幸せのためのエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

口癖が現実を作るって本当だった話し。親と子の関係。

 

前回の続きになります。

 

haruradio.hatenablog.com

 

 

 

当たり前にそれを疑う事なく

 

「母が不幸」

 

だと思ってきました。

 

当たり前だと思ってる事って疑えないから

今でさえ、私の中には要らない思い込みは沢山あると思います。

でも今回は、その要らない思い込みの1つを見つけたので

ここに残しておくことに。

 

その外側に出たときに始めて

いかにそれが不自然だったと気が付けるのですが

中にいるときは分からない。

 

でもそこで慌てなくてよくて

そんな今の自分

例えばサイテーって思えるような自分でいると

自覚することが先かなと思いました。

まずは自覚するだけでいいと思ってます。

その次はサイテーって言わないでみる、なんだと思います。

 

 

 

それで、

私がなぜ母をそんな風に思っていて
それが普通だと思ってきたのか?

 

 

信仰を持つ両親の元で生まれた私は

小さい頃から、その信仰の教えを

育てられる中で教えられてきました。

 

在り方を「こうだ!」と何度も示されてきました。

 

父が口癖のようによく言っていたのは

「これは絶対だ」

「勝たなきゃダメだ」

というのをよく覚えていて

 

母は

「これは幸せになる為だから」

 

ということを

何度も聞かされてきました。

 

今回特に母のことを取り上げる理由は

父のことに関しては

受け入れられない過去がずっとあったのは事実ですが

シンプルに今はもう何も思うところがないからです。

(そのうちまた出てくることがあれば書きますが)

 

 

それで、

母の口癖と信仰について

私はまんまとひっかかっていました。

 

ずっとその信仰や組織に嫌悪感がありました。

それは例えば信仰に対する社会的に悪いイメージも影響していました。

 

信じることがコントロールされている、であったり

盲信が相手に迷惑をかける、であったり

 

この辺は、信じることが素直にできない理由に繋がっているとは思います。

 

実際自分が相手から迷惑を受けていたという過去があって

でも今は、その認識は薄れてきています。

 

あなたは私に迷惑をかけている、と言いたかった私の為に

周りがあったのだなと思います。

その人達を引き寄せていたのは

私だったから。

 

あの時は全力でひたすら相手のせいだと叫びたかった。

だから、それが叶っていたと思います。

 

 

それで母からよく聞いていた

「これは幸せになる為だから」

という言葉の裏にずっと

じゃあ、母は幸せではないんだという認識が生まれていました。

 

もうごくごく自然に。

 

だから不幸な母の娘である私は可哀想な子供でした。

 

不幸が最初にあった。

 

母という命の始まりを

子供の私は不幸でスタートするような連想ゲームで

世の中を見渡すようになっていました。

 

 

私の不幸というフィルターを通されて入ってくる母の話は

全て不幸に映りました。

母に幸せを感じる余地が私には全くといっていいほどなかったのですが

今思えば、私によって不幸に変換されただけのようでした。

 

母は母なりに人生を歩み、自分の意思を貫き

その中で楽しみを見出し、母なりの人生を歩んできた。

母はしっかりと自分の生きたい人生を、母なりに謳歌してました。

そしてその中で感じた喜びは母だけのものです。

 

私が母の不幸で、私にその責任があるように思って来ましたが

私はきっかけではあっても

核心にはなれない。

母の主導権は私にはなかった。

 

そして両親を見て私は

あんな風にはなりたくないと、

ずっとどこかで思って来ていたことも思い出しました。

 

判断して来た相手が、私を産んで育てた両親だったなんて

この時、そんな風に思ってきた自分の心の貧しさに

本当に不幸だと思った。

 

 

ずっと被害者をやっていた私の加害者は

両親や信仰だったし

でも、そうやって

あなたのせい、何かのせいを

吹っ掛けていたのは私の方でした。

 

みんなすでに

自分のしたいことしかしていなかったことに

やっと気付いた時に初めて

相手の人生もまた素晴らしいと言えるのだと思いました。

 

だから今は両親の生き方もまた

かけがえのないものだったと言えます。

それも1つのカタチなんだと。

 

 

