不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

自分を受け入れる為に、受け入れるための弱い自分を過去から何度も連れ戻す

 

自分を大切にしようとか、自分を好きになろうとか

自分を受け入れようとか…

 

そうゆうことに気がいく、ということは

そうできない自分への否定があるからですが

だから、がんばってそれを「しよう」としてしまいます。

 

それができれば、楽になれる。今の苦しみや葛藤は消えていくと期待を込めて。


「すぐに頼りなくなり、精神的安定などなく

言ったことは口だけで何も継続できず、

やっぱりダメだといういつものゴールが

どこかで待っている」

 

例えば、そうゆう「弱い」と判断した自分像が

いつも頭の中や心の至る所にいて

だからこそ、そちらの方がお手本になっています。

 

容易にできる自分の印象=それが自分である

 

強烈にショックを受けたり

長い間留まっていた感情は

やっぱりその感覚を呼び戻しやすいから。

 

「それでも今の自分はどうなりたいか?を

その時にこそ思い出せればいい」

と思います。

 

一旦ネガティブに留まっても

そこに何度も戻ってしまったとしても

構わないと思います。

 

でもそこで終わりにしないで

自分の理想の状態

例えば、こんな事もあったけれど

でも

「いつも自分はリラックスしていよう」

 

傷付きやすい事は知ってるし

何も出来ないと落ち込むのも知ってるけど

でも

「そんな自分でも問題はないよ」

 

嫌うのではなくて

いると分かって、でもそこに取り組まなくていいんです。

変えなくていいんです。

 

 

身体で心で頭で経験をしたからこそ

その過去の自分は何より疑うことなく信じてるわけです。

過去の自分を何度も思い出しては、

未来はこうなるであろうというイメージを持つ

というのを当然のようにしていますが

 

それは過去に戻っているように見えて

今の自分がそれを取りに行ってるんです。


だからそうゆう癖をやめる事は

意識的に気付けるようにしたいですね。

癖って無意識なので気付けずに長引かせやすいです。

 

なのでネガティブな感情をやっつける姿勢ではなく

それがやってきてたら

排除しようとせずに

ある自分を丸ごと認めて

 

それから最後は

「どうしたいか?」

 

を改めて今の自分が付け加える習慣を

意識できるといいですね。


あの過去が本当だと、あれが私だと

あの色濃く残る経験が私だと思い込んでしまう。

 

でも

そんな1つしかない側面を

大きくしなくても大丈夫。

 

色んな自分が本当はいて

スポットライトは

もっといる色んな自分に当ててあげればいいです。

 

今から全てが創られています。

過去を思い出す事も、過去に帰ることも


それらは今、創られていることだから。

 

 

 

 

感情との付き合い方

嬉しい気持ち、楽しい気持ち…

それらは心地の良さがあり

 

怖い気持ち、悲しい気持ち、怒る気持ち…

それらは不快な気分が伴います。

 

生きていたら心地良さだけ

というのは難しいです。

でも難しいと留めておけるくらいならまだいいのです。


自分に出てきたこの感情と上手くやれないと

とても生き辛くなります。

私自身がそうであったように。

 

そのことで悩んでいる人も多いのではないでしょうか?


感情との付き合い方もたくさんのメソッドがあります。

 

心のことはその説明が

それを伝えてる方の理解のままで受け取ることができない場合があります。

 

以前の私は感情というものへの付き合い方をだいぶ間違えていました。

 

例えば、「感情を感じる」

というのがあるのですが


一生懸命不快な感情の中にどっぷり浸かって

不快で苦しんで自分でそこに留まり続けてました。

そうすれば、その苦しみから抜けられると思っていたからでしたが

それが感情を感じるではなかったのでした。

 

苦しんでいんでいる、という状況は

感じてるつもりで何かを感じてない、認めてないなどのサインです。


苦しみがあるというのは

自分の状況に制限を自分でかけているから苦しいのです。

だから苦しみは感情ではないのです。

私は苦しみが感情だと思っていました。

 

苦しみがやって来たら

自分が自分自身の首を締めてるよってお知らせ。


自分で自分にダメ出しをしているからです。


例えば、

怒りがあるのに

悲しみがあるのに

寂しさがあるのに

それらを抑圧する、蓋をして

見ないふり。


どの種の感情に囚われているのか?


