不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

上手くいかない理由は、上手くいかない事の方を当然だと思ってるから。

出かける時間に目が覚めて、ハッとした朝。

「あー、なんだよツイてない」

 

そして、

どうしよう…気持ちは焦りアタフタ

通勤中に想像する〝怒られる〟や周りの白い目

自分がダメというモチベーションの低さと余裕のなさ。

 

なんて…

 

あの緊張感をスリリングだと楽しむことができなかったあの頃と

今とで変わったことと言えば

出来事の捉え方や見方や心の持ちようで

 

それが変わったのは

外側にある出来事には、私に何の影響も与えない事を知ったからで。

というか、影響を与えないのではなく

外側の人も出来事もきっかけで

 

実際に1番影響力があるのは

常に私が私をどう判断し、どう見てるのか?ということの方。

 

私が考えてることや思うこととは無関係に

現実は流れていると思ってた。

 

でも違った。

 

現実は私の足跡で、鏡で、その全てと関係がある世界だった。

それは、私から手を差し伸べなければ

何も変わることのない世界だった。

世界を変えたければ、私から笑わなければならなかった。

まるでやまびこのように

私が投げたものを同じ様に返してくれるだけの。

 

現実に余裕や遊びや、ふざけられないのは

現実が自分より大きくて、自分とは別の誰かが牛耳ってる世界だから

どうすることもできないと

 

そう思える方が無責任でいられるから、文句も言える。

 

いつも、そして今も

こうして自分の産物に囲まれながら。

 

 

 

 

 

 

目が覚めて

「あー、何だよツイてな…いや、ツイてるよ!」

なんて言えるようになって

我ながらびっくりした。

 

 

だって、

ギリギリとは言え

急げば間に合いそうな時間に目が覚めたのだから(奇跡!)

 

早朝の誰もいないような静まり返った時間に

あの綺麗な空を独り占め気分でご出勤(奇跡!)

 

何より「ツイてる」と言える自分と今朝出会えたのだから(奇跡!)

 

鳥肌が立つほどの感謝を、身近に感じられるようになったのだから(奇跡!)

 

 

今までの遅刻しそうな朝の憂鬱なストーリーは

今まさに遠くなっていく。

 

 

あの時、fishmansを聴きながら

陸の上で冷たい空気の中を魚のように泳いだ朝だった。

ツイてると言いながら、コメディのようにふざけた朝だった。

 

なぜなら、

私が世界をそう見たから。

 

 

いつの間に、こんな幸せな朝へと取り替えることができたのだろう。

 

 

強引に口癖を変えたからじゃない気もする。

 

知識として、口癖を変えれば上手くいくと

前から知っていたことは確かだけど

「ツイてる」って言葉を言いまくっていたわけじゃない。

 

習慣から変えるアプローチは確かに大事。

口癖や言葉を変える事は外側から自分への意識的なアプローチ。

 

自分の心に違和感があっても

言葉だけを先に変える。

気持ちはついてこなくてもいい。

 

地味な作業だし、ずっと意識的でもいられないのも知ってる。

 

でもそうやって何より信じていた事と言えば

こんな方法で⁈の方だった。 

 

「 こんな方法で、何か変わるとでも思ってるの?」(バカじゃん⁈)

の方だった。

 

バカにするのは、人からバカにされたくないから。

 

だから「バカにされたくない」という方の願いが叶っていく。

 

そのための努力は欠かさない。

人はしっかり自分のなりたい者になろうと努力ができるのだ。

なりたい者に導くための舞台を選んで

その為の行動と考えを自分から頭の中で何度も唱えるよ。

そしてそれが、その人の口癖になる。

 

だから、一生懸命バカにされない人になろうとして

だから、ちゃんとした人になろうと必死で

楽だと言えない場所を、修行のように自ら選んで

だから、そんな舞台の上で失敗なんてしたらと…

なかなかハイレベルな挑戦を挑んでる。

 

謙遜のつもりで外では自分は大した人間ではないと言いながら

大した人間でいようとした。

 

ルールの守れる、大した人間=大人

 

自分はちゃんとやってる。努めて、がんばってそうしてると

そうしてない、それができない人見て

心のどこかでその相手を責め出すよ。

そんな自分を維持する事自体、無理してるから。

 

でも、そんな事しかしてこなかった。

 

それなのに、本当に自分が一番大した人間ではなかったと

諦めざるを得なかった。

人のこと、あれこれ言える立場じゃなかった。

残念ながら。

 

 

だから今は、もう止めた。

 