お互いに求め合うものは違います。

母が私に求めるものは確かにあります。

そして私もありました。

でもそれは決して交わることはないと今は思います。

 

子供と親の関係こそ、肉体を通して繋がりの深さを前提に考えてしまうけれど

でもやっぱり違うのだと今は思うのです。

 

ずっと答えようとして来たんだと思いますが

答えられないのが当然でした。

私がしなければ、与えなければ母は満たされないと

その責任のようなものを感じて来ましたが

それは私には出来ないことでした。

 

出来ないんです。

母の喜びは母が作っているから。

 

そして私も同じように作っています。

自分を満たせるのは自分しかいないんだと

改めて思いました。

 

私の喜びを母にはきっと理解できないことだと思います。

母の喜びを私は理解できないのと同様に。

 

でもそれは寂しさなんかではなく

だたその違いを知っていればいいのだと思います。

 

 

私は始まりをどんなものにするのか?

 

そして口癖はどんなものにするのか?

 

これからをどう過ごすのか?

 

全部自分で決めてきたんです。

 

過去も今もこれからも。

 

 

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BS20xXiAVKB/

#松本城#桜

 

 

 

自然を撮っていたからこそ気付いたお金にまつわること&東京開催の告知

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たくさんの花が咲いていました。

 

夕暮れの光の色

今日の雲の多さで、ただでさえ夕暮れ時の少ない光量は遮られてましたが

それが良かった。

 

今日という時間はやっぱり一度きりというのを

写真という道具が知らせしてくれます。

 

 

 

 

去年あたりからぐいぐい自分を追い詰めるようなこと

特にお金のことで自分の欲にそれを使うことをし続けていて

欲に溺れるな、なんて自制と

その欲の塊のような自分との付き合いをどうしていくかを

相変わらずやっていますが

 

お金がないという事実に

弱くならなければいけない義務みたいなものが憑いているのは

どこかで周りの目の方を大切に守ってきたからだと思いました。

 

お金と人の存在はイコールにならないものなのに

なぜかそれを基準に

判断することがまかり通ってるのが社会という場所なんだと思います。

 

お金は信用だから。

 

信用を大切にするというのは、

向こう側にいる相手を大切にするということだから

それを守れないということは結局

相手もそして自分も大切にしてないことにはなるのかと思いました。

 

ここまで書いていて 

お金をなんだと思っているのか?

の問いの答えが上に書いたことで

でもそれは今の私の答えであって正解ではない。

 

そうゆう側面からお金を見てるだけであって、

お金を稼いでる人達はまた別の見方で

お金という存在を大切にしていると思います。

 

お金を稼げないことが、ずっと問題だと思ってきたけれど

そしてそれをしないことについても、責めてきたけれど

責めながらも、そうしないのは多分

働くことや仕事をお金の為と割り切って

出来なくなってきてるからのような気がしてるからで。

 

怖いものを抱えたままでも、

とにかく今の自分が気になってることはやってみる。

なぜか、そうなってしまったという言い方の方がしっくりくるのは

夢ノートのせいだとは思うのですが…。

 

心のことを頭で抑えなくなってる証拠だと。

そして、どんどん自分にしかなれなくなっていく。

やり出したら、嫌でも自分にしかなれなくなっていく。

 

もっと言うと、

元々自分でしなかないものを、否定しなくなった。

本当はそれだけです。

ずっと受け入れなかったから辛かっただけ。

 

怖いところを綱渡りしながらも

なんとかやっていて思ったことは

お金がないことで弱くいる必要なんて全くなくて

ただヒヤヒヤはするけれど

自己卑下はいらなかったということを

たくさんの花を見ながら思いました。

 

〝お金があるときの私も、ない時の私も何も変わらなかった〟

 

どこか堂々としていられなかったというのは

誰かに見られてる気がする

他者から駄目だと思われてる気がするだけで

それを責めたり、畏まったりをさせてるのは自分なんだと。

小さくいる必要なんてなかった。

その価値ははかれなかった。

殻や枠や籠がまるで壊れてしまったかのように。

 

社会という場所で、あの花のような自然を

自分が再現できるのかどうか。

 

 

 

 

 

