年と同じ顔ぶれと新しい出会い。

 

受け入れてもらえるありがたさ。

 

2度目という機会は

 

去年と同じ私か?それとも…

 

 

 

 

 

ここ最近、

自分に少しエネルギーがないように思う。

 

必死に何かをしようとして来たけれど

その何かをするとか、追うとか曖昧になってきた。

 

ずっと追いかけ続けていたから

満足はいつも未来にあって

その未来の自分の為に

今の自分は色々考えていて

 

例えば

怒られないように、何かを言われないように

そんな事にばかり気を集中して、常に考えで頭がいっぱいなことも

怒られない私という近い未来の為のだし

 

迷ったり

気を使ったり

した方がいいのか、それともしないべきかとかの二者択一をやってたり

 

自分が相手にとって良かれと思ってわざわざしている事が

その相手からいらないと言われると

せっかくしてるのにという不愉快な感情が出てきて

 

すると

私はいちいちそれを〝考えて〟してることなんだ、と

思ったりしていた。

 

そして

頑張ってる自分、良い人やってる自分、弱い自分、

 

そうやって身を粉にする美学に酔ってる自分を目にすると

気に入られる為には、お金を得る為には

何かしなければいけないと思ってる自分がいる。

 

 

 

考え中の時はいつも何かを恐れてる。

 

だからそうならないように考えるのだけど

案外その考えは現実にならない。

怒られそうと思って、頭で怒られそうな場面をイメージして

回避の立ち回りをイメージしても

実際は優しくされ

 

怒られることなんてないだろうと油断して

何も考えてない時に

いきなり怒られる。

 

 

最悪の事態を回避するとか防衛する為に

わざわざしてきたその考え事態が全く的外れ。

人生当たりもしない未来の為に

どのくらい無駄な空想に時間を費やしてるんだろうか。

 

 

そして私がどんな私であっても

相手は私を相手の見たいようにしか見ない。

という感じがここ最近益々強くなる。

 

例えば私がどんなに安心安全だと訴えても

相手に疑いがあれば疑いが採用される。

 

 

 

自分という存在を

清く正しく美しく安心安全と主張しても

自分という存在を

必要以上に相手から守っても

 

受け入れられる人からは受け入れられるし

嫌われる時は嫌われる。

 

だったらそこに私の性格や考え方やどんな私か、というのは

本当に関係あるのか⁈って思えてくる。

 

良い人である為に、愛される為に

ネガティブなものを否定してきて

 

愚痴を言う

怒る

恐る

弱い

傷付く

だらしない

できない

稼げない

ダメ

 

今こんなのしか出てこないけど

自分の中のこうゆうものに修正、変更、更生…

変えようとする全てが無意味で

そんな自分をどうにかしなくても

大丈夫なんじゃないかと思える。

 

どうせ全部は取り越し苦労だから。

 

そんな風に自分に取り組む必要なんて

全然ないんじゃないか?

 

どんな私でも相手は相手好みで私を判断する。

 

相手を基準にするのはやめて

 

自分の中に起こる変化を自分が見続ける為に

 

行動を起こしてみたらいいんじゃないか?

 

どんな感情も優劣なく見届けられるように。

 

 

 

 

 

 

 

好きなものを追う成れの果て

ずっと普通になりたいと思っていたはずなのに

その普通を誰よりも嫌っていたなんて

 

普通で居ることが

みんなと同じように過ごす自分が

個性が無いことが

普通の中に埋もれてしまうことが

恐ろしくて仕方なかったなんて

 

私であるという強烈な個性を欲しがるのは

みんなと同じ背丈で居ることから

抜きに出たいからで

自分の中で考えてるその強烈な個性だと言えるような何かが

「ただ、それしたい」

なのかどうなのか。

 

ただ何の変哲もない自分で居ることに

こんなにも居心地が悪いなんて。

 

特別であるということへの執着や憧れから

私にする自己否定にまず気付かない。

 

好きなことをやれてるとか、雇われず働くとか

自由であるとか、知っているとか、稼げるとか

私であるという強烈な外見や職業や趣味や容姿や…

欲しくてたまらなかった。

 

 

 

今までしてきた、起こしてきたことの全て

 

強烈にネガティブでいる為の行動さえ

自分で起こしてきたんじゃなかろうか。

過去さえ忌まわしく設えて特別に。

 

例えば、無意識に悲劇的な結果を望むことも

上手くいかない人生のことも

そうやって悲劇として扱って

やれ誰のせい、自分のせい、この性格が、社会が、ルールが

あれはマズい、どうしたら?

