Love life, love my world!

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関係が途切れる時。〜情報断捨離について〜

Facebookから少し距離を置くことにしました。

 

SNSが日本で流行り出した頃といえば

私がどん底だったときで

会社の先輩が私をmixiというものに誘ってくれたのが

きっかけでした。

 

あんな状態でよく生きていたなと、今は思いますが

ズタボロの心を自分では支えられず

だから他の見ず知らずの優しい誰かに支えてもらっていたのだと思います。

ちなみに、スピリチュアルを知ったのもそこでしたし

不思議ですが、実生活でもそうゆう人と偶然に出会ったりしていました。

 

日本のmixiは米国産facebookの波に飲まれてしまった印象がありますが

どちらにせよ

私は新たな情報の出会いと繋がりで

今に至るのでした。

 

そんなきっかけだったから、なかなか離れられなかったし

というより正直、特に離れる必要も感じませんでした。

 

でも、今自分が安定してきている理由の中に

もう誰かの情報や方法を必要とはしていないのではないか

つまり、以前は自分が自分に厳しく

自分の為すこと思うことのほぼ大半に

優しさがなく、許されることもなく

納得や安心や余裕がなかったのは

その方法を自分が採用していたからで

 そうすべきだし、それが自分の当たり前だと思ってきたからでした。

 

知らないんです。何にも知らなかった。

 

苦しみの機会というのは

自分が変化を起こすための起爆剤の働きがあるのだと思います。

だってそんな苦しんでる状態からは早く脱したいですからね。

抜ける為に、行動は起こしたくなるんです。

 

とは言っても自分のことを自分で気がつくのはなかなか難しく

だからそれを他者によって気付かせてもらって来ました。

スピリチャルなことも、自分の実生活でも

色々やっては来ましたが

そのどちらも必要だと今は思います。

 

人は反物質半精神だからですかね、

というのが今の私の見方だったりします。

変わるかもしれませんが。

自分を最大限に活かすという意味で両方です。

 

自分のことを自分で出来るようになることは自立を意味しますが

物質面での自立と精神面での自立があって

今回の情報断捨離というのは

精神面の方ということになると思います。

 

ずっとそれに依存して来ました。

そして知識によって賞賛を得たいとも思って来ましたが

今や自分の持ちもので誇る時代ではなくなって来たのだと思います。

時代の力も大きいです。

そう思うのは私達が繋がっている証かもしれません。

 

 

***

 

 

話しは変わって

実家がなくなりました。

別の場所へ引っ越しをしただけなのですが

 

物質的にいえば

長く住んだその場所はにはもう、私の物は何も残っていません。

住んだ家や馴染みの風景は消えませんが

心の中には記憶として残っているアレコレもありますが

何かがごっそり抜け落ちたような感じがします。

 

友人が以前、自分の幼い頃に過ごした松本という場所について

「あまりいい思い出ばかりじゃ無いけどね」

と言っていたのを思い出していて

 

今松本にいる私は、自分が良い場所だと感じて選んでるので

良いと思っているものの方が当然多いのです。

だから友人のその言葉を聞いた当時はそれをあまり理解できませんでしたが

今は確かにそうだよね、そうだったよねと共感できるんです。

 

確かに小さい頃っていい思い出ばかりじゃなかった。

むしろこびりついて取れないようなヨゴレなんかも残ってて。

 

みんながみんな、そうじゃないことは前提ではあるものの

 

今回自分に起こってる出来事や回想もかねて

書き残しておきたいことだなと。

 

過去が綺麗さっぱり消えることなんてないけれど

それが汚れに見えて

でも、案外そのままでよかったんだと思う今が大切で

 

だって例えばタンスに貼ったシールとか

わざわざ剥がさなくてもいいお家っていうか、風景っていうか

レトロで懐かしい風景って

それが持ち味で個性だったりして、

その経過そのものがお家の雰囲気や匂いを作ってます。

なんか染み付いて取れないけど惹かれるものって

良いだけ、綺麗じゃないだけの部分を包括してるんですよね。

これは趣味の問題かもしれませんけど。

 