 

写真を撮りながら、この道を自転車で通っていた職場のことを思い出してました。

好きなことを仕事にするときに、

落とさなければならないものが出てくる気がします。

相手の求めるものの為にどこまで自分を落とせるか。

 

前の職場にいたその人の売上が伸びたのは

自分のやり方を貫くのではなく、折れて周りの人の意見に素直になれてから

ということを思い出してました。

 

折れるまで、しんどかったと思います。

私はそこが折れないのだと思います。

 

諦めきれない内側の為に恐怖が優って

外側を諦めてきたから。

 

でも、今はそんな過去がダメだったなんて思ってません。

駄目でそこに挑む姿勢でいることより

なんとなく好きに触れながら

なんとなく全部やってみるでいいんだと思います。

 

好きを諦めるのはやめて、好きを続けよう

好きを諦める理由はもう作らない。

そっちを大事にしています。

 

 

そしてどんな働き方であってもいいのだと思います。

会社に所属していても、そうでなくても

稼げても、そうでなくても。

 

どこにいても

あの花のように咲いていられるなら、それでいいと思います。

 

 

自然の中に入るほど、自分の不自然さというのが浮き彫りになります。

 

自然からはあるがままを学べるし

社会という不自然極まりないシステムも

そのルールが絶対ではないというのは

自然が教えてくれます。

 

大前提の命に帰ろう。

 

 

 

 

 

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最後に告知です。

 

 

魔法の夢ノート®︎の講座が4月22日東京であります。

 

前半は夢ノート講座と後半は解説など

生みの親である岡田みな子さんからお話が聞ける機会になります。

私も作ったアクセサリーと共に参加します。

 

生き生きと自分の道を生きる方達から受ける講座です。

同じ空気を吸うのが何よりも理解に繋がるので

人に逢いに来てくださいね。

 

詳細はこちらから↓ 

www.reservestock.jp

 

 

ちなみに夢ノートについての解釈を私はこんな風にしています↓

  

ameblo.jp

感情は抑圧しない。表現することの必要と、出した後に起こること

母の不安と安心と繋がっていること

 

母の幸せと不幸せと繋がっていること

 

そしてそれらを許せないこと

 

それは憎しみにまで及ぶもの

 

私の自由はあなたのせい

 

母の愛が重くて動けなくなる

 

という感覚があったこと

 

 

 

自分のやることで母が喜ぶのを許せないという

どこかの本音を

どこかにしまわずにいました。

あえて自分の嫌だという思いを

隠さずにちゃんと見てました。

 

私は自分が幸せになるということは

それが母に関係があるということと

どこかで繋がっていて

 

そして、母に心配されることと

安心されることとも繋がっていて

母親が私のことで心配するのも、安心するのも

なんだか癪に障りました。

 

「私のことを勝手に自分の悩みにするな」

という怒りが自分の中にずっとあった事に気付けず

拗らせていたので

それが憎しみにまで繋がってました。

自由を求めるほど、束縛が派手に見えてしまう。

 


最近、憎しみや怒りのようなネガティブと言われる方があるなら

「あえて出す」

ということをしています。

それもただ表現してみるということです。

笑うのも、泣くのもできるんだから

今度は怒ってみる。

 

 

対象に直接ぶつけると

私の場合は感情がストレートに出にくいです。

どこかでそれが大きすぎると分かってるので

相手に表現できない。


頭で抑えて状態を説明し出して

理解してという方に向かってしまうので

身体で発散させるというのをやってました。

 

 

出した後に気付いたのは

母にとってはそれも1つの愛情であるということ。

決して相手はその形を変えられないこと。

なぜなら母にとってはそれが愛だと疑わないから。

そして、私がただその形じゃ受け取れなかったこと。


母の生い立ちを思えば、この愛情表現はとても普通なのかもしれない。

 