そしたら子供のようにはしゃいで、無邪気で、怯えて、無防備

正直で、嘘もついて、新鮮で、面白い

 

そんな風にしていられるような新しい舞台を選んで

何かになろうとしない代わりに、いつかを追いかけるのは止めて

今感じられる良いものに時間を割くようにして…

 

 

 

 

ありふれた特別な毎日にもっと早く気付きたかった。

 

 

 

 

ああ、これが人生だなんて。

 

そう、これも人生だった。自分が選んだ人生だった。

 

 

 

 新しい口癖は

「ありがとうございます」という感謝と

「愛しています」という意思表示。

 

これは、先に豊かな人が与え続けてる方法だけど

 

私がなりたい者になろうとしてたついこの前までは、

この方法をやりながらもどこかで信じてはいなかった。

そして、私はなりたい者にはなれなかった。

追いかけるものが、自分とはあまりにもかけ離れていたから。

 

あの時と違うものを今は追いかけてるのかもしれない。

 

私は私になろうとしてる。

もっと近い、ずっと側にいた、大嫌いだった自分に。

 

今なら、信じられる。

きっと私は私になれるだろうって。

 

 

 

youtu.be

 

 

 

仕事が続けられなかった理由と責任について思うこと

責任て

その責任をとるって

 

ずっと責めること=苦しむこと

だと思ってた。

 

例えば、誰かが責められ炎上

例えば、責任の重さに耐え兼ね自殺

例えば、晒し者にされて叩かれる

とか

 

そうゆう事件やニュースに触れたりしてるせいもある気がするけど

罰を与えることだと思ってた。

 

だからいつも責任て言葉に怖いものが付きまとってて

でもそれって

いじめの構図に似てると思った。


約束を守れないとか

裏切りとか

だらしないとか

なんかあまりいい(うまい)言葉が出ないけど

そうゆう事も出来ないヤツは

苦しむのが当然だと思ってる所があった。

 

「苦しむのが当然だ」…か

 

悪い事をしたものは罰を受けるのが当然だ…か

 

このルールってどこからきたのだろうか?

 

 

ましてや今の自分に遠い人のことにまで

そんな責めるということを

無意識にやってしまう心理って一体何なのだろうか?

 

自分自身にもそれを当てはめて

他人にも当てはめて


出来ない自分を責めて

出来ない他人を責めて


どこかで自分の言い放ったことや行動で

自分でその約束を果たせなくて

自分で情けなくなった時に

自分で責めることを

他人から責められることを

簡単に受け入れてしまうのは

(他人を責めるというのも同じだけど)

 

そうゆう厳しさがあるのが社会という場所だと

思ってるからなんだろうな。

 

私の中で社会という場所は

そうゆう所と思ってるんだろうな。


だから、とても厳しくて怖い場所が社会だと思ってきてた。

だから、厳しさを愛情と捉えることが出来なかった。

だから、それがどんな厳しさでもちょっとでもあればもう耐えられなかった。

だから、仕事が全然続けられなかった。

 

でも

責任て

多分今の私にとっては

自分の選択でどちらを選んだにせよ

 

そのことでどんな出会いがあっても

どんな出来事が起こっても

どんな自分の気持ちが出ても

 

幸せで居続けると決める事が

生きる上での責任なんだと思ってて

 

悲しくなっても、辛くなっても、疲れても、楽しく居られなくても…

 

それでも自分を幸せな気分にするには

どうするかを考えたり

なるべく堕ちてしまいそうな気持ちでいる時間を

短くしようとしたり

その環境でも

幸せでご機嫌な自分の為に何をするか探そうとしたり

見つけようとしたり…

 

そう過ごそうとすることのような気がする。

 

その上で

何かを「やめる」という選択があったり

「続ける」という選択があったり

「する」という選択があったり

「しない」という選択があるのだろうな。

 

 

私は無条件に「やめる」という選択しか

選ぶことができなかったんだ。

 

なんて不自由だったんだろうか。

 

 

 

 

 

 

求めに行ったから与えられた予想外のもの

ずっと求めてきた。

 

ない!ない!

 

不足からもっとと、欲しがった。

これではダメだという現状しか見えなかった。

不足が補われれば、今の私が変われば、幸せになれると

 

何事も動じなければ

早くできれば

お金があれば

美しければ

強ければ

自信があれば

実績があれば

経験があれば

知識があれば

 

こんな想いもうしたくないって

いつも未来に期待してた。

 

その求めることを解決するために

 

誰かに助けを求めた。

方法を学んだ。

見えないものに縋った。

 

恥を忍んで

借金もした。

全てやってみた。

思い付くものは、ひと通り。

 

目の前に釣り糸垂らされた魚のように

釣られ続けて

恥をかいて

 

誰かより秀でてる?それとも劣ってる?

