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fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

幸せも夢も叶ってる今という瞬間

夢ノートの素材探しで、歩いて街の方へ向かう。

 

太陽が昇る眩しい時間はアウターが煩わしくなるほどなのに、

隠れた途端に冷えていく。

 

歩くリズムと聞こえる音楽がシンクロする瞬間がたまらない。

 

「たまらない」という言葉の中には

興奮や喜びや感動が詰まっている。

なのに「たまらない」という一言で表現できてしまう。

 

もっとその中で感じてる喜びを感じよう。

はたから見れば

たかが、てくてくと歩いているだけの時間。

 

でも太陽が暖かくて、その音楽に癒されて、お休みで

ちょっと嬉しいその感じをめいっぱい感じること。

 

それは、当たり前の中の見過ごす時間をしっかりと捕まえて

ここにあるってマークすること。

そうやって幸せはいつもここにあるよって、自分に知らせる。

 

全然特別じゃないけど、案外やれてない。

 

でもそこから、幸せは増える。

 

幸せの感度は自分で上げていく。

 

幸せは簡単に見付けられる。

 

そうやってたくさんマークが増えていくと

自分はすでに、幸せだった事に気付いていく。

 

 

自分の好きなものや、こんな雰囲気の中に身を置きたいと思って

自分の理想を探しながら、雑誌を手に取って

それが松本の街やお店の写真がたくさん載っている民芸特集に雑誌だった。

 

私は今、その街の中を歩いてここにいるわけだ。

 

不思議だよね。

 

もう叶ってる事にさえ、気付けないなんて。

 

 

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今日のありがとう。いつも幸せの中を泳いでる。ここにいられることが特別。特別の中にいるから、私が特別にならなくてもよかった。#ありがとう#松本

https://www.instagram.com/p/BRPGGskg_G4/

夢って一体なんなんでしょう?夜見る夢と、叶えたい夢が同じ漢字なのはなぜでしょう?今が暗いから、未来は明るくしたいのでしょうか?今の輝きに気付き続けることは何を生むでしょう?いつも使ってる持ち手の短い鉄のフライパンにはこの右の赤いミトンがぴったりだ!このミトンをはめてキッチンに立ってみたら…♡ #夢ノート#今が幸せの最中#松本民芸家具#ブログ更新

 

 

 

 

 

不安でも、お金を払ってでも、憧れに会いに行くことの大切さ

友人と話をする自分がいつの間にか

その人の今を苦しめる種を探し出そうとしてる自分にすり替わっている危うさに

 

いつだって目の前のその人は

私という色眼鏡を通して見ているという事実を

忘れてはいけないのかもしれない

と。

 

だから私がやることはいつも

私でいるいうことに尽きる。

 

そこだけに意識を集中していたら

多分それ以外のものが目立ってきてしまうから

その時でいい。

きっとそうやって探さなくても勝手に出てくる。

特に「私が」それをやろうとする必要から

手を引くこと。

 

 

言葉だけでのやり取り以上に私達は読み取っていることを

見えないながら感じる自分がいるのは

実際そうしてきたからで。

 

お金を払って講座を受ける経験も

お金を得るために不安でも住み込んで、自分がごっそりその場に身を埋める経験も

言葉以上にその場所の人の状態と環境が自分を左右する。

ご縁というのもあるだろう。

でもそのご縁も、自分が探す行為がなければ結ばれなない。

しかもどんなものを求めて探すのかで、ご縁も決まってくる。

だから自分が常に発起人なのだけど。

 

頭で理解を求めてた頃には、何をやるか(内容)が自分に影響するとは思えても

現場のその人の在り方までが自分を左右するとまでは

思わなかった。

 

最近自分が大切にしてるものが変わったせいで

見えない事もまるで見えるものと同じように在るという事に私がしてるから

という理由もあるけれど

 

実際それらの経験で

自分がこうだと信じてるものは他の人もそうに違いないと

どこかでみんなも自分の見てるものと同じ価値観を共有しているという

勘違いに気が付けなかったのが、

目の前のその人の在り方や状態で

例えば、幸せで、楽しくて、自分である事に安心していて…とかであれば

自分がそうではないというのが

その人と自分のギャップとして見えてしまう。

 