 

https://www.instagram.com/p/BSlGmSKgfQG/

✴︎きっと愛は放つもの・そしてそれは帰る見込みを持たないもの・交わることが辿り着く場所のように錯覚してしまう・でもここは、行き違いの想いが交差し合う世界・・それを残念だと思うかどうかは、また別の話・それは期待するより深く、大きく、時に残酷に思えるのは.こちらが限定するから・自分の中のものを誰よりも信じ続けられること・通じ合い、分かち合うその瞬間に感じてるものさえ・相手も同じに受け取るかは想像し得ない・心の中を見ることができるのは自分だけだから・でもその瞬間が確かであると信じられるならそれは・他者を通して自分の心を何よりも大切にしてる証だと・#写真#日常#気付き#ブログ更新

 


そしてこの時期にもう1つ分かったこと。

 

ずっと、母が不幸だと勘違いしてきたこと。

 

これは長くなるので、次の機会に。

 

 

 

弱いままの私で、続けてみる。

相手が私をどう見てるか?

 

それにいちいち反応する自分が居ます。

 

些細な場所でもそれを気にする自分がいます。

 

例えばそれは

お店での店員さんの接し方から始まります。

 

日常の中での自分と他者との関わり方は

人の目を気にして

今の自分は嫌われているのではないか?と

自意識は過剰に反応していたりするのです。

 

それ程、自分自身でいることに

自信がなかったりする瞬間は今でもやってきます。

 

 

相手という存在からの拒絶を何よりも恐れて

それは孤立する事を何よりも恐れているから。

 

私から一人ずつ離れていく事が怖くて、

最後には周りに誰もいなくなってしまうのではないか、

誰も私の存在など忘れていく。

 

自分の存在価値に関することです。

 

私は今でさえ、やっと自分で満たせるようになった自分も見つけましたが

 

自己否定も出てきます。

 

でもそれは、きっと自分のやりたい事をやっているからだと思います。

 

何も起こさなければ楽でいられる環境にずっといられるような気もします。

 

それは苦しむ機会が訪れるのを避けていられますが

心は徐々に活力を失っていく感じがします。

 

でも、やってしまうと

まだ潜んでいた自己否定があぶり出されてきます。

 

苦しんでいる、ということは

私は自分自身の存在を

どこかでまだ否定しているという事。

 

相手にどう見られるか?という恐れがあるその奥に

私自身が自分をどう見ているのか?

何を禁止しているのか?

 

恐れが出るということは

自分が自分に制限をかけているサインです。

 

こうしてはいけないと

こうでなければいけないと

 

それができない自分に強い否定が働くから

対立があるから

外側に怖さを見ることになる。

 

感情とはまた別で

全て自分が自分にしていることです。

 

 

そのきっかけを与えてくれたのは友人でした。

 

 

私はある出来事から

彼女の行為を最初は受け止められず

ショックを受けていました。

 

それは彼女から拒絶されてしまったように感じた出来事でした。

 

でもきっと

彼女も言うのをためらいながらの

私へのお願いだったと思います。

 

でもそれをただ受け止められなかったのは

私にとってその人が特別だったからです。

 

大切だからこそ、心は激しく動くのでした。

 

 

そこでは色んな想いが出てきました。

自信のなさや不安でいっぱいになる。

 

悲しみや寂しさだけではなく

 

自己否定がそこに出てきました。

 

そうゆう自分に対してのダメ出しの時間

 

それが苦しみ。

 

 

 

でも私は、そこで

自分が愛されることしか見えていないのだなということが

ただただ見えてきました。

 

自分がやる事に対する相手の反応に

いつも良いものでないと不安で仕方なくなるというのは

 

相手がどう反応するのか

その自由を奪うことになると。

 

相手は相手の事情があり

それを私は、相手の一部分だけを切り取って

こうに違いないと自分の存在と関連付けて

勝手に自分で傷ついているのです。

 

自分のことで精一杯になって

相手のことなど全然見ようとしていませんでした。

 

相手の反応に動揺しないようにしたいのではなく

 

「相手が見せるどんな反応もそれでOkだと。」

 

それは私から相手が離れていくことを含めるということです。

 

自分が傷付く恐れをみようとするのではなく

相手の視点に立つことを忘れずにいたいと思いました。

 

 

傷付く機会を作ってるのは

いつも自分である事。

 

それに疲れた時に

 

分かる時は来るみたいです。

 

 

自分を知る度に楽になれるから。

 

 

ameblo.jp

 

 

 

 

 