 

考えて、考えて

 

でも 

全てが私は特別なんだと叫ぶ為には

そんな風にして複雑に騒ぐのが1番だって。

悲劇やネガティブの方が

どこかで簡単に私であることを主張できると

ふんだからじゃないか。

 

 

ここは何もなさ過ぎて

みんな特別じゃなく、当たり前だとよく言うけれど

 

当たり前も見ず知らずのよそ者からすれば全てが新鮮で

でも当たり前の人からすれば

この生活こそが普通で。

 

そこに癒しもさほどなければ、感動もないと思ってる誰かがいれば

そこに癒しと感動があると言う人がいる。

 

何もないと書いたものの、

あり過ぎて、把握できない。

 

鳥の声もあの空も

明日も聴けるし見えるだろう。

でも今日と同じ景色はこの先1つもない。

自然に飽きるなんてまだ経験がないのは

その変化のせいだろう。

その在り方で私も生きていたい。

 

 

 

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#野辺山#ブログ更新✴︎今はなんだか抜け殻みたいなんだ

 

 

今の私の心や頭の中が

モヤモヤになる理由は

 

何も残せず、結果も出せず、情熱を生きることもなく、

自分の足で立ってる気もせず、好きなことが何だったか見失って、

ただ流れるように

何の変哲もなく時間だけが過ぎていくのを

許せないからで

 

私でなくても

誰かが私の代わりを生きられるような人生が

 

嫌いだったし、受け入れ難かったし

 

そうなってしまうことが

ずっと怖かったんじゃないかって。

 

そんな自分を認めて受け入れたら

私は特別なんだと言えるものが

何にもなくなってしまうからね。

 

私が消滅してしまうもんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

素人が聞いた農業のすごい話

 

私たちの体はほぼ水で出来ている。

 

そして何を取り入れるかが大切なのか?

なんて事は良くある話し。

だから、水や食べ物に関心が高まる。

 

そして植物も水が大事だ、という話を聞いた。

土や肥料そして農薬、環境…

それは植物に限らず、動物も同じ。

 

家畜、餌、放し飼い、ジビエ

 

腐らない食べ物や栽培環境のドキュメンタリーを見たりした。

 

丁寧な暮らしを本や雑誌で見たりした。

 

メディアやSNSで流れて来る情報は

誰かの考え方や想いや経験だったから

当たり前だけど、そこに私はいない。

 

 

それで私はといえば、水が大事だと思っている。

 

だからなのか、住んでる地域は美味しい湧き水が飲める。

 

そして今お世話になってる農家さんの水も

聞くと案外凄い水だったりする。

 

 

 

先日、私は種を蒔いた。

他のメンバーは苗を植えていた。

 

それで休憩の時に

水の話や土の話や菌の話になった。

 

さっき書いた凄い水の話はここで聞いた。

 

農業はよく分からないけれど

この人が本気で野菜を育ててる事を肌で感じる。

 

泥のついた指先で種を植えていたら、怒るまで行かないけど

そうじゃないって事を言われたりして

すると、自分が育ててるものに対する愛情が私なんかには想像がつかない。

でもそれはきっと、ここの農家さんだけではないだろう。

自分に関係があるものだし、かけてる想いや関わってきてる時間の量を考えれば

真剣なのは当然だった。

 

 

苗の話しの続き。

(ちなみにこれから先は聞いた話なので

間違ってるかもしれないし、大雑把に書いてるのと

正しいとか信じるというのは読んでる人にお任せします。)

 

 

 

通常苗の根っこは

みんな綺麗に真っ白ではないらしい。

 

茶色く変色してるものが混ざってるのが普通なんだとか。

 