 

目に見えるものさえ揃えば万事オーケーのはず

 

優越感。

 

誰よりも1番でいたかったよ。

 

 

 

大人になってからその恥を自分からかきにいって

 

でも、それが子供の頃にかかされた恥を壊す為だったなんて

誰が分かる?

 

 

あの頃が傷になるのは1つ1つ丁寧に隠したからだ。

あの頃1つ1つ付いた嘘と見栄。

本当は悲しかった、怖かった、怒ってたのにね。

 

だからもう、人からバカにされたくなくて

安全が確保できる場所で

 

遠くから、人のアレコレ振り分けて

自分の正気を証明して

正気じゃない人を憐れんで

 

これでもう安全だ。

 

 

 

 

嗚呼

卑しく、恨めしく、怒り狂い、醜く、弱い

人間でしたって

 

何も出来ませんでしたって

 

あれがあれば

これがあれば

それも全部あれば

揃ったら

 

でも、そのどれも

手に入らなかったよ。

 

惨めさが残ると思ってたけど

違った。

 

全然違った。

 

 

もちろん惨めさを通り抜けて

萎びた。

 

でも、全然違った。

 

 

幸せって

すでに知ってた。

今までもずっと感じてた。

 

「幸せは目に見えない」って誰かの言葉何度も聞いてた。

 

 本当だったよ。嘘じゃなかった。

 

目に見えないものが幸せだった。

この言葉通り

それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

水のように掴めないそれが幸せだった。

 

遠くになんてなかった。特別じゃなかった。

 

今まで感じたことがあったその瞬間を

右から左に流して

不幸せを虫眼鏡で隅々まで網羅

 

逆だよ逆。

 

幸せを遠くに追いやった確信犯は彷徨って

今も宝物を探し続けてる。

 

何かを手に入れるのが先じゃない。

 

逆だったよ。

 

 

外側の物や人はきっかけ。

欲しい物や状況が得られた時に出る感覚を感じたい。

 

安心、情熱、感動、優しさ、喜びを

 

全部モノじゃなかった。

 

でも、

 

幸せにしてくれると自分が信じるものが

その人を幸せにするんだろうから

 

答えはいつも人の数だけあるんだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を受け入れる方法さえうまくいかない、こじらせ女子へ

注:こじらせ女子へとはまさに、自分のこと。

 

 

そのこじらせ女子へ

今から書くことは、過去にすでに書い来てることですが

自分の中の整理の意味で、改めてここに残そうと思い立って

 

 

自分を愛するとか、受け入れるって言葉

 

例えば

現状に不満があったり、苦しかったり、生きづらかったり

そこを変えて生きたい人が探し物を始める時などに

出会っていく項目ではないかと思います。

 

・自分を大切にする

・自分を愛する

・自分を受け入れる

 

 

人生がうまくいかない原因について、もしかしたら…と

何かしら思い立ってから

探し始めると結構な頻度でぶち当たります。

 

で、すでにここら辺について

たくさんの方が、その方法を言葉やセッションや音声かもしれませんが

あらゆる方法で伝えてくれていると思います。

 

私もまたそうゆう方法を試して来た1人ですが

私は素直ではないのと、真面目ということで

大概のことがうまくいかないタイプだったりします。

 

 

執着であったり

方法が絶対になってしまいやすく

 

すると、その伝えられた事が自分の中で

厳しいルールになってしまうのでした。

 

真面目すぎる、というのは理由の1つです。

真面目さを捨てきれないのは、恐れがあるからです。

 

そして、従うことへの不信 

にわかに信じがたいという疑いが

見えないものに付きまとっています。

  

自分を愛することの中には

今の自分にとって優しくするとか、今まで厳しかったとしたら

甘やかしてみたり、緩めてみたり、体に良さそうな事をしてみたりと

 

受け入れるや、愛するの文字通りのことをし始めました。

 

目に見える身体方面では

湯シャンとか、布ナプとか、オーガニックの食材とか

それらも1つだと思います。

 

目に見えない方面では

例えば鏡に映る自分に向かって、「いいぞ」とか「可愛い」とかを

心では抵抗があっても、まず言ってみるってことから

始めて行きました。

 

そしてもう1つ、「感情を感じる」ということです。

特に負の感情と言われる部分についてです。

 