私の場合は、理由も分からないまま

恐れを示す相手がとても多かったのですが

 

恐れが出る度に、それは自分が弱いからで

強くなったら

誰かや何かを恐れなくなると思って来ました。

 

上の理由からだと

弱い自分や恐れている自分を排除する為に

そんな自分を責め続けます。

 

でもこれでは

自分の中で対立の構造ができてしまい

心の内で争いや葛藤が消えません。

 

その時に出る感情をただ認めていくことや

それらがある自分でも構わないというスタンスでいることが

苦しみを軽減させます。


だからまず私は恐れている自分でも良い

ということから始めました。

恐れている弱い自分がいるということです。


そして今でもその恐れというのが

人や状況によって強く出ます。


以前から言われていたことの1つに

「恐れの裏に怒りの抑圧がある」

ということを色んな方に言われて来ました。

私はこれを、本当になかなか認められませんでした。

 

でもようやく、それを認められそうです。

イライラがやって来た時に

心の中で、ちゃんと怒りました。

相手に向かわなくても、心の中でちゃんとその怒りを表現しました。

例えばこんな風に↓

 

k-nali.hatenablog.com

 

 

怒りを表現したら、それがよく自分に返ってくるなんて言います。

ずっとそうゆう方を採用してきたんです。

それにやっぱり怒ってる自分を認められなかった。 

怒りに醜さを重ねていたから

私はそれになりたくはなかった。

 

でもちゃんと沸いたものをその都度処理していくと

不思議と、その怒りが始まった先に

感謝や居心地の良さがあるのでした。

 

自分の心に嘘をつかない、

出てきたものがネガティブであっても

ポジティブであってもちゃんと見て

あると認めていく。

あると認めるというのは

相手に向けなくても自分の中で

それを表現する。

 

イライラしてはいけないのではなく

イライラしたのなら、出たのなら

その自分はいませんなんて、もう言えないのだから。

 

 

心の安定を求めて来ましたが

安定など、どこにもないのだなと今は思います。

 

不安定が続くというような

希望のなさではなく

先にも出てるように不快であるというのは

ある種のサインなのだと思うからです。

 

自分に制限をたくさんかけてるほど生き辛い 。

 

そうゆう制限を自分が自分にかけているよ、

というのを人や機会や出来事を通して

自分のネガティブな感覚がやってくることで教えてくれます。

 

それを自覚してるってラッキーです。

それをどうにかしたいと思って行動するなら

その行動が自分を救います。

 

 


私達は生きていくための色々を

両親から育てられることにより肌で学び

学校や社会という沢山の人の集まりの中からも学んでいきますが

 

例えばその出会いの中で、

傷付いた経験なども出来ていくかもしれません。

そして人はその痛みから

同じような状況や人に触れないような選択をし始めます。

 

でも出会いや状況の全てを

コントロールすることはできません。

だから自分が変われば、ということを探し始めます。

 

でも、変わることではなく

それがあっても何も問題がないという事を知った時に

その苦しみはスーッと消えていきます。

 

自分が求めるものというのが

今の自分のココはダメだから

そうではない、こんな自分であれば上手くいく

と思い込んでいる時があります。


今の自分を否定した先の未来に期待しても

それは得られません。


良いと悪いを決めたのは自分です。


こんな自分では嫌われてしまうという恐れから

自分の中に沸いたものを否定することがないように

それはどんなものでも抱かれたのなら

見ないふりは長引かせないほうが

とても楽な時間が長くなっていくのは確かです。

 

 

 

そもそも、感情というものに「自分の」と付けてしまうのさえ

何の根拠もないかもしれません。

 

今は色んなことが研究されているのは確かです。

そうなる仕組みがあるだけです。

それを責める必要は、あるのでしょうか?

 

色んな人の色んな伝え方を

自分なりに理解して過ごしやすく。

 

 

youtu.be

 

 

 

 

 

 

 

ブログの書き方から得たつながりの秘密

先日ブログ講座というのに参加して

書き方をですます調に変えてみてます。

 

無料のブログ講座でしたが、緊張しながらの参加でした。

質問もして、講師の方から吸収したかったのだと思います。

 

以前から見聞きはしてることでしたが

やっぱり同じことを言われてました。

 

「向こう側に伝える相手がいることを意識する。」

 

向こう側にいる色んな世代の、性別の、あなたに向けて書くように

それとも伝えたい誰かをイメージして書くように

それとも自分のために書くように

 

誰かに分かるように

自分に分かるように

 