以前、実験として水を変えて苗を育てたことがあったそうで

今お世話になってる農家さんの所の水と

普通に今まで通りの水とで

比べて栽培したことがあったそうだ。

 

結果はといえば

いつもと違う水の方は

綺麗に揃って真っ白な根っこの苗だったらしい。

 

その苗がどんな風に育ったかまでは把握してないけれど

小さい時に良い環境で育つと
良いものが出来ると言っていたような。

 

三つ子の魂百まで

というのは植物にも当てはまると言っていたのが印象的だった。

 

 

それとその水に海水魚を入れても死なずに泳いでいるらしい。

 

これも実際に魚を買って

買ったその場で試したらしい。

 

淡水魚と海水魚が一緒に泳いでるのを見て

みんなびっくりだったとか。

 

水の原理は所謂パイウォーターというのと同じようなもので

大掛かりな浄化装置も自分で作って

その水で今まで野菜を育て、出荷している。

 

あとは過去にバイトさんでひどいアトピー持ちの子がきて

居る間にはめてた手袋が最後の方は手袋なしでもいけるようになったとか

(一概に当てはまるかどうかは分からないけれど)

 

 

そして土の中の話になった時に

土の中も社会と一緒みたいな事を言っていて

 

それは土の中も良いものもあれば悪いものもあって

悪いものものを一切排除するような姿勢で取り組まないほうがいいと言っていた。

 

もちろんその悪いものがいっぱいになると作物に影響が出てしまう。

 

土作りはバランスだと言っていた。

 

悪いモノが多くなれば、良いものも悪くなりやすい環境になるという事を

社会になぞらえていて

ヤクザみたいなのがいっぱいいても困るし

でも全てを排除すれば良いという簡単な問題ではないみたいな⁈

 

それで土壌環境を良く保つために

EM菌という名前が出て来た。

 

それは実際に人が飲んでも大丈夫な物で

発酵の状態によって味も変わるのだとか。

 

その菌を酪農で使用してる所に視察に行ったら

匂いが全くしなかったらしい。

牛舎の臭いって本当に強烈なのに、ハエもあまりいなかったのは驚いたと言っていた。

 

発酵と腐敗は違うと言っていたのも何だか印象に残っている。

 

農家さんは人が口にするものを作っているのだから

使用するものが口にできないものはできるだけ使いたくないと言っていた。

 

土環境を良くするための別のものもあるらしいけれど、(多分一般的に使われてるもの)

それを売り込みに来た営業さんとのやりとりで

それは飲めるか?と農家さんが営業に来た2人に聞いた所

部長さんクラスの人が部下に

お前飲めるよな?と無茶振りしてた様子が面白かったと言っていた。

  

 

何もないところから、誰も教えてもくれない環境で

たくさんの失敗を繰り返して、模索して、調べて、試して、悔しい思いも、喜びもあっての今。

 

 

私がここで出来ることは

良いものが出来るように願う事と、一生懸命仕事する事と、

一緒に働く人たちがいい夏だと言えるように

農家さんが良い気持ちで仕事ができるように

そのために動く事くらいかな。

 

 

というわけで、また去年同様

畑仕事してます。

 

 

 

 

 

 

 

 

行動が実らないのはね…

髪を自分で切って

そしたら鏡の前の自分は

普通で、オーソドックスで、なんの変哲も無かった。

 

今まで個性的なモノに憧れてオシャレを目指していて

自分的完璧を求めて来たんだなと

 

それはただ楽しいとか好きなことと自覚していただけのはず

でも今、どこかで優越感があったことを

鏡の前のなんの飾りっ気のない自分を見ながら

見つけた気がした。

 

 

そう言えば、この前ナリくんの講演会に行った時も

そうゆう外見の話をしていた。

 

見ていたこっちが痛くなるくらい

ピアスを顔のあらゆる部分にいくつも着けていて

髪もピンクに染めていた頃があったナリくんは

あの講演会では

着物を来て舞台の上で話していた。

 

私にもひとり外見が派手な友人がいた。

彼女は出会った中で1番謙虚で、真面目で、とても腰が低く

丁寧な人だったが

外見は口にピアス、髪も金髪で

宛らパンクバンドでもやってるような印象だったから

その外見と性格のギャップには

最初驚かされてた事を思い出した。

 