感情との付き合い方の続き…「怒りについて」

 

「自分には怒りがちゃんとありました。」

 

それは告白に近い程

私の中ではそれをなかったことにしていた、と言うのを

出してからますます実感します。

 

 

 

この記事の続きになります↓ 

haruradio.hatenablog.com

 

 

嫌な感情を認められたのは

母のお陰でした。

 

 

もっとゆったりした大人の過ごし方や振る舞いが出来ると

ずっとどこかで期待してました。


自分の嫌いな部分は成長するにつれ

子供のような、わちゃわちゃした自分は

「変わる」ということで消えていくと期待していました。

 

感情も安定し

優しさで誰かを包めるような

そんな安定感。


でも、私は幼い頃から

塀によじ登り、男の子と良く遊ぶようなやんちゃな部分が多かったので

元々、自分が欲しがるような上に書いた要素は

どこにもないんですよね…


いくつ歳を重ねても

そのめまぐるしく出てくる様々な感情に振り回されながら

行動することには物怖じはしなかったのも

子供の要素が大きいからだと思います。

本当は大人しくはないし、言いたいことは言うし

どちらかといえば

ちょっと煩わしい感じもあったりで

それをなかなか受け入れられませんでした。

そこを自分が嫌っているから

これでは

社会という場所では上手くやっていけないと

自分でそれを封印したんです。

でも社会で上手くやる為の

自分を取り作っても

ずっと自分が疲弊するばかりでした。


嫌っていても

それは消えることなく

むしろ押さえ付けてる分だけ

余計あることに目がいってしまうように。

 


私は自分を封印してからは特に内弁慶でした。

 


外で自分をコントロールしてる分、

家族の中ではやりたい放題だし、わがままや

自分の気持ちが爆発して

不機嫌をそのまま当たり散らしていました。

どうしてもそうゆう態度でしかいられない時期がありました。

 

自分でもコントロール出来ないほどで

家族には悪いと思っていても

そうすることしかできませんでした。

罪悪感が募って行ったのは言うまでもなく

それでも傲慢でわがままで、常に苛立っていました。

その罪悪感から、この時が一番自分を責め立ててました。

 


そして私は外側では

ちゃんとしてるとか

いい人だとか

迷惑をかけない人という所でやろうとしていて

私だけはそんな風に心が綺麗である

というアピールを外に向けてしていたかったのだと思います。

イラ立ちが湧いた時に

それをとっさに隠そうとすることにずっと気がつけなかったのは

自分の理想とする所が

そうゆう苛立ちや怒りを

「人を傷付ける感情」

「醜さ」

として定義していて

私自身がそれになりたくなかったからです。

 

そうやって欲しい物のために

私は努力を続けていたのでした。

 

あの時嫌っていて、溜め込んだ怒りは

今、感じるたびにあえて出すようにしています。

 

罪悪感を持ちながらではなく

苛立ちを怒りが出たなら

あえて心の中で密かにそれらを言葉に込めて。

 

そうできるのは、

受け止めてくれた人があの時いてくれたから。

 

家族という場所は

甘えさせてくれる環境だったというのを

今更、有り難く感じるのです。

どんな私でも、一緒に居てくれていた。

 

 

そして

自分の中にある苛立ちや怒りを

引き出してくれてる相手にも

感謝ができるようになりました。

 

嫌な自分さえ心の中で誰かと関わらせたら

家族のように思えるような場所が

もしかしたら増えるかもしれない。

 


そして怒りは、誰かを傷付けるものではなかったです。

私が傷付きに行ってるだけでした。

 

傷付く私が消えないまま、そして傷付いていてもいいんです。

今はそれがある自分を嫌わずに居られるから。

私が私を大丈夫にできるから。

 

相手は伝えたいことを

勇気を持って伝えてくれてる。

と言うのが最初にあるだけでした。


だから自分も

相手に伝えることができる勇気をもちたいと思いました。

 

我慢するのではなく

関わり合うこと。

そこにはどちらもあります。

 


壊れてしまうかもしれないし、関係性がより深まるかもしれない。

 

私は家族の前で表せていたからまだいいのです。 

 

きっと「〜してはいけない」と制限をかけて

その本音を誰にも言えずにいる人はいるのではないか?