正直、この辺間違っていました。

 

ネガティブ

例えば、怒りや悲しみ恐れなどの感情が出て来た時

感情を感じれば

その感情からは抜けられる、その感情にまた支配されない

と言った印象で捉えていて

私はそれらの感情が出てる時に

温泉のようにどっぷり浸かるということを

長らくやっていたように思います。

 

なので、負の感情が出たら

それらに囚われないように、その感情に取り組まない

という別の意見と出会った時に

それでは今までのような苦しみからは逃れられない

と密かに思っていました。

 

方法に優劣をつけて比較し始め

自分が採用してる方法が唯一だと思ってしまってました。

(しかも、ちゃんとそれを理解もしないまま)

 

でも結局は負の感情を感じるどころか

負の感情から逃れたい、負の感情と二度と出会わないようにしたい

つまりは排除の方法として

「感情を感じる」を利用していました。

 

自分から負の要素を取り除きたくて仕方がなかったのです。

 

 

でも結局は、良い部分だけを残すというのが

出来ないというより不可能なんだと

散々そこに浸かって来ただけあってようやく気付き

 

ようは、浸る中でいつまでも変わらない現実と苦しみに疲れた。

 

というまで散々その負の感情とやりあったのです。

 

私の場合は「恐れ」という感情にものすごく執着があり

それさえ感じなくなれば

全てがうまくいくと思っていました。

 

負の感情を感じると称して実は、戦い続けていたのです。

 

戦いに疲れた私は

「感情を感じる」とはいったいどうゆうことなのかを

改めて見直すことになりました。

 

感情を感じるとは

まずその感情でいる自分を許すことでした。

 

ある場面で恐れが出るなら

その恐れてビクビク、ハラハラしている自分が

人にバレても構わないと許すこと。

 

それは弱い自分でいることを許すことでもあります。

プライドを捨てることかもしれません。

悲しみが出るなら、悲しみの自分がいると認めることです。

別の自分を装わないことです。

 

ヒリヒリと晒されている感覚があったのは

それらを排除しようとしてる時の方でした。 

 

恐れている時に、そこで頑張って恐れようとさえしていました。

そうやって感情が出てくると同時に

頭で感情を捉えようとして、感情をどうにかしようと必死でした。

 

そもそも感じるも何も

その感情に落ち着けなかったということです。

 

「感情を感じる」とは

弱虫くん

怒り大魔王

ガクブルちゃん

 

そうゆうキャラクターでいることを自分に許すことです。

 

それは自分にとって情けない自分であり

認めたくない自分でした。

 

私はプライドが邪魔をして

弱くいることに耐えられなかった。

だらしないこと、結局何も出来ない自分に耐えられなかったのですが

 

でも目の前の私は、何も出来ませんでした。

 

 

 

正直、自分を愛するとか受け入れるというのは

「諦める」ということの連続で

 

何にもない自分を、それでも愛せますか?という問いを

最後に突きつけられるように感じるのです。

 

 

認められなくて頑張ってる今と

不安にかられる今と

何も出来ないと落ち込む今と

怒りの収まらない今と

嫌いでいる今と

 

 

一緒にいることを許せますか?

 

 

 

最近、ますます思います。

 

私は何にも持っていなかったと

そしてその自分で何も問題はなかったと。

 

 

 

今日は「この世界の片隅で」 

という映画を見ましたが

 

これは理解する映画ではないなと思いました。

自我やエゴが嫌う映画でした。

私には感動を呼ぶ映画でもない気がします。 

こんな映画がヒットする時代になったのです。

 

漠然とですが、自分を愛せないと

どんどん厳しくなる時代のような気がするのでした。

 

 

 

最後に、

どんな方法も自分以上になることはないのです。

それに力を与えるのは自分でした。

絶対なら絶対になるし

それが正しいなら正しいのです。

 

自分が信じてるものが力を持つのです。

その力をいつも与え続けて自分の現実が作られている。

 

そう思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

求めているうちは手に入らない。

ここに残してることは

自分が自分に言い聞かせていることのように思います。

 

あなたはこうゆう考えで、こうゆう生き物だと。

 

だから書くことは、限定するや制限するということにもなるのです。

 

言葉は自分が自分を決めてる解釈そのものだから

私が今ここに書き記すことは

今の私という入れ物の輪郭をハッキリさせている作業のようにも思うのでした。

 

でももう1つ、

言葉に役割があるとすれば、それは

あなたの解釈も1つではあるけれど

別のもあるよ、と

伝える事です。

 