でもまだそれに気付けないというのなら、それも執着のなせる技

なのかもしれなくて

 

他の人はそうではなかった、と

言葉で知ったのではなく

その人の状態で知った。

 

だから、もし今の自分に満足がないのなら

自分が求めてる憧れに触れたり会いに行くという経験そのものが

自分の状態を俯瞰させてくれるかもしれない。

 

今の自分の環境と同じ所にいる人達は

同じ価値観を共有していたりすることが多いから。

 

何かを我慢しながらそこにいる人達、という当たり前を。

 

 

 

 

人は粒であり、波だから。

人は見えるものであり、みえないものだから。

 

この事を私は常に追いかけるだろう。

だから、何度でも。

だから、愛「する」なんだと。

 

 

 

 

 

 

 

好きな事がうまくいかない理由

haruradio.hatenablog.com

 

この時って、一生懸命ヒリヒリ痛い自分を感じていた頃で。

 

過去記事を読んでて、なんか晴れそうで晴れない感じだったから

再編しようとしたら、記事が消えてしまって…。

 

せっかくなので、そのヒリヒリ痛い感じもありだよ、いいねと

残しておけって事にして

今の私から過去の私への観察日記を書いてみようかな。

 

 

あの時はまだ、そのいたたまれなさのままに書いていたから

上手くまとまってないというか。

「全く売れませんでした!」って

エクスクラメーション・マーク付けちゃう感じとか

ブログ書きながらも

これって、恥ずかしさをどうにか隠したかったんだろうなと思う今で

自分自身を「すごく残念な人」って思いながら書いてた。

自分をすごく残念だと判断してることが

残念だったけど。

 

去年の自分への追い込みというか、自分でやってきてる事だけど

きつかった。

 

お金がなくなる不安が強かった。

お金に対する執着が凄いあったと今更ながら思う。

 

そうゆう「お金(だけ)」が欲しいという想いの元で

お金に対する嫌悪も同時に持っていた。

 

欲しいものなのに嫌悪という

アクセルとブレーキ

水と油

みたいな中で色んな行動を起こしていたから

ずっとヒリヒリするような、落ち着かなくて汗が出るような思いが消えなかった。

  

お金だけじゃなくて、好きな人や仕事も

当時の自分の気持ちで欲しいと思うものに行動を伴わせて

10歳以上離れた男の子に告白事件とか、

慣れてきた仕事を辞めて転職とか、それも続かず辞めるとか

 

今までにありえない大胆過ぎる行動で

おいおいおい…な感じ。

 

これって、自分のしたい事に別の欲求が絡んでるから

粗末な結果だったと、心が揺さぶられて怖くて仕方なかったと

今書いてて思った。

 

好きになる気持ちが嘘ではなくても

その仕事への憧れが嘘ではなくても

それを行動に移す時になぜ恐れが強くなるのか?

 

行動に強い恐れが付きまとうのは

「好き。それだけ」ではなく

別の何かを手に入れようとしてるから。

 

実は何が欲しいかと言えば

恋人がいる「自分」だったり、いい仕事に就いてる「自分」が欲しかった。

とにかく重要なのは「自分」。

 

これは今だから書ける憧れや好きの裏に隠れた欲しいものだったけど

 

そうとも気付かないこの時の私の前提は

自分の好きや憧れを手にする為の条件でもあった。

 

 

・今までがダメだったからちゃんと働かなくては

・適当にやってはいけない

・楽しむより、しっかり真面目に取り組む

・頼らず自立

・楽してお金をもらってはいけない

 

 

そしたら、憧れを行動に移して出てくるものが

 

そのままの自分では嫌われてしまう

何もない自分では、そのままの自分では酷過ぎると思ってる事や

自分の見てくれや、いつまでも成熟しない内面や

あんなに憧れだったはずなのに、

仕事への興味が尽きる程の自分の中の過度の要求

(完璧さや失敗できないプレッシャーなど)や

〇〇しなければの応酬で

 

自分の嫌ってる側面と

それをどうにかしようとする自分がじゃんじゃん出てきた。

 

そして、何より 結果を残して見せびらかしたかった。

その結果は努力の証明だから。

ダメな自分をやっつけた証明だから。

これでダメな自分はもう克服しましたと誰かに言えるから。

 