相手に向けてでも自分自身に向けでも、

それはどちらでもいいのだとは思うのですが

「分かりやすく書く」という意識が

広がりをもたらすのではないかと

色んな人の話を聞いていて思うのでした。

 

 

 

 

私のブログというと、ずっと書き続けられてはいるものの

独り言ブログというのを改めて感じます。

だからアクセスなんて伸びないのだなと。

 

 

怖いんですよね。

質問されたり、批判されることも含め

そこから繋がりが始まってしまうことを恐れてる。

 

 

ブログだけじゃないのですが

言葉を目で読み、理解するというのは

言葉で理解しているだけではなく

その書いた人の想いもちゃんと受け取っているのだと思うのです。

 

文章という目に見えるものを通して

目に見えない想いも必ず受け取っている。

双方の想いがちゃんと行き来きできるような、風通しの良い心地よさを

書く側は意識するのが大切だし

書くのならどんな自分でその言葉を書くのかという在り方も

実は伝わるのではないか、と思っています。

 

自分のブログを振り返ると

自己満足の世界観があって

伝えようとするのではなくて、

言葉を飾るとかニュアンスを楽しんでる感じがします。

 

でもこのブログや最近やり始めてることは実験なので

色々変えたりしながら

自分は何をしたいのか?

というのを大元をはっきりさせるのが大切で

 

ブログがずっと自分の気持ちの整理、自分のために活用していたのは確かですが

 

整理ではなく気持ちをただ吐き出すだけの場であるなら

公開にする必要は本当にない気がしました。

 

それでも公開で書いていたいのは

誰かに何かをして欲しい、助けてもらいたい

見つけて欲しい…

 

そうゆう「よがり」な自分からなのだなと。

 

私の場合は自分のそうゆう在り方が

自分のブログからダダ漏れなのだなと思います。

 

 

 

それと講師の方からの話で私自身がひっかかった所は

ブログのアイデアやネタに関して

インスピレーションを夢からもらうという話でした。

 

夢からというか、朝目が覚めてまだ、まどろんでいる様な時間

夢見たけどあの夢なんだっけ?と思い出せるようで出せないような時間

この辺の話は個人的に興味津々でした。

 

意識と無意識の狭間。

 

そこに人の能力のまだ発揮しきれてない凄みが潜んでいそうで

ワクワクしちゃう。

 

やっぱりそこには何かあるんだよ~って。

 

自分の興味があることは必ずつながってくるこの不思議。

そうするとまた夢ノートの話とかしたくなる訳です。

 

怪しい話を疑ってかかる習慣があるのは

自分が人からどう見られるかが大切だからですよね。

 

でも、そんな不信にイマジネーション(人はこんな風に思うだろう、他人の反応を想像する)使うくらいなら

自分の可能性をバカみたいに信じられた人が突き抜けるんだなって

最近すごく思います。

 

私自身はバカになりきれないから(=人からどう見られてるかの方が大事)

変化しないんだろうと思ってますけど

 

それって自分への信頼がないからだって改めて思いました。

 

ここのところネガティブ続きでしたが

それも自分への信頼のなさからだったというのが分かりました。

 

この続き、また書ければいいと思います。

 

 

 

ネガティブに落ち込んだら、とことん落ち込んでみる

ネガティブに陥るのは過去の記憶か未来の不安か

そのようにして今の自分から

未来や過去に飛んで、感情を煽ってるようです。

今の自分が全て仕掛けてると、気付いた人たちは様々な方法で語っているのをみる機会は多くなりましたが

 

私もお金を出して、色んな人の真似をしてみるのですが

ここへ来て白状すれば、何もうまくいきません。

自分の望みのカタチではないという意味で。

 

色々行動して、お金も出してきて

だから、ここに書くのも恥ずかしくなるし

バチが当たりそうってヒヤヒヤしながら

 

上手くやれないし

気持ちも落ち込むし

 

何も変われないなぁって、改めて。

そんなモードで今日を過ごしています。

 

ついこの前まで変わりましたって言った手前、落ち込んでたり、意固地になったりして

 

こうしてしょうもない感じで

トボトボと書いてるわけです。

 

こんな状態で書き出してるなんて

おかしいと思いながら。

 

どうせ独り言だからでしょうか?