そう思うことがあったから。

 

自分の気持ち、大切にしてますか?

 

 

 

 

 

自分を受け入れる為に、受け入れるための弱い自分を過去から何度も連れ戻す

 

自分を大切にしようとか、自分を好きになろうとか

自分を受け入れようとか…

 

そうゆうことに気がいく、ということは

そうできない自分への否定があるからですが

だから、がんばってそれを「しよう」としてしまいます。

 

それができれば、楽になれる。今の苦しみや葛藤は消えていくと期待を込めて。


「すぐに頼りなくなり、精神的安定などなく

言ったことは口だけで何も継続できず、

やっぱりダメだといういつものゴールが

どこかで待っている」

 

例えば、そうゆう「弱い」と判断した自分像が

いつも頭の中や心の至る所にいて

だからこそ、そちらの方がお手本になっています。

 

容易にできる自分の印象=それが自分である

 

強烈にショックを受けたり

長い間留まっていた感情は

やっぱりその感覚を呼び戻しやすいから。

 

「それでも今の自分はどうなりたいか?を

その時にこそ思い出せればいい」

と思います。

 

一旦ネガティブに留まっても

そこに何度も戻ってしまったとしても

構わないと思います。

 

でもそこで終わりにしないで

自分の理想の状態

例えば、こんな事もあったけれど

でも

「いつも自分はリラックスしていよう」

 

傷付きやすい事は知ってるし

何も出来ないと落ち込むのも知ってるけど

でも

「そんな自分でも問題はないよ」

 

嫌うのではなくて

いると分かって、でもそこに取り組まなくていいんです。

変えなくていいんです。

 

 

身体で心で頭で経験をしたからこそ

その過去の自分は何より疑うことなく信じてるわけです。

過去の自分を何度も思い出しては、

未来はこうなるであろうというイメージを持つ

というのを当然のようにしていますが

 

それは過去に戻っているように見えて

今の自分がそれを取りに行ってるんです。


だからそうゆう癖をやめる事は

意識的に気付けるようにしたいですね。

癖って無意識なので気付けずに長引かせやすいです。

 

なのでネガティブな感情をやっつける姿勢ではなく

それがやってきてたら

排除しようとせずに

ある自分を丸ごと認めて

 

それから最後は

「どうしたいか?」

 

を改めて今の自分が付け加える習慣を

意識できるといいですね。


あの過去が本当だと、あれが私だと

あの色濃く残る経験が私だと思い込んでしまう。

 

でも

そんな1つしかない側面を

大きくしなくても大丈夫。

 

色んな自分が本当はいて

スポットライトは

もっといる色んな自分に当ててあげればいいです。

 

今から全てが創られています。

過去を思い出す事も、過去に帰ることも


それらは今、創られていることだから。

 

 

 

 

感情との付き合い方

嬉しい気持ち、楽しい気持ち…

それらは心地の良さがあり

 

怖い気持ち、悲しい気持ち、怒る気持ち…

それらは不快な気分が伴います。

 

生きていたら心地良さだけ

というのは難しいです。

でも難しいと留めておけるくらいならまだいいのです。


自分に出てきたこの感情と上手くやれないと

とても生き辛くなります。

私自身がそうであったように。

 

そのことで悩んでいる人も多いのではないでしょうか?


感情との付き合い方もたくさんのメソッドがあります。

 

心のことはその説明が

それを伝えてる方の理解のままで受け取ることができない場合があります。

 

以前の私は感情というものへの付き合い方をだいぶ間違えていました。

 

例えば、「感情を感じる」

というのがあるのですが


一生懸命不快な感情の中にどっぷり浸かって

不快で苦しんで自分でそこに留まり続けてました。

そうすれば、その苦しみから抜けられると思っていたからでしたが

それが感情を感じるではなかったのでした。

 

苦しんでいんでいる、という状況は

感じてるつもりで何かを感じてない、認めてないなどのサインです。


苦しみがあるというのは

自分の状況に制限を自分でかけているから苦しいのです。

だから苦しみは感情ではないのです。

私は苦しみが感情だと思っていました。

 

苦しみがやって来たら

自分が自分自身の首を締めてるよってお知らせ。


自分で自分にダメ出しをしているからです。


例えば、

怒りがあるのに

悲しみがあるのに

寂しさがあるのに

それらを抑圧する、蓋をして

見ないふり。


どの種の感情に囚われているのか?