常に「しなければ」が付きまとう理由は

心の内にダメな自分という劣等感が住んでるから。

 

好きな事を目の前にするからこそ、ちゃんとした自分でいたい。

理想でありたい自分が強く出る。

 

どちでもよければ、そこまでの「しなければ」は出てこない。

 

良い結果以外は許されない。

その強さの事=執着。

 

 

 

ぐいぐいやって心が疲れた後、

ずっとやりたかった畑の仕事をしに行った経験は

今の私にとてもいい影響を与えてくれてる。

あの時に出会った人、環境、働き方、価値観が

今の自分を助けている。

 

 

憧れの仕事を辞めて、外側の事を切り替えて

押せ押せの執着はポロっと脱落していたから

自分のしたい事に別の欲求は絡んでなかった。

 

疲れていたから、心に優しいものをちゃんと選んでた。

 

この時重要だったのは「自分」ではなく、

自然の多い環境、畑でする仕事、土いじり、など「経験」の方

そこでどんな「自分」かは全く重要ではなかった。

 

だから前提が違っていた。

 

・重くない気持ち、無理なくできるもの

・できなくても許せる場所と期間

・結果が出なくても、それで問題ないこと

・何の理想も持っていないこと

・楽しむこと

 

 

 

そして

実際とても楽しい経験だった。

びっくりするくらいたくさん与えられた。

そのままの何も持っていない素の私で喜んでもらえた。

 

同じように好きや興味があるものをやってみて

そうやって2つの結果が出たけれど

 

あの時はその2つの違いも分からないまま

とにかく自分の欲しいをやり続けていた。

 

 

でも最終的には、「しなければ」と恐れが伴う方の選択をきっかけに

自分の強過ぎる執着で

今度は私の方がボロっと脱落してしまった。

 

畑に行った時は執着がもう出ないように外側の事を変えたけど

執着は自分の次の選択でカタチ変えて又やって来ていた。

次の選択というは自分の好きな事で

雇われずに働く憧れだった。

 

実際売ろうとしてみたり、ビジネスでお金を稼ごうとしたり

ここでも色々やってみた。

 

そうやって、欲しいものを追って追って

でも何も手に入らないその事自体が

今まで、自分は自分に何もしてこなかった事に気付かせた。

 

自覚はあったけれど

本来の自分を嫌い続けていたことが更に明らかになった。

 

 

「安全の約束されない所まで遂に来ても

この先どうなるんだろうと思ってる自分がいる。

自分がピンチなのにどうなるんだろうって視点」

 

 

どうなるんだろうって言う、まるで他人事な感じ。

「きつかった」という感想が残ることがその証拠に

私の中で、自分のことなのにどこか放置してたんだと。

 

いつもなら、しない選択

例えばお金がないからとか、自信がないからとかでやらない選択を

敢えてしてみたら…。 

 

してみたら=させてみたら

 

怖いと分かっても敢えてそう自分にさせてきて

 

そしたら

自分の選択なのに、こんなにも恐れているのに

後の祭りみたいにほったらかし。

自分で決めたのに、怖さが出るって分かってるのに

 

見守るのではなく、その怖さの自分自身をずっと放置してた。

 

出来事や人をきっかけに出てくる感情がある。

その感情を人は見たくはない。

見たくはない、避けたい理由が何処かにあるのだけど

でも、この感じたくないものが出てくる場面に出くわすのは

ある意味変わるチャンスとも言える。

 

でもそのせっかく出会ったタイミングで

どう対応してるのか?

反応ではなく、ちゃんと「対応」できるかどうか?

 

反応=無意識

対応=意識

 

 

例えばだけど、これってもし自分が母親なら

子供を見守るのではなく、放置するような感覚じゃないかと。

 

感情への対応って親と子の関係のような気がしてならない。

 

感情をコントロールしようとして、でも実は出来ないことが判明して

じゃあ、感じようとしてるのに上手くいかなかったのは

感じてるつもりで、それに飲まれたり振り回されてしまうのも

それがあるとは認められないからじゃないか。

ネガティブな卑しい、酷い感情が自分の中にある事を許せないからじゃないか。

 