 

独り言のように書くグログは広がらないそうですよ。

でも、良いじゃないかと思うんですそれでも。

 

弱音吐いたって。

 

これからくる未来がたとえ以前と変わらなくても

私は生きることはやめないと思ってます。

 

ここに生まれて来て、ちっとも良いことなんてないかもしれないし

もしかしたら過去の悲惨な思いを

またぶり返してしまうかもしれない。

この考え方が間違っているかもしれない。

 

人を怖がって、自分の体を傷付けながら

お金も稼げなくて、でも働いて

嫌になって転職を繰り返して

嫌なことからも人からも逃げて、言ったことは何も達成できず

そんなことも、またやるかもしれないですけど

 

そんな自分でももういいから、

そんな生き方でもなんでもいいから

途中退場はしないでおこうって。

 

別にずっと独り身でも、寂しさを抱えても

全然明るく過ごせなくても、どうしようもない自分でも

 

希望なんてなくても、本来の自分でいなくても

 

散々精神的にも肉体的にも

自分を傷付けて来たけど

また、そうし始めたとしても

 

苦しみを生きてたあの過去の私を思い出すと

それはそれで無下には出来ないからだと思うんです。

 

自分を大切に出来なくても

 

生きてていいんですよね。

 

今は、自分を大切にしようって声がたくさん上がってて

 

自分もそうゆう大切さを

ここにも書いてるけど。

 

好きなことも全然出来ないけど

 

そうゆう自分でもいいんですよ。

 

自分を大切にすることも義務になったら

疲れるのかもしれないです。

 

 

生きていたら、色んなこと間違うし

散々同じこと繰り返しても気付かないし

いじくりまわす人生で

シンプルじゃないし

全然状況なんて変わらなくても

 

ひっそりと目立たずに咲いても

それもちゃんと一つにカウントされる人生で。

 

輝けなくても

ちゃんと見てくれてるかけがえのない人生ですから。

 

例えば、そうゆう彩の人生があってもいいんだよって

今は言いたい時みたいです。

 

 

弱い自分を認めて、吐き出して。

 

 

 

近々、海でも見に行こう

 

そうやって

自然に甘えたりしながら

 

また元気を取り戻したりするんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネガティブな感覚から逃げない覚悟=自分を大切にすること

 

ここの所、ずっとモヤモヤしていた。何も心が動かなかった。

まるで感情が消えてしまったような

見えないものを言葉で表現するのは難しい。

 

前にもこんな感覚に陥ったことがあった。

それも所謂満月だとか新月だとか

エネルギーが強いとされる直前だった。

 

それで今回は、もうすぐ春分

春分を前にスピリチュアルの世界では

大天使ミカエルさんからのアセンション予報が発表されている模様。

どうやら世界は二分されていくらしい。

 

私はスピリチュアルを都合よく使っている時がある。

自分のモヤモヤの原因を、そうやって目に見えないもののせいにしてる。

 

でもそんなモヤモヤする夜に

今回は自分で自分の中を調べることにした。

いつものように春分の日のめでたい境目のせいにするのではなく

この自分の垂れ流してる居心地の悪さについてを。

 

ネガティブな感覚に陥る時、そこには原因があると思うから。

悲しいとか、イライラするとか

はっきりわかる感情ではなくて

言いようのないモヤモヤで無感動。

 

見つけにくい。

何かがきっかけで悲しくなったり怒ったりではない上、

感情の種類が何なのかはっきりしないから。

モヤモヤして晴れない。

 

でも、この感覚はもしかしたら無価値感とでもゆうのだろうか?

 

近い予定で自分が立てたイベントがある。

私は、お金を稼ごうとそれを行動に移した。

それはちょっとした勇気が必要だった。

 

なぜなら、自分の売り物を出しても

反応が全然ない、というのが怖かったから。

 

でもやっぱりそうなった。

原因はそれじゃないのか?

 

本当は見て欲しいし、来て欲しい。

でも、うまくいかないことなんて想定内だったはず。

社会の中で、お金は怖いものや汚いものと避けて来て

お金より価値がないと思い込んで来た自分がやるのだから

いきなり上手く行くわけじゃなかろうに。

 

私はお金を稼ぐという事をやるときに

こうゆう周りの反応に耐えられる自分がいるか分からなかった。

 

つまりは、これをし続ける覚悟があるかどうか?