 

なぜそんなド派手な外見で飾っていたのかという話をナリ君がして

 

それは彼曰く、そうやって派手な外見にしていれば

そっちに話題や注目がいって、

自分の内側に触れられることがないから

というような話していた。

 

ナリ君は過去の経緯をそうやって人に話せるまでに自覚していて

でも、今それをやってる本人(私も含め)

自覚があるかどうかは分からないと思った。

 

着飾るという事が喜びからなのか

それとも守る為なのか

というのを聞いて

 

何にもない自分は

容姿も含め

ありのままでいられない理由を

気付かないまま

日常の隅々まで及んで演じたり、付け加えなければ

素の自分として過ごせないのだなというのを

実感した。

 

 

自分の好きなものさえ

本当の心の欲求ではない可能性がある。

 

自分を疑えよとは

その欲求は本物か?という質問で

 

今まで私は沢山の欲を出して来た際に

自立や、稼げる自分や、知識があることや

お洒落であることや、

必要とされる、頼られる、愛される、何かが出来る、もしかしたら写真でさえ…

 

結局はそのどれも、自分の心からの欲求ではなく

この世の中から自分以外誰もいなくなったとしたら

自分の中にあるそういったいくつもの欲求

いかに無意味なものかを知るのだろうと思った。

 

だからそんなものばかりを追いかけて来た私と言えば

今、少し途方にくれた感じがする。

 

絶望まで行かないけど

何だったんだろうか?みたいな感じ。

 

 

 

 

 

 

 

独演会という名のセミナーらしき「ナリ独演会」に行ってきました。

先日東京で開催されたナリくんの独演会in狛江

に行ってきました。

 

k-nali.hatenablog.com

 

ナリ君のlineにずっと登録していて

以前ナリ君が

私が無意識にこうだと思っていた事に対して

ツッコミを入れてくれたことがありました。

 

haruradio.hatenablog.com

 

 

上は、その時に書いたブログです。

 

ダメな自分を見つけて否定しては

それを攻撃しようとする。

そのままにしておけない。

だから苦しい、だから行動、だから求める…

 

その延長線上に色んな買い物、色んな選択、色んな決定、色んな行動が行われてきました。

 

多分、そのままにしておけなくて

まずこの自分をどうにかしてから

したいことするという図式に

自然になってるのは

自分が育てられた過程で築いていった当たり前や

傷付く恐れや、恥をかきたくなかったり

人からどう見られるかを気にしてるからだと思ってる私は

 

「この自分をどうにかしてから」

というのを今でもすこぶる元気にやってるのかもしれません。

 

典型的なセミナージプシーかもしれないです。

 

でも、最近になって

解決しない、グレーにしておく、問題がないなど…の言葉と一緒に

自分に満足してる人達に会いに行って

それが少しずつ分かるようになってきてから

 

自分が自己受容なんてちっともできていなかったことに

今更気付かされました。

 

私が私に対する取り組みを

もう終わらせたいという欲からなのか

自分の現実はなぜ変わらないのか疑問を持ちながら

 

私は流れのまま次の選択をしました。

 

 

それがどんな変化をもたらすのかという期待もできないほど

正直言えば、自分の選択にあまり自信が無いのも初めてで。

 

 

 

 

それはさておき

 

ナリ君の独演会ですが、やっぱり面白かったです。

何も期待せずに何も学び取ろうとせずに

遊びに行きました。

だから、ナリ君に会いに行った感じです。

 

でもやっぱり不思議なことに

独演会前に得た、なんとなく感じていた自分の気付きに

ナリ君がとどめを刺してくれた感じになりました。

 

 

 

気付いていたことというのは

 

ナリ君の独演会の前に

写真の展覧会に行ったのですが

学生時代に手に取れなかった写真があったことを

そこで思い出しました。

 

自分が被写体として綺麗なものを求めたり

はたまた破壊的な個性のある写真にトライしたり

 

どこかでそれを認めてもらいたいという欲求を元に

全てが動いていた頃です。

 