子供が場なんて気にせず泣き出すことや、わがままを言うことに

ヒステリックに対応してしまうのは

その感情(子供)に振り回されて、周りの目を気にして

早くどうにかしなくてはと

その場しのぎに強引に押さえつけようとして

心を聞く余裕が持てないのと似てるんじゃないか。

 

周りの目がある所では、大丈夫だよと言えない。

周りの目がある所では、その感情に寛大ではいられない。 

周りの目がある所では、その部分にはyesと言ってあげられない。

ちゃんと育てなければと真面目になるほど

一緒に遊べない。

周りの目がある所では特に、いつまでも母で大人でいようとする。

一人の女性、一人の人間である前に

みたいな。

 

 

自由で無邪気で純粋で癒されるその子供は

大人になった今も自分の中にいて

本当は一緒に遊びたがっている。

無茶も言う、強引で、わがままで、こっちの言うこと聞かないけど。

 

だから子供との関係は、そのまま自分との関係が

そこに現れてくるんじゃなかろうかと思っている。

子供はそれを知らせる為に生まれてくるのかもしれないと

 

って書きながら自分に子供はいないけれど

もしいたら、私は子育てを楽しめるのかどうなのか。

 

 

怖い事をし続けて分かってしまった事は

自分の負としてる感情は見放してもいいと思ってる事だった。

そうゆう見て見ぬ振りをする事だった。

自分のことなのに、誰かに解決してもらいたいと思ってることだった。

自分には手に負えなくて

自分の人生が苦しい理由を誰かのせいにし続けてないと

誰かに解決してもらいたいなんて思いは出てこないから。

 

そうやってどんどん

母のせい、父のせい、お金のせい、会社のせい

自分のメンタルのせい、容姿のせい

〇〇のせい、せい、せい…

 

 

自分の中で苦しんでも

いい事は受け取るけれど、悪いものは他に任せようとしてた。

 

最終的に選んだ自分のしたいことはお金のことだった。

そしてそこに絡んでた別の欲求は自立することだった。  

 

「なにか出しても売れない理由の奥には

実際それで発生してしまう関係性に対処しきれないと思ってる自分がいることだった」

 

売る行為は、出会いの窓口を無差別に広げることだから

自分の知らない人との関係で怖い場面は必ずやって来る。

特に私の場合なら尚更やって来てしまうだろう。

 

怖い事をやり続けても

その怖さを受け止められないと上手くいかない。

 

自分の中で出会ってしまう恐れや、怒りや、罪悪感や、執着も、全部

そうゆう出会いたくない方に優しくなれたら

出て来てもいいよって言えたら

出て来ても責めないよって言えたら

 

なんか、大丈夫な気がする。


本来の自分を嫌い続けて

私の中のあって欲しくない部分で見たくない部分で

認めたくない部分で

それを責め続けた。

 

でもそれを、諦らめて

持っていてもいい事にして、責めないように努めてる今

 

不思議な事に何もなくても素晴らしい自分だったと

気付き始めてる。

 

 

人は

自と他で

子供と大人で

意識と無意識で

陰と陽で

内と外で

精神と肉体で

目に見えるものと目に見えないもので

 

そうゆう2つからできているから

そのどちらかだけという生き方を選択すると

上手くいかないのだろうと思う。

 

 

 

私が本当の自分に戻って来た。

1冊の夢ノートが終わったその時に。

 

夢ノートは夢を叶える為の願望引き寄せみたいに思ってた。

いや、多分それであってる。

夢を実際叶えてる人も見て来たけど

私のプロセスは外側のものは何も手に入らなかった。

 

その代わり、今の自分以上のものは外側にはないことを知る事になった。

それがこんなにも満ち足りて安心した気分だなんて知らなかった。

生きてる喜びがこんなにも近かったなんて。

 

ありがとう。

 

 

私の今までの取り組みのベースはこのノートにあった。

 

 

だから、今度は何もないこの私のまま

夢ノートの不思議を誰かに伝えようと思ってる。

 

 

結局全部自分が望んだことだったんだろう。

だって、経験がなければこうして言葉で伝えることも出来ないのだから。

 

 

なんだか全てが、茶番だった〜

フー

 

でもね、いつも心は伝えたがっている。

あなたの好きからの取り組みが、あなたを輝かせる事を。

 

しなければならないから外れたら

好きがもっと近くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

お金を失ってみました。

自分の信じてる事を人は疑う事はしない。

 

と言うか、疑えるならそれはもう

当たり前じゃなくなってるのかもしれないけれど。

 

 

 

でも、それを信じてるのは

本当にみんなもそうだから、だろうか?