 

出てくるであろう色んな想い

特に売れないことが恥ずかしさに繋がること。

そして恥ずかしさがある理由は

売れないのに頑張ってる人をどこかで見下してるから。

 

「恥をかきたくない」

 

起業しても稼げないとか、あいつはお金の亡者だとか

そうやって人のこと無意識に見下してる。

自分は恥なんてかかずに綺麗にやりたいと思ってる。

 

去年末に自分で今同様に募集をかけたり

アクセサリーを出店してみたりした。

趣味の範囲を超えてみたけど、全然だった。

 

その時の自分の痛みがまだ痛みとしてあるままだから。

 

私はがむしゃらにやってる人をどこかで嫌ってる節がある。

それはみっともないと思ってる。

自分はもっとスマートにやりたいと思ってる。

 

でもそれはなぜか?

 

その人のゴールしか見ないで、その裏を知らないから。

どんな想いを超えて来たか知らないから。

成功しか見てないから、完成しか見てないから。

 

 

もう一度、自分と向き合う為に質問をした。

 

なぜ稼ぎたいのか?

なぜ会社に雇われるではダメなのか?

 

「私は生きている事に情熱を感じたい」

「充実を感じたい」

「仕事を楽しめる人になりたい」

「どうせならふざけてるくらい面白いことの方がいい」

 

自分の中でお金が1番だったのが

どうやら時間の方が大切かもしれないという感覚がやって来ている今

生きている内に感じられる幸せな時間は

自分にとってどうゆう時間のことをいうのか。

 

今のままでも、仕事に情熱的に取り組めるかもしれない。

今の職場の人たちはすごくいい人達だし

仕事も一生懸命やれば面白くなるだろうと思ってる。

だからできるだけ、そうするようにはしてるから

それなりに面白くもなりつつある。

こんな風にできる自分も初めてで有難くもある。

 

でもそこは体を壊せば生活自体回らなくなるような

働き方と時間の使い方なのだ。

 

今までと同じような働き方をする事は

当たり前なのだろうか? という疑問。

 

そんなギリギリで暮らしてる自分で良い訳ないと思ってる。

本当は人からどう見られるかなんて、

そんな流暢なこと言ってる余裕なかったりする。身体の不安もそう。

だから身体に鞭打って、

単純にたくさん働けば良いなんて言ってられないのが本音。

 

人生、質より量っていいのか?

 

そうゆう自分なりの動機からやり始めたのが

自分で売るという事。

でもこれも自分なりの実験なのだと思う。

 

お金と関わろうとすることは

人と関わることだった。

同時に自分と関わることになる。

正確には、お金で出てくる自分の「思い」と関わることになる。

 

 

その自分との関わりに覚悟ができるかどうか?

 

色んな出会いと関わりの中で生じる自分の想いを

どこまで面倒見れるか?どこまで見捨てないか?

自分の見たくない部分や避けたい感覚も出て来てしまうその時に

自分は目を逸らさないで受け止めてあげられるか?

 

覚悟って

頑張ってどうにかするとか

自分を追い込んでとか

辛い思いを自分に課すことが覚悟なんじゃない気がする。

 

ワクワクキラキラもドキドキハラハラも

両方を経験として受け取る。

誰かと関わることで露わになる自分の心を

自分でも知らなかった色んな感情の隅から隅までを

愛していくことのような気がする。

ネガティブでポジティブな自分を。

 

 

 

私がスピリチュアルな世界はないとは思ってない理由は

そうゆうことなんだと思う。

 

人はいつもどちらか一つではないから。

 

見えるものであり、見えないものでもあるから

精神と肉体で出来てるから

陰であり陽だから

ネガティブでポジティブだから

子供であり大人だから

例えば体は女性でも、男性的要素もあるから

昼は現実を生き、夜は夢を生きているから

意識であり、無意識であるから

.

.

.

 

 

今の私に至れたのはタダじゃない。

でもお金にも変えられない。

今の私があるのは、自分でも投げ出していた自分の事を

精一杯支えてくれた人たちが居たから。

そこにお金を払って繋がりを求めた自分が居たから。

お金がきっかけでも、その繋がりは愛情だったから。

 

そしてやっぱり家族や友人が居たから。

 

お金もかかったし、愛もかけられていた。

 

やっぱり両方だった。

 

 

 

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その天使michaelの歌声

 

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お金を出すという経験

お金を払うことは行動で

お金を稼ぐ事も行動。

 

だからお金にまつわる事は目に見える側の方。

 

でもその出すという行動を支えてるのは

感情や価値観や考えなどの見えない側の方。

 