展覧会の写真は愛に溢れてましたが

その人と同じ頃に活躍していたもうひとりの写真家の名前が映像の中に登場した際

そこに急に反応した自分がいました。

 

展覧会場には

その私が反応した写真家の写真はなかったのに

名前だけで記憶が呼び起こされました。

 

今回の展覧会の写真とは違った意味で強烈な個性を放っている写真です。

 

それで学生時代の私から見ていた

その人の写真は

ずっと居心地が悪かったなと。そう言えば見れなかったなと。

 

自分の部屋に飾るとか、その写真を部屋に持ち帰るなんて

写真というカテゴリーが好きでもできませんでした。

でも人から見て

こんなの知ってる持ってる自分かっこいい

ならできますよね。

そのかっこよさを求めていたことは確かでも

持ち帰りたく無い写真でした。

 

ちなみに写真展の時のことはこっちにまとめました↓

 

haruradio.hatenablog.com

 

 

このことを踏まえて

 

ナリ君が独演会で教えてくれたことというのは

 

嫌いな人の画像などを見続けるというものでした。

ただじっと見続けるのだそうです。

嫌いな理由は多分人それぞれですが

自分が受け入れられない人

それは心の奥で見下していたり、批判していたり

だから、見苦しいんです。

体って正直ですよね。

 

ワナワナしながら尚、見続けるんですって。

 

簡単そうですが、まぁ結構見続けられないんですよ。

以前の私の経験がそうだったように

見続けるって結構きつい。

写真でなくても

自分が強烈に否定してる人とかは

見ちゃいけないになってたりします。

つまりは偏見の眼差しです。

 

目を逸らすが体の素直な反応です。

 

反発をかうようなことを書くのですごく怖いですが、

例えば私の場合なら

太ってる、ブス、障害を持ってる人とかです。

 

これは私がそのことで傷付いた過去があるからだと思います。

ほんの些細な一言に過ぎないのですが

だから

見れないんです。

目を逸らすんです。

 

反応した写真家というのは

ダイアン・アーバスという人で

彼女の撮る人達は

美しさで魅了するというより

どこか危険を孕んでるような感じで私は見てました。

 

残念ですが

これが今の自分です。

 

それで話しを戻すと

見続けると時間と共に

そのワナワナが薄くなり

その人に対して抱いてる自分の感情やら

考えやらは薄まって行くそうです。

 

 

 

体はちゃんと嫌って反応してました。

 

写真を見続けることは結局

自分が批判するそのものになる作業

のように思いました。

 

今まで私がやってきた事

つまりは自分の欲を行動に移す際に出てきた葛藤と向き合うというのが

似たような感じがします。

 

例えば、

お金を取りに行こうとする自分とか

借金するとか

嘘付く隠すとか

わがまま言うとか

過食嘔吐するとかも

 

 

自分が欲しいものを取りに行こうとするときに

劣等感があると一緒にくっついてます。

自分がいけないと思ってることかが。

 

自分の欲しいを満たそうとすると

いけないと思ってることもそこで露わになるんです。

 

 

あれは無いわとその人見て判断してる

それに自分がなるんです。

 

それを自分が1番否定してるから 

その自分にはなりたくないんですが。

 

 

 

自己否定なくそれができるようにするって

それがあっても問題じゃないって

しちゃう自分でいいやって

言えるまで

苦しいですよ。

 

でもそれしてから安心する時間は増えました。

 

だって、自分の中で自分を否定する声は

どんどん減っていったのは確かだから。

 

でもまだですよね。

 

私は本音を人には伝えられてないから。

 

まだいい人やってるから。

 

自分を幸せにできないのは

幸せではいけない自分だから

自分でその許可を下ろせないんです。

 

あれを得るにはこれを得るには

この条件が必要だから

 

その条件を満たせない自分では

何も受け取ってはいけないんです。

 

でもその自分を保留にして

好きなことを少しずつ自分に許したい。

 

自分の為の特別な時間を少しずつ。

 

 

 

あ、またやってますよね

今の自分を否定する。

 

本音を言えない今の自分が気になりだしてるってことですかね。