みんな当然そう思ってる、のだろうか?

 

100人いたら、100人全員だろうか?

 

それとも、1:99だろうか?

それとも…

 

 

1人しかいなかったら、それは間違い

なんだろうか?

 

 

共通の認識は、共通の環境の中で育つ。

 

だからその時代を生きれば

当然その時代の影響を受ける。

 

私達は今、とても便利で豊かな時代を生きている。

なんでも揃っている。

今いるこの国は小さいのに物質的にはとても豊か。

 

水はタダで飲むことができる。

トイレも綺麗なトイレを貸してもらえる時代。

食べ物も捨てるほどにあり

毎日体を洗うことができ、

洋服はすぐに洗うことができ

寒ければ暖かく過ごせ、暑ければ涼しくもできる。

 

 

何もなかった時代もあったはず。

でも今はお金で揃えることができる。

 

 

私はそれを知らない。

経験したことがない。

 

昔を知ることはあっても

今を生きてる私は、それを想像することくらい。

 

 

でも、この生活から自分が少し逸脱する様なことがある時

しかも自分だけという時

 

 

今のこの生活は、お金があるから

なんだろうか?

 

働いているから

なんだろうか?

 

やむ終えず、という理由が

誰かのせいでも、状況のせいでもなく

自分で招いたとして

 

それをしない人は悪なんだろうか?

 

 

 

 

働けるのに働かない選択を恐れていたことがあった。

 

でもそれは、なぜだろうか?

 

お金を失うことで、1番恐れていることはなんだろうか?

 

払えなければ、便利を1つ1つ手放さなくなる状況を想像して

義務を果たせないことを想像して

 

それは人からの信用を失い、人からの白い目を買い

 

人から見離されることじゃないだろうか。

 

便利な「生活」ができなくなることを恐れているのではなく

お金で買える便利な生活を維持できる「自分」を失うことが

ずっと怖かった。

 

私はそうだった。 

 

その恐怖に触れる機会を、自分で作ったから

ここに今、何がそんなに怖かったのかを書いてる。

 

私はものを失うことを恐れたのではなかった。

人の評価を失うことを恐れていた。

見離されることを恐れていた。

両親さえも私から離れていくだろうと恐れていた。

 

でもそれは、自分が他人をそうやって見てるからだった。

自分がお金を払えない人について

そうゆう評価を下してるからだった。

悪にしたからだった。いけない人にしたからだった。

だらしがないことを許せないからだった。

ルールが守れないことが許せないからだった。

 

そしてそうゆう人がいたら、「私が」突き放すからだった。

私の中にその冷たさがあることはもう隠せなかった。

 

なぜ愛せないのか?

 

我慢してる事だらけだからだったから。

 

 

 

 

 

 

本当はあなたより、誰より、何より

 

自分が自分を責めるから

自分が自分で我慢してるから

 

それが1番強いって知った。

誰かの白い目よりも強かった。

だってそれを作ったのは私だから。

 

白い目の数はきっと

自分が自分を見張る数なのかもしれない。

 

今も尚、恐怖は何度も顔を出すけれど

それにはもうお手上げで

 

自分の冷たさも当然だった。

 

 

 

 

 

「人間、みんな病気です」

そう言った人がいたそうな。

 

詳しくはここから↓

人間、みんな病気です 第四部 中休みコラム | 無意識を知ろう♪極楽とんぼの精神分析学入門

 

 

本当は、そのままで今すぐ幸せにはなれるのに

それに条件なんて付けるから遠く離れてく。 

 

身体を洗えなくて気持ちが悪いと言える今は

とてもありがたいと思う。

少しでもいつもと違えば愚痴を言い、

気に病んでしまうような心の忙しなさを諦められるのは

非日常を経験した人達だろうって。

 

違う時代の人からしたら

今の当たり前に共感されることって

あまりないのかもしれないと

 

ふと、思ったりした。

 

今の自分の中の常識も、

時間や場所を外せば誰かの非常識ってことになりはしないだろうか。

 