お金を出すってその金額が高いほど勇気がいる。

でも、高いと思う額は人によって違う。

ドキドキする額を出すことが

自分の決意や覚悟や勇気ともいえる。

そしてお金を中心に必ず交換が行われていることを

自分も含め今の人は忘れがち。

 

お金がなかった時代は

直接その価値を交換していた。

お金ができてから、

その価値と価値の間をお金が取り持ってるお陰で

交換できる価値の種類は限定しなくてよくなった。

 

そして今は、その価値も

目に見えるものから見えないものまで様々になった。

 

お金という物質は現実世界の代表のような存在だけれど

それを介して買うものが無形の場合は特に

お金という行動を支えている裏にある

見えない側の自分の思いが出やすいのではないかと

考えるようになっていて

 

払うことで、自分が何を引き換えに受け取れると思っているのかが

現れる気がする。

 

払うことはいつもすごく意識が行く。

払うことがいつも損なうことに直結していた。

お金だけ見てた。


例えば

野菜を受け取っていて、

カフェで美味しいコーヒーやゆったりした時間を過ごせていて、

毎日帰るお家があって、この街で暮らせていて…

 

そうやって必ず受け取っているものがあるわけで

でもそれに関して私の場合、かなり無意識になりやすかった。

 

この時は、本当に感謝が少なかった。

 

でも、夢ノートっていうなんなのかよくわからないけど

ちょっと気になるものにお金を出した時に

私は自分がお金を出すという行為の裏側で

何を受け取れると期待していたのかが明らかになった。

 

それはもちろん夢ノートだけじゃなく

あの頃から無形のものにたくさんお金を払うようになった。

ヒーリングや情報商材に講座への参加…

 

お金だけしか見てないから

目に見える側しか見てないから

自分が受け取れる物しか見なかった。


そうやってお金さえ払えば、

自分の欲しいものが手に入ると勘違いしていた。

 

でも、私が喉から手が出るほど欲しかったのは、

お金という目に見えるもので簡単に手に入るようなものじゃなかった。

それを教えてくれたのは、見えない方ではなく

お金という目に見える方の経験からだったのだから

なんというか…。

 

私は見える「お金」に

自分でも見えてない自分の「在り方」を見せ付けられてしまった。

 

お金出すからなんとかしろみたいな傲慢さや

お金の量で自分を低めたり高めたり(相手を見下したり、崇めたり)

いつでも対等な命をお金にすり替えて優劣をつけて

そうやっていつでも比べていた。

 

収入、仕事、容姿、能力、センス…

上げればきりなく出てくるそれらを

比較して振り分けて判断していた。


お金の裏側を支える見えない側の考えが

そんなんばっかりだった。

お金がとても醜く汚いものに見えたのは

自分がそれだったからだった。

 

でも、そんな自分さえ

もうどうにもできなかった。

人間だから、そんなことも当然あるだろうって諦めながらも

お金を払うと行為の裏には

その日までに売る人達の努力や行為が想いが必ずあるという方にも

目が行くようになった。

 

無形のものをにお金を払うほどに

お金の裏で支える自分の見えない方の在り方や考えや価値観や信念が影響する。

だから、自分のことが嫌いなほど上手くいかないし

信じない程その価値を受け取れないと思う。

 

だから私は上手くいかなかった。

 

でも上手くいかなかったおかげで、これを書けている。

その遠回りな経験が今に全部繋がっているのだから

私は自分のしたいことを謳歌してるのだろうな。

そう思うと、全てがありがたかった。

 

そして、稼ぐということも

同じことが当てはまるのではないか、と考えていて

お金をもらうことの裏側に

私はお金と同時に何を受け取ってしまうと

恐れているのか。

 

収入と支出のバランスの悪さも

その裏を支えているのは自分の思い込みや考えや感情などの

見えない方で

 

お金はそのことをただ見せてくれる。

 

これからは実験をするように行動を重ねるしかなくて

お金でなくても、例えばやってみたいけど怖いと思うことに

ちょっとした勇気を出すと

表面では分からずにいる、深層の自分の在り様が見えてしまうから

その正体と鉢合わせするのにビビってるんだろうなと思う。

 

だってそれを受け止められるか、自分でも自信がないから。

 

でも怖がってる時間を無駄に伸ばして、結局やらなければ

今と見てる風景がさほど変わらないと思うと

やっぱりそれは面白くないって思っちゃう。

 