自分にあの時ついたシールが剥がれなくても

そのままで案外それが味になってたりする部分で

過去の経験がどうしようもない闇に思えて仕方なかったのは事実ですが

 

今はその過去について

そこまで闇として解釈しないでいる自分がいて

でもそれは自分の過去に対する偏見を手放そうという自分の意思からです。

 

今回の実家の引っ越しが

そうゆうことを教えてくれて

過去という闇を恩恵に替えるのは

今を生きている私しかいないのだなと

改めて思いました。

 

 

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怖い事をやると、わからない事が分かるようになる。

「怖いことを敢えて選択し続けてみる」という目標をたてた2016年。

そこで最後の砦のような存在はやっぱりお金のことでした。

 

その経験が教えてくれたのは、

結局私は自分で下した選択の結果さえ

自分では責任を取りたくないと思っている意識があった

ということでした。

 

そして、それを誰のせいにしてたか?

家族でした。

 

母の優しさが私をダメにする。

父の厳しさが私を弱くする。

 

haruradio.hatenablog.com

 

 

私は人に対して恐怖心を抱く理由がずっと分からずにいました。

相手の中の何かに反応してるのは、怖さを感じるからわかっても

一方でそんな相手や自分を分析し始めてジャッジして来てました。

そしてその人に恐怖するってことは、

自分の中にあるその人と同じものを厳しく責めるからでしたが

それは自分の中にあるものを認めない、許さないという厳しさからでした。

 

あんな人にはなりたくない、なんて反応すること自体が

そのあんな人と同じものを自分が持ってるからですよ、残念でした

ってことなんです。

残念〜!って切られちゃった方が楽でした。

 

 

自分で責任を取りたくないと思ってると

ポジティブなことは何をやっても満足なんてしないわけです。

認めることさえ関わることだから出来なかったことのように思います。

ネガティブなことは、その出来事を選択した自分を責めたり

感情にどっぷり浸かって、いつまでも抜け出そうとしないことでした。

(そうなる原因を弱い自分のせいにして状況を変えない。出来事やそこに関わる人のせいにする。)

 

今の辛さを終わらせることができる方法として

感情を感じれば抜ける

という言葉を信じて取り組んだことではありました。

どんな感情があっても「ある」と認めることが

感情に浸ることではないということも

ようやく分かってきました。

 

繊細な方なので感情は出やすいですが

その出た感情をいかに認めて、でも浸らない。

火に油は注がないんです。

(みんなこの辺言ってますが、ずっと方法に頼って変えられませんでした。)

感情に浸っても、その感情を認めないと何も変わらないから。

そしてネガティブなものであるほど認められないです。

 

いい人でいたい人間にとって、プライドを捨てられない人間にとって

この認めるということはなかなか難しくて

どうしようもない自分自身もいるよねって言いたくないから

そこを許したら他者からの信用を失うと思ってる。

 

他者からの信用を失いたくないと思う、そのこと。

 

裏を返せば、自分では自分に信用がないこと。

それだと、常に外側からもらい続ける必要があるのでした。

 

でも私はもう、そうゆうことをやめたいと思っていて

ずっと望んでるのは

「自立すること」

 

自分で自分を労れるように、信じられるように、愛せるように

です。

 

責任って多分そうゆうことかなと

今の時点で思ってます。

 

 

無意識って本当に寝てるんだと思うんです。

自分をゆすらないとずっと寝てるんですよ。

怖いことするって「朝だよ、もう起きて!」って揺することと似てます。

 

 

 

あとお金のことで言えるのは

金額と中身って=じゃないかもって思います。

でも怖いって思いながら出したら、それに見合うものはやってくると思っています。

 

実は高額であるほど何もしない自分が露呈しました。

 

覚悟無いんです。

 

自分では何一つ手を汚さずに、買ったんだからなんとかしてくれるだろう

というのを、高額な金額であるほど自覚出来ました。

 