 

この経験は、私の中で人生のターニングポイントにもなり得る程

大きいものになってる。

 

自分の価値観が崩壊したのだから。

あんなに鉄壁だと思っていたものが、ボロボロと脆くも崩れ去ってく。

 

でも、今まで信じていたものは間違いだったなんて言わない。

だって、信じているならそれはあるのだから。

 

ただ変わっただけ。信じているものが変わっただけ。

そんな価値観では苦しすぎるから

「生きる」のなら

もう諦めるしか道が残されていなかったから

選択肢がそれしかないと言えるほど、追い込まれた…訳じゃなく

自分で追い込んだ。

そうまでしないと、私は気付く事ができなかったから。

 

いつも選択の余地はあるし選べる。

そして人は日々選択し続けてる。

 

自分の望みにそって、その選択に恐怖が伴う場合

自分的タブーに踏み込む時など

ある意味時間をかけずに信念を壊す事は出来るのかもしれない。

 

その選択を誰かや何かのせいにせず

最初から最後まで全て自分の選択なんだという責任付きでだけど。

でも、責め出すと終わらない。それは自分自身も他も。

 

責めることは解決ではないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上手くいかない理由は、上手くいかない事の方を当然だと思ってるから。

出かける時間に目が覚めて、ハッとした朝。

「あー、なんだよツイてない」

 

そして、

どうしよう…気持ちは焦りアタフタ

通勤中に想像する〝怒られる〟や周りの白い目

自分がダメというモチベーションの低さと余裕のなさ。

 

なんて…

 

あの緊張感をスリリングだと楽しむことができなかったあの頃と

今とで変わったことと言えば

出来事の捉え方や見方や心の持ちようで

 

それが変わったのは

外側にある出来事には、私に何の影響も与えない事を知ったからで。

というか、影響を与えないのではなく

外側の人も出来事もきっかけで

 

実際に1番影響力があるのは

常に私が私をどう判断し、どう見てるのか?ということの方。

 

私が考えてることや思うこととは無関係に

現実は流れていると思ってた。

 

でも違った。

 

現実は私の足跡で、鏡で、その全てと関係がある世界だった。

それは、私から手を差し伸べなければ

何も変わることのない世界だった。

世界を変えたければ、私から笑わなければならなかった。

まるでやまびこのように

私が投げたものを同じ様に返してくれるだけの。

 

現実に余裕や遊びや、ふざけられないのは

現実が自分より大きくて、自分とは別の誰かが牛耳ってる世界だから

どうすることもできないと

 

そう思える方が無責任でいられるから、文句も言える。

 

いつも、そして今も

こうして自分の産物に囲まれながら。

 

 

 

 

 

 

目が覚めて

「あー、何だよツイてな…いや、ツイてるよ!」

なんて言えるようになって

我ながらびっくりした。

 

 

だって、

ギリギリとは言え

急げば間に合いそうな時間に目が覚めたのだから(奇跡!)

 

早朝の誰もいないような静まり返った時間に

あの綺麗な空を独り占め気分でご出勤(奇跡!)

 

何より「ツイてる」と言える自分と今朝出会えたのだから(奇跡!)

 

鳥肌が立つほどの感謝を、身近に感じられるようになったのだから(奇跡!)

 

 

今までの遅刻しそうな朝の憂鬱なストーリーは

今まさに遠くなっていく。

 

 

あの時、fishmansを聴きながら

陸の上で冷たい空気の中を魚のように泳いだ朝だった。

ツイてると言いながら、コメディのようにふざけた朝だった。

 

なぜなら、

私が世界をそう見たから。

 

 

いつの間に、こんな幸せな朝へと取り替えることができたのだろう。

 

 

強引に口癖を変えたからじゃない気もする。

 

知識として、口癖を変えれば上手くいくと

前から知っていたことは確かだけど

「ツイてる」って言葉を言いまくっていたわけじゃない。

 

習慣から変えるアプローチは確かに大事。

口癖や言葉を変える事は外側から自分への意識的なアプローチ。

 

自分の心に違和感があっても

言葉だけを先に変える。

気持ちはついてこなくてもいい。

 

地味な作業だし、ずっと意識的でもいられないのも知ってる。

 