別の経験を他者を通して知るという事。

他者の知識に感覚に触れるという事。

 

例えば、もしこれまでがキツく柔軟性のないカタチや輪郭でガチガチなら

それとは別の入れ物のや輪郭もあるよと。

 

 

 

 

過去の出来事や経験に苦しんできても

それとは別の生き方ができる可能性を人は持っていますが

それをするには、「知る」ことは外せないと思います。

 

もしかしたら言葉はその為にあるのかもしれません。

 

苦しいということは、

自分の今やってるのその方法や思ってることや価値観や枠組みや

信じてるものや…

それによって自分自身を制限の中に押し込めてる気がするわけです。

だから窮屈、当然苦しい。

 

私はそこから逃れる為に

たくさん知ろうとして来ました。

 

でも言葉も知識も

その両方なのです。

 

制限を作ることにもなり、制限を外すことにもなる。

だから、それが唯一の答えとも言えないのです。

 

そして、それは生きるという上で、全てに当てはまることでもあります。

 

例えば、同じ状況や出来事を経験することになる人間が2人いるとして

その2人が同じ経験を語るかと言えば、そうとは限らないのと同じように。

 

 

そうなると、私から見えてるこの世界は

嘘とも言えてしまえるし、本当とも言えてしまえる程度のもので

 

でもそれを決めているのは

自分の解釈や信じてるものなんだろうと。

 

 

自分の生に影響を与えているのは

 

『紛れもなく自分自身』

 

 

 

 

この日記の1つ前に書いたことは、

願いが叶いましたと言いたかったけど - 日々のこと

求めまくって、でも手に入らないという現実と自分への嘆きでした。

感情が出たので取りあえず出しっ放しにしました。

 

今、ギリギリの現実があります。

 

でもそのギリギリという緊張感や苦しみは

ある種、限界突破になるか

元の木阿弥になるかの境目のようなタイミングというか

巡ってきたチャンスとも言える気がして

 

求めまくるという経験を通して出てくる

蟠りや冴えない感じの膿みたいなものは

できればあまり経験したくないものではあるものの

自分が自分にしてきてる無自覚の制限や解釈や信じてる事が浮き上がって

自分でもそれを掴めるくらいに分ってくるタイミングだったりします。

 

無自覚のものが自覚できるという事は

その制限を外すタイミングとも言えて

だから、その時に下す自分の選択で

未来は変わります。

 

 

今までとは違う未来か、それとも見慣れた未来か。

 

 

これを書きながら、私は自分を実況中継してる気分がして

 

結果も何も出てないけれど

でも、結果が出てから誰かに伝えるよりも

その方が面白いからで。

 

「やっぱりダメでした」でも

「なんか今までと違った現実になってきました」でも

実況してたら結果なんてどっちでもいい気がしてきてるからで。

 

 

そして感情を出しっ放しにしたからか

私が自分で自分をどう判断して解釈していて、

そしてこの世の中はこういう世界だと

自分が信じてるものを壊してくれるような新しい解釈を

さっき本というツールから得てました。

 

今求めまくってるという経験が

今までの自分の解釈や信じてる事にヒビを入れ始めて

 

自分以外の他者の経験や解釈を、紙の上の言葉から伝えられて

今自分に入ったヒビに影響を与えようとしているみたいに。

 

 

 

 

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自分には何も出来ないことを

 

私はお金をかけてまで証明したかったのだろうか?

 

そしていつものように

 

どうせこの程度で、やっぱり私には何も出来ないと言うオチで

 

毎度毎度同じ選択を繰り返そうとするのだろうか?

 

いつまで同じ事を繰り返すのだろうか?

 

私は何も出来ない、所詮この程度の自分という大きさに限定して

 

それをいつまでも信じる事を 。

 

 

ameblo.jp

 

 

 

私から全てが決められ、全てが始まり、生産され続けられている。

 

良いことも、そして悪いことも。

 

だから、量産されてるものの影響を受けるのは

 

当たり前のこと。

 

求めてるうちは何も手に入らないけれど

 

それを知るのに

 

私は求めて、執着して、落胆し、嘆いて

 

そうゆうネガティブな経験を今、通過しました。

 

ここに書いたことはきっと本当できっと嘘。

 

だったら、不真面目くらいがちょうどいい。

 

嘘か本当か、正しいか間違ってるか、良いか悪いか…

 

振り分けてどちらかをいつも決めてるのは私。

 

自分の人生に影響を与えてる唯一は私という生き物。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

願いが叶いましたと言いたかったけど

願いが叶って、いわゆる成功しました!