逆にそこまでお金をかけないと分からなかったので

自分でもどうしようもないんですが

お金と交換するものが無形のものである程

自分の中に何を持っているのかあぶり出される感じがします。

八つ当たり出来ないし、矛先が曖昧でした。

 

 

自分で責任を取れないというのは

言い換えれば、ずっと被害者でいること。

 

それじゃあ幸せになんて、なれないですよね。

人に言われてしまう自分の弱さだって言い返せないですよ。

 

でも、そこを乗り越えるって言うより

その丸ごとそのままやり始めようって思います。

妖怪が人間になれなくても、みたいな。

 

心の赴くままに。

 

怖いことやり続けると、

心で思ったことしかやれなくなってくるみたいです。

 

 

 

 

 

 

意識に上がってきても見ないふりする罪悪感

私は素直じゃないし、頭でこねくり回すタイプなので

自分のこうしたいという在り方にたどり着くまで、結構右往左往しています。

過去に気付いたものでも

その時点で、実はまだまっすぐそのことと向き合えてなかったり。

 

でもそれはなぜか?と言えば

素直になれない、見つめられないほど程嫌で

受け入れられず認められないものが自分の中にあるからです。

過去に受けたショックが大きいほどにそうなりますが

自分の中にそうゆうものがあると

私生活の中でひずみが生まれます。

 

どうも生きずらい、上手くいかない、やれない、というひずみ。

 

理由の分からない生き辛さの陰には

自分が隠しておきたいものがあるのではないか?

直面したくはない自分の側面が

 現実の生きずらさ、やりずらさを作って自分自身を生きられない。

 

でもその代わりに誰かや何かのせいにし続けて

私は被害者で悪くはない、関わりたくはないという姿勢は取れたりします。

 

どちらがいいとか悪いではなくて

どうしたいかが違うだけなんですが。

 

 

先日の夢ノート関連の気付いたことをアメブロの方に書きました。

 

ameblo.jp

 

罪悪感って持ってる人はいっぱい持ってます。

私もたくさんあります。

地球に生まれて、社会に人に触れるだけでそれは出来るのですが

わざわざ向き合うかどうかは人によるんだと思います。

というか、どうしたいという本人の意識によって

向き合わないと、そのしたいものを手にできないからでした。

私は目指してるものに自立があります。

なりたいものを追えば追うほど

正直自分の見たくないものを受け入れなければならなくなります。

自分にはそれがないから求めるというのは

ない状態を受け入れてないからでした。

 

 

そして以前書いたブログに性に関するものがあります。

私の中では重要度高いのですが

経験がエグいので、受け入れるのも相当時間かかってます。

今なぜか、このことがまたぷかぷか浮いてきてます。

きっとこの前のお金に関することの続きとして

芋蔓式に繋がったんです。

自分を悪だとする罪悪感の一つに性のことがあるから。

 

女性は特に性について受け入れるのは大変じゃないかとも思います。

性については虐げられた過去が本当にたくさんあって

沢山の人がここで傷付いてたりしてます。

 

ジェンダーに関する偏見や差別

というかお金のこと、戦争のこと…

そうゆう黒い部分を人は繰り返して

生と死もそのひとつだと思います。

 

私は自分自身にずっとどこか黒いイメージを持っているのですが

人はどちらか一方というより、どちらもある生き物だと

ドキュメンタリーの写真などを目にする度に思います。

私が写真を好きな理由は、そうゆう物事を良し悪しではなく

ありのままにみせるツールだからかもしれません。

 

 

「性」そのものが二極の両方で

 女性は特にそれを受け入れる器がある生き物だと思います。

構造的にそういう立場にあるのが女性という生き物なんじゃなかろうか

そう思うのでした。

 

この写真集、実際起きた出来事は悲惨なのですが

そこに関わりのある人間の姿をとても美しく切り取っています。

 

 

 

 

haruradio.hatenablog.com

 