私の場合は、理由も分からないまま

恐れを示す相手がとても多かったのですが

 

恐れが出る度に、それは自分が弱いからで

強くなったら

誰かや何かを恐れなくなると思って来ました。

 

上の理由からだと

弱い自分や恐れている自分を排除する為に

そんな自分を責め続けます。

 

でもこれでは

自分の中で対立の構造ができてしまい

心の内で争いや葛藤が消えません。

 

その時に出る感情をただ認めていくことや

それらがある自分でも構わないというスタンスでいることが

苦しみを軽減させます。


だからまず私は恐れている自分でも良い

ということから始めました。

恐れている弱い自分がいるということです。


そして今でもその恐れというのが

人や状況によって強く出ます。


以前から言われていたことの1つに

「恐れの裏に怒りの抑圧がある」

ということを色んな方に言われて来ました。

私はこれを、本当になかなか認められませんでした。

 

でもようやく、それを認められそうです。

イライラがやって来た時に

心の中で、ちゃんと怒りました。

相手に向かわなくても、心の中でちゃんとその怒りを表現しました。

例えばこんな風に↓

 

k-nali.hatenablog.com

 

 

怒りを表現したら、それがよく自分に返ってくるなんて言います。

ずっとそうゆう方を採用してきたんです。

それにやっぱり怒ってる自分を認められなかった。 

怒りに醜さを重ねていたから

私はそれになりたくはなかった。

 

でもちゃんと沸いたものをその都度処理していくと

不思議と、その怒りが始まった先に

感謝や居心地の良さがあるのでした。

 

自分の心に嘘をつかない、

出てきたものがネガティブであっても

ポジティブであってもちゃんと見て

あると認めていく。

あると認めるというのは

相手に向けなくても自分の中で

それを表現する。

 

イライラしてはいけないのではなく

イライラしたのなら、出たのなら

その自分はいませんなんて、もう言えないのだから。

 

 

心の安定を求めて来ましたが

安定など、どこにもないのだなと今は思います。

 

不安定が続くというような

希望のなさではなく

先にも出てるように不快であるというのは

ある種のサインなのだと思うからです。

 

自分に制限をたくさんかけてるほど生き辛い 。

 

そうゆう制限を自分が自分にかけているよ、

というのを人や機会や出来事を通して

自分のネガティブな感覚がやってくることで教えてくれます。

 

それを自覚してるってラッキーです。

それをどうにかしたいと思って行動するなら

その行動が自分を救います。

 

 


私達は生きていくための色々を

両親から育てられることにより肌で学び

学校や社会という沢山の人の集まりの中からも学んでいきますが

 

例えばその出会いの中で、

傷付いた経験なども出来ていくかもしれません。

そして人はその痛みから

同じような状況や人に触れないような選択をし始めます。

 

でも出会いや状況の全てを

コントロールすることはできません。

だから自分が変われば、ということを探し始めます。

 

でも、変わることではなく

それがあっても何も問題がないという事を知った時に

その苦しみはスーッと消えていきます。

 

自分が求めるものというのが

今の自分のココはダメだから

そうではない、こんな自分であれば上手くいく

と思い込んでいる時があります。


今の自分を否定した先の未来に期待しても

それは得られません。


良いと悪いを決めたのは自分です。


こんな自分では嫌われてしまうという恐れから

自分の中に沸いたものを否定することがないように

それはどんなものでも抱かれたのなら

見ないふりは長引かせないほうが

とても楽な時間が長くなっていくのは確かです。

 

 

 

そもそも、感情というものに「自分の」と付けてしまうのさえ

何の根拠もないかもしれません。

 

今は色んなことが研究されているのは確かです。

そうなる仕組みがあるだけです。

それを責める必要は、あるのでしょうか?

 

色んな人の色んな伝え方を

自分なりに理解して過ごしやすく。

 

 

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