みたいなことを

ずっと言いたかった。

 

正直、そんなこと言えない今の自分しかいなくて

虚しさが押し寄せてきた朝でした。

 

私は自分の責任を果たせない。

 

風がゴォーゴォーと強くて、

最近風の強い日に泣いてることが多いです。

 

 

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誰かに証明するために、私は生きてるのでしょうか?

 

自立を望む裏には、「もう大丈夫さ、だから心配いらない」と

誰よりも強く、自分のことは自分でできると母親には言いたくて

やっぱりできませんでした、と言ってしまうような自分を

もう繰り返したくはなかったからですが

 

結果を残せないことが、

自分との約束が守れない気がしてならないからでした。

 

お金という道具を前に私が求めていたものは

 

成功や名声であり、求めた自立さえ

結局は賞賛の1つと化していました。

 

誰かに証明する為に

常に私は生きているのです。

 

自分以外に自分自身の存在を証明させようと

今を生きているのです。

 

私が私の本当の想いを知りながら

それをまず置いてまで得ようとしてるもの。

 

私が私を見つけられないのはそのせいです。

 

私は私よりも先に、自分以外の人に私を見つけてもらいたいのです。

 

 

でも、それが今の私。

 

 

 

 

 

 

 

女性が自分を認める為に必要だと思うこと。

 

実は性について色々調べる機会が増えてます。

 

 

そこで本の紹介をしてるブログを見つけたので

記録用として。

 

 

性をオープンにするのは女性として恥ずかしいこととされたのは、実は、欧米の文化が日本に流入した明治時代になってからのことです。長年続いた日本の性の文化は、ここでまったく別の価値観にすり替わってしまったのです。

江戸の下半身事情  ★★★★★ - pole_poleのブログ

 

 

上の一節は本当にそうだと思いました。

 

その時代に生きていた訳ではないですが

女性が女性らしくいられない理由の根底にあるものに

性は切り離せないと思うようになりました。

 

過去の経験から歪んだ性のあり方や解釈が生まれましたが

それを今、新しい解釈に変えていこうと思っています。

 

自分を認める為に生きやすくする。

 

ネガティブな感情はサインと捉えて、追いかけるのは止めて

でもその感情が生まれてるのは

現実に対する自分の解釈が大きく影響してるからです。

 

ネガティブに思う事をやめる為に

自分の中を整理して、何にどんな反応をしてきたのかをまず知ること。

第三者的に自分を見る、そして知ることは必要なこと。

 

でもこれ、

自分に対するネガティブなジャッジがあると難しいと思います。

片方の天秤にずっと傾いてる状態だから。

 

 

だからまず感情を認めることが大切で

そこから認められる自分は拡大していくのだと思います。

 

感情は無邪気な子供みたいなものと捉えて

どんなものにも見張るような警戒態勢はやめていく。

怒りも、恐れも、不安も…

 

出てきたなら、まずは

「あるよね」って

「いたね」って

 

認めるだけ。そして眺めるだけ。

 

でも、どうにかしない。

 

 

どうにかするのは

例えば、なりたい自分を想像してみて

なりたい自分になったとしたら

その私は同じような状況に陥った時に

どうゆう心でいるだろうとかを想像してみることの方です。

 

「今が悪いから」というスタートで

その悪い今を正そうとか、直そうとする方法でどうにかすると

結局ずっと抜けられないんです。

 

スタートがネガティブだったり否定の形だから

自分で自分の存在をそんな風に解釈してるから

「自分なんて」の自分を常に信じてるから

です。

 

幸せになりたいとか、楽になりたいとか、お金が欲しいという願いの

根底にあるのは自己卑下からの願い方です。

今の自分から抜けたいんですよね。

辛いから、不満だから。

 

 

 

 

事実は1つですが

それが正しいかは別の話。

解釈=信じてること

 

自分が何を信じているのか

 

そしてこれからは何を信じたいのか

 

 

例えば自信がない自分を信じてるなら

自信のある自分はどんな風に過ごして

何を考えているだろう。

自信がなくなる場面に出会したら

それでも自信のある人はどんな風に振舞うだろうを想像してみること。

 

今の自分から始められることは、そんな風にいっぱいあります。

 

今まだ変わらない現実があるのなら

その変わらない方の現実を自分が信じてるから。

 

信じたいものの為に今してる自分の反応に気付いて

新しい解釈の種を植えていってみる。

 

そんなとこでしょうか。