今回、上の記事を書き直したりしながら

今また浮いてきてるこの罪悪感はもしかしたら

どこにも落ち着かないかもしれません。

 

どうにもできない自分がいて、生命力が落ちてしまうような瞬間がやってきても

それでいいのだと思います。

そんな時は頑張らなくていい時だから。

 

そしたらまた元気になって

こんなことも大したことじゃなくなるんです。

ありがたいことにお正月で美味しいものも

なぜか今私の周りにはあったりして。

 

そして自分のネガティブなポイントをどうにもしなくなると

それが案外自分を助けたりするんです。

 

ここまで書いておいてなんなんだけど

なんでもいいんです。前置きはもういいから。

 

ここに書かれてることが自分を自分でどう見てるかの証だし

言い訳でしかなかったりするから。

 

 

 

 

逃げ場がない程、追い詰められるという感覚の先にあるもの

2018.2.5

加筆修正してみました。

 

 

最初に正解を言ってしまえば

「追い詰められても、死なない」です。

※運良く今生かされているという結果論です。

 

なんだよ、そんなことかよ⁈

 

でも、追い詰められる限界に挑戦して、わかったことがもう一つ。

 

それは何も変わらないそのままの自分で大丈夫だった

という安心の場や人が増えるって事です。

以前は恐怖だったものが、普通になる。

それは別の言い方をすれば、

変化や成長という言葉を使う人もいるかもしれない。

 

 

それで誰、もしくは何に追い詰められているのかといえば

自分自身です。

 

自分が自分の鬼なんです。

 

外にあるように勘違いしてるけれど

外は自分が鬼になってしまうようなきっかけでしかなくて

自分がその出来事に反応してるんです。

 

追い詰められるような場面は

私のようなビビりの場合、頻繁に起こります。

 

過去に追い詰められていた時は、

よく自信がないと口にしていた頃でした。

自信がないことばかりが目に付き、それのせいで何も出来ない

もしくは、

自信が付いてからとよく考えていました。

 

あの当時は、自分が自分自身にとても厳しく

とにかく許せない項目がとても多かった時でした。

 

でも、なぜ自分がそんなに苦しいのか

当の本人はまるでわかってなくて

自分が自分の何に厳しくして何を許せないのか

頭の中にいろんな声がしてショートしそうでした。

 

例えば

あれが悪い、すべきではない、今のはまずかったのではないか

自分が○○だからいけない、出来ない…

そうゆう類の言葉で頭が埋め尽くされてる感じ。

何もしてないのに疲れるのは

その頭の中の言葉にヤラれてるからで

 

その発想が出るのは

常に「自分が悪いから良くしなければ」としようとしてる。

 

そうしようとするのは

自分の存在が悪という前提だから。

素の私はいけない存在だと

自分が自分のことを危険視してるから。

 

でもこの自分が社会に出て、人と関わり、家族と関わる源なのに

最初からこの存在そのものが悪で危険としてるから

外に出ていくのにルールや制限や見張りを

いっぱいつけなくてはならなくなるわけでした。

 

頭の声はそのルールや制限や見張りの声。

しかもほぼ自動再生。

でもそれをどうにかしようとすることも

実は上手くいかないです。

これについてはまたの機会に。

 

今はといえば、自信がない事についてはどうでもよくなり

でも、あの頃とはまた別の課題を抱えているのだと思います。

 

 

なので今、自分がよく使っている口癖が何かを観察すると

無意識で自分のことをどう思っているのかのヒントにはなると思います。

 

例えば、使ってる口癖が「○○ない」という時

呼び込む現実も「○○ない」とその通りのものがやって来ます。

 

人は欠けている、不足の部分に目がいく習性があるので

それは自然なことなんです。

無意識では。

 

そう、無意識なんです。

苦しい自分に対しての接し方がいつも同じという意味で。

 

でも苦しいから色々やってはいるんです。

 

その「○○ない」という不足を見て、それをどうにかしようとする

というのが無意識的やり方です。

 

不足を見つけては取り組み

また別の不足を見つけては取り組み

と、ずっとそれをやり続けることになります。

 

 

例えば、今の私の口癖ってなんでしょうか?