でもそうやって何より信じていた事と言えば

こんな方法で⁈の方だった。 

 

「 こんな方法で、何か変わるとでも思ってるの?」(バカじゃん⁈)

の方だった。

 

バカにするのは、人からバカにされたくないから。

 

だから「バカにされたくない」という方の願いが叶っていく。

 

そのための努力は欠かさない。

人はしっかり自分のなりたい者になろうと努力ができるのだ。

なりたい者に導くための舞台を選んで

その為の行動と考えを自分から頭の中で何度も唱えるよ。

そしてそれが、その人の口癖になる。

 

だから、一生懸命バカにされない人になろうとして

だから、ちゃんとした人になろうと必死で

楽だと言えない場所を、修行のように自ら選んで

だから、そんな舞台の上で失敗なんてしたらと…

なかなかハイレベルな挑戦を挑んでる。

 

謙遜のつもりで外では自分は大した人間ではないと言いながら

大した人間でいようとした。

 

ルールの守れる、大した人間=大人

 

自分はちゃんとやってる。努めて、がんばってそうしてると

そうしてない、それができない人見て

心のどこかでその相手を責め出すよ。

そんな自分を維持する事自体、無理してるから。

 

でも、そんな事しかしてこなかった。

 

それなのに、本当に自分が一番大した人間ではなかったと

諦めざるを得なかった。

人のこと、あれこれ言える立場じゃなかった。

残念ながら。

 

 

だから今は、もう止めた。

 

そしたら子供のようにはしゃいで、無邪気で、怯えて、無防備

正直で、嘘もついて、新鮮で、面白い

 

そんな風にしていられるような新しい舞台を選んで

何かになろうとしない代わりに、いつかを追いかけるのは止めて

今感じられる良いものに時間を割くようにして…

 

 

 

 

ありふれた特別な毎日にもっと早く気付きたかった。

 

 

 

 

ああ、これが人生だなんて。

 

そう、これも人生だった。自分が選んだ人生だった。

 

 

 

 新しい口癖は

「ありがとうございます」という感謝と

「愛しています」という意思表示。

 

これは、先に豊かな人が与え続けてる方法だけど

 

私がなりたい者になろうとしてたついこの前までは、

この方法をやりながらもどこかで信じてはいなかった。

そして、私はなりたい者にはなれなかった。

追いかけるものが、自分とはあまりにもかけ離れていたから。

 

あの時と違うものを今は追いかけてるのかもしれない。

 

私は私になろうとしてる。

もっと近い、ずっと側にいた、大嫌いだった自分に。

 

今なら、信じられる。

きっと私は私になれるだろうって。

 

 

 

youtu.be

 

 

 

仕事が続けられなかった理由と責任について思うこと

責任て

その責任をとるって

 

ずっと責めること=苦しむこと

だと思ってた。

 

例えば、誰かが責められ炎上

例えば、責任の重さに耐え兼ね自殺

例えば、晒し者にされて叩かれる

とか

 

そうゆう事件やニュースに触れたりしてるせいもある気がするけど

罰を与えることだと思ってた。

 

だからいつも責任て言葉に怖いものが付きまとってて

でもそれって

いじめの構図に似てると思った。


約束を守れないとか

裏切りとか

だらしないとか

なんかあまりいい(うまい)言葉が出ないけど

そうゆう事も出来ないヤツは

苦しむのが当然だと思ってる所があった。

 

「苦しむのが当然だ」…か

 

悪い事をしたものは罰を受けるのが当然だ…か

 

このルールってどこからきたのだろうか?

 

 

ましてや今の自分に遠い人のことにまで

そんな責めるということを

無意識にやってしまう心理って一体何なのだろうか?