 

 

  

 

どうすれば?ともがくのはもうやめて、自分の今をやり尽くしてみたら

 

 

ずっと写真を撮っていた過去があった。

 

haruradio.hatenablog.com

 

 

 

なぜか突然降って湧いたそれに没頭した。

子供の頃は踊ることや何か物を作ることが好きだったのに、

なぜか急に写真に走った。

 

夜間の学校に通い、それからスタジオに勤めたり

仕事もそれに携わっていた。

 

それはとても苦しい期間だった。常に何かを追いかけてる時間だった。

 

あの頃の写真は感傷的なものばかりだった。

人を撮ることはほとんど無かったが

被写体になった彼女達も私は写真の中で傷だらけにした。

そうゆう人しか撮りたくなかった。

そしてとても美しく危うい時間で、それは滑稽だった。

 

 

写真という道具を使って

感情を拡大させてた。

これっぽっちの悲しみを

うんと大きく顕微鏡のように拡大させて、そこの中にどっぷり浸かっていた。

 

ずっと分からなかった。

どうして写真に没頭していたのか。

そんなにネガティブなものばかりに惹かれたのか。

 

守られてる気がしたから。

自分の世界に引きこもって、他の人からは触れられないようにしたかったから。

傷付きたくなかったから。

癒されたかったから。

私にはネガティブがお似合いだとどこかで思っていたから。

 

そうやってちゃんと自分を俯瞰してる自分がいた。自覚はなかったけど、いた。

ちょうどあの写真のパンダのように。

 

あのパンダのように、苦しむ私をどこかで見てる私がいた。

 

私がセンチメンタルになれば良いものができると思っていた。

 

そして写真は私にとって

守られてる場所で

自分が傷付かない場所で

気を許せる場所で

癒される場所で

ネガティブを拡大できる場所になったのだ。

 

ネガティブがお似合いの自分になった。

 

その裏に大きな罪悪感があったことを隠す為に

過去の恥ずかしい自分を許さない為に

私は私の出会いたくない過去を隠したくて、恥ずかしさを見たくなくて

恥ずかしい自分を責めたくて

お前はなんて性格が悪い、恥ずかしい女なんだと

ネガティブな世界を作り出した。

 

 

でもそれは、とても疲れたよね…。

とてもエネルギーを使っていた。

死の淵を歩く危うさは、終わらない緊張の続き。

 

 

どんなに見たくなくても苦しくても、残念だけどそれも自分の選択。

私はしっかりと自分の世界を作り上げていた。

自分を追い詰め懲らしめる世界を

作り出した。

 

結局、そうやって作り出して

自分を自分で追い詰めても

最後まではやり尽くせなかった。

 

ここから

死ぬことを諦めて生きることが始まった。

 

憎しみはやがて愛情に変わる。

それだけ懲らしめられるのだから、それだけ愛せる。

 

もっと早く、憎しみのいじめっ子な自分を認められばよかった。

そしたら、あんなに長い間苦しまずに

その裏に隠れてるものを探しに行けたのに。

 

憎んで虐めてるのはそれだけの理由があるから。

私は自分でもなぜ自分で自分を傷付けるか、嫌いなのか、ずっとわからなかった。

自分で分からないようにする為に虐めたり憎んだりしてるんだ。

ネガティブな感情が出る裏には、そうやって隠したいものがある。

そのネガティブな自分を受け入れたら、自分がなぜ自分を苦しめるのか

分かって来た。

 

 

ネガティブな感情はそこを掘れば宝物が見つかる場所。

だから、それが出る機会は無下に扱わない方がいい。

その感情の自分も認める。

その感情があってもいい。

その感情を良い悪いで判断しない。

 

憎しみが強いほど、深い愛があるから。

 

憎しみも愛も、どちらも私である事に変わりはないのだから。

 

 

 

そして今ふと、思ったのだけど

私は自分を追い詰める程の素晴らしくネガティブで不幸な現実を

あれだけの臨場感を持って作れるのだよね?

 

全くないところから、

私はあそこまでドラマチックに自分を追い詰め苦しめる

毎日を作ったよね?

 

覚えてる、覚えてる。せっせと本当によくやっていた。

 

りんごが袋から落ちただけで泣いていたのだから(笑)

 

だったら、その逆だって作れるよね。

 

過去の私はネガティブを作り出す天才だったんだから。