 

「頼りない、だらしない、どうしようもない」です。

 

以前の「自信がない」は、実際追い詰められ

その恐怖過ぎる体験をしたが故に

だったらもう自信が無くてもいいわ!となり

 

出てこなくなった模様です。

 

そして、今やそれがどんな恐怖体験だったかも忘れました。

 

 

 

 

どんなに心で「○○ない」と自分や現実を嘆いても

この現実を作っているのは紛れもなく私自身であること。

誰のせいでも、何のせいでもないと

それを自分ごとにできるか? 

 

だからと言ってそれは、自分を責めることをする

ということではないんですけど

出ますよね。

でも出てもいいんですよね。

その踠きはある意味チャンスです。

 

自己否定という自分という鬼で責めて

心はどんどん疲弊するんですけど

 

「頼りない、だらしない、どうしようもない」っていう事実を

それは私の作ったものだと認めるんです。

 

例えば、

自分で選んだんでしょ?自分でやると決めたんでしょ?

お金だけ払っておいて、結局なにもそれについて取り組まない。

 

残念だけど私ソレなんですって

一旦ちゃんと認める。

 

自分を責めるという在り方の裏には、

実は誰かのせいや何かのせいにしてる自分を隠すのには

もってこいな在り方だったりします。

 

だから認めるということは負けたり降参するという事になるから

それを認めるのが難しくて

苦しいけどやめなかったりするんです。

 

 

今このどうしようもないと思ってる現実を作ったのは

私自身です、と。

 

責めることは長引かせて

認めるとは責めるという戦いの行為とは逆です。

終わらせる、です。

 

頼りなくて、だらしなくて、どうしようもない私でしたって

事でした。

 

 

 

そして

「○○ない」と自分を責める時に

周りの人も自分をそんな風に見ているに違いないと感じる時は

 

責めるという行為自体

周りに理由があったりします。

 

周りに見られてる。

だから、こんな酷い自分は責めるに値する。

それはまるで自分に制裁を与えるようです。

 

責め出す動機はいつも

私があなたにそう見られているから。

あなたが私をそんな風に見るから。

 

自分で自分を責める裏にはあなたのせいが隠れてる。

 

 

でも、それは本当なのか?

 

 

 

「あの山が美しいのは、山が美しいからじゃなく

自分の心がそう感じたからだ」

 

という言葉を急に思い出して

そのくらい全ては自分が作り出している。

 

外に正解はなく

 

それぞれの人の今の世界観があり

唯一その世界をどう見るかを変えていけるのが

自分の意識だけなんだろうなんだろうなと思ったのでした。

 

 

 

 

 

もうすぐ冬至だから

どんな方法も今の私を救うことがないと思うほど、落ち込みながら

そんな時ほど周りばかり見て

周りはうまくいっているのに…と比べてる

 

無意識に「私」を責めて、それらを止められないことをまた責めて

もがいてる

 

小さな私の窓から見る世界もまた小さく狭い

自分の表現がどこか間違っていると思うほど出せなくなる

それはまた誰かの指標に囚われながら、見失ってく美しさ

 

自分だけが不幸だという思いに駆られてる人が今

世の中にはどのくらいいるだろう?

 

自分の心と同じ人がいると、思いを馳せたらどうなるだろう?