 

自分自身にもそれを当てはめて

他人にも当てはめて


出来ない自分を責めて

出来ない他人を責めて


どこかで自分の言い放ったことや行動で

自分でその約束を果たせなくて

自分で情けなくなった時に

自分で責めることを

他人から責められることを

簡単に受け入れてしまうのは

(他人を責めるというのも同じだけど)

 

そうゆう厳しさがあるのが社会という場所だと

思ってるからなんだろうな。

 

私の中で社会という場所は

そうゆう所と思ってるんだろうな。


だから、とても厳しくて怖い場所が社会だと思ってきてた。

だから、厳しさを愛情と捉えることが出来なかった。

だから、それがどんな厳しさでもちょっとでもあればもう耐えられなかった。

だから、仕事が全然続けられなかった。

 

でも

責任て

多分今の私にとっては

自分の選択でどちらを選んだにせよ

 

そのことでどんな出会いがあっても

どんな出来事が起こっても

どんな自分の気持ちが出ても

 

幸せで居続けると決める事が

生きる上での責任なんだと思ってて

 

悲しくなっても、辛くなっても、疲れても、楽しく居られなくても…

 

それでも自分を幸せな気分にするには

どうするかを考えたり

なるべく堕ちてしまいそうな気持ちでいる時間を

短くしようとしたり

その環境でも

幸せでご機嫌な自分の為に何をするか探そうとしたり

見つけようとしたり…

 

そう過ごそうとすることのような気がする。

 

その上で

何かを「やめる」という選択があったり

「続ける」という選択があったり

「する」という選択があったり

「しない」という選択があるのだろうな。

 

 

私は無条件に「やめる」という選択しか

選ぶことができなかったんだ。

 

なんて不自由だったんだろうか。

 

 

 

 

 

 

求めに行ったから与えられた予想外のもの

ずっと求めてきた。

 

ない!ない!

 

不足からもっとと、欲しがった。

これではダメだという現状しか見えなかった。

不足が補われれば、今の私が変われば、幸せになれると

 

何事も動じなければ

早くできれば

お金があれば

美しければ

強ければ

自信があれば

実績があれば

経験があれば

知識があれば

 

こんな想いもうしたくないって

いつも未来に期待してた。

 

その求めることを解決するために

 

誰かに助けを求めた。

方法を学んだ。

見えないものに縋った。

 

恥を忍んで

借金もした。

全てやってみた。

思い付くものは、ひと通り。

 

目の前に釣り糸垂らされた魚のように

釣られ続けて

恥をかいて

 

誰かより秀でてる?それとも劣ってる?

 

目に見えるものさえ揃えば万事オーケーのはず

 

優越感。

 

誰よりも1番でいたかったよ。

 

 

 

大人になってからその恥を自分からかきにいって

 

でも、それが子供の頃にかかされた恥を壊す為だったなんて

誰が分かる?

 

 

あの頃が傷になるのは1つ1つ丁寧に隠したからだ。

あの頃1つ1つ付いた嘘と見栄。

本当は悲しかった、怖かった、怒ってたのにね。

 

だからもう、人からバカにされたくなくて

安全が確保できる場所で

 

遠くから、人のアレコレ振り分けて

自分の正気を証明して

正気じゃない人を憐れんで

 

これでもう安全だ。

 

 

 

 

嗚呼

卑しく、恨めしく、怒り狂い、醜く、弱い

人間でしたって

 

何も出来ませんでしたって

 

あれがあれば

これがあれば

それも全部あれば

揃ったら

 

でも、そのどれも

手に入らなかったよ。

 

惨めさが残ると思ってたけど

違った。

 

全然違った。

 

 

もちろん惨めさを通り抜けて

萎びた。

 

でも、全然違った。

 

 

幸せって

すでに知ってた。

今までもずっと感じてた。

 

「幸せは目に見えない」って誰かの言葉何度も聞いてた。

 

 本当だったよ。嘘じゃなかった。

 

目に見えないものが幸せだった。

この言葉通り

それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

水のように掴めないそれが幸せだった。

 

遠くになんてなかった。特別じゃなかった。

 

今まで感じたことがあったその瞬間を

右から左に流して

不幸せを虫眼鏡で隅々まで網羅

 

逆だよ逆。

 

幸せを遠くに追いやった確信犯は彷徨って

今も宝物を探し続けてる。

 

何かを手に入れるのが先じゃない。

 

逆だったよ。

 

 

外側の物や人はきっかけ。

欲しい物や状況が得られた時に出る感覚を感じたい。

 

安心、情熱、感動、優しさ、喜びを

 

全部モノじゃなかった。

 

でも、

 

幸せにしてくれると自分が信じるものが

その人を幸せにするんだろうから

 

答えはいつも人の数だけあるんだね。