 

不安なら、悲しみなら、孤独なら、寂しさなら、虚しさなら…

それらが自分にはどうすることもできなくて

でも今自分だけがそんな大きなものを抱えていると思い込むより

もしかしたらどこかの誰かもこんなものを抱えていたなら

 

この苦しみを感じることもまた

誰かへのやさしさや、過去の自分への思いやりに変わることを

覚えていて欲しい

 

あの人みたいになれなくても、憧れがどんどん遠くても

弱くても、笑えなくても、ダサくても

何一つやり遂げられなくても

 

そんな自分と同じ悲しみを、他の誰かも知ってるから

 

だから安心して、誰の真似もせずに、誰の背中も追わずに

 

生まれ変わらなくていい

 

私のエネルギーに帰ればいい

 

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***

 

冬至が間近だから、という言い訳をして

自分の中の今を吐き出してみました。

少々しんどい時期がまた来ました。

アップグレード、期待します。

 

 

 

 

自立って

怖さと隣り合わせの現実が今、目の前にあると思っている私の周りは

なぜだかとっても優しくて

 

 

今までずっと優しさが私を弱くするとどこかで思っていて

 

でもそれは、父がよく強い口調で「お前が甘いからだ」と母をなじるのを見て

弱い私のせい、そして甘やかす母のせいだと思っていたからで

 

 

今までずっと厳しさが私の脆さを露わにするとどこかで怯えていて

 

でもそれは、父がよく強い口調で「お前は駄目だ」と

私に指摘してきたせいだと思っていたからで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このままじゃ父を敵に回して母娘女2人で報われないと思って

 

だから頑張らなきゃ

強くならなきゃ

変わらなきゃ

誠意を、結果を見せなきゃ

でも、どうしよう

 

そんなストーリーが頭の中を流れていくのでした。

 

 

なんて哀れなストーリーなんだろうと眺めながら

 

 

本当は父のせいでも、母のせいでも

優しさのせいでも、厳しさのせいでもなかったことを

思い出せたのかもしれなくて

 

弱いという着ぐるみを着て哀れを演じながら

誰かの与える優しさに触れても

弱いという着ぐるみを着て哀れを演じながら

誰かの厳しさに警告しても

 

相手から受ける姿勢でい続ける限り

私は着ぐるみを脱げないだろうと。

 

 

ある人にとっては優しさも、厳しさも「私を強くする」だし

 

ある人にとっては優しさも、厳しさも「私を弱くする」なら

 

あとは自分がどちらなのかを、選んで決めるだけなんだ。

 

 

 

 

 

イベントはキャンセルしました。そこから見えたこと。

最近の私のやること、正直なかなかうまくいきません(泣)

こうやって書くのも恥ずかしくはあるものの

この経験から出会う自分の痛さや

同時にこの経験から得たものや、気付いたこと

そして周りの人達がくれた私へのメッセージなど

忘れないように書いていこうと思います。

 

自分から企画した割に実はなかなか動くのが億劫でした。

最初の方は集まらなかったらどうしようとか、

焦りや不安で、イベントをやり慣れてないのに周りの人とのやり取りが疎かでした。

聞かなきゃいけないこともたくさんあったのに

そうゆうのも後回しで。

 

そもそも、なぜそんな急にイベントを立てたのか?

私がやりたい事というのは誰に何を伝えたいのか?(ターゲットは誰か?)

 

イベントを立てることでひとつのハードルをクリアした気分でいたかった

(大変なことをしてそれを乗り越える修行)

何か動いてることをアピールしたいだけ(承認欲求)

誰かのやりたいが叶えばいい(偽善)

本当は届けたい人がいたのに、ダイレクトに聞けなかった(本音)

 

場を提供してくれる店主さんと色々話しながら、そんなものが見えました。

 

イベントを立てたものの、集まらないのは

その動機が届けたい人にストレートに届けてないから。

頭と心の不一致。

 

実は私にはこのイベントに来てもらいたい人が1人だけいました。

というか、その人に届けばいいと思ってました。

その人は私の友人なので近すぎて逆に聞けませんでした。

 

本当にやりたいと思ってないかもとか、

1対1だとどうなんだ?とか

プライベートレッスンみたいなカタチをとっていいものか分からないとか…

 

そんな理由から

夢ノートを届けたいけれど、届けたい人用には届けてない。

イベントは立てました。日も決めました。

でも届けたい人の希望に沿ってない訳です。

自分には力がないから、他の人の力を借りてまで頭は色々企てましたが

もうその時点で心はそれに乗ってないんです。

 

 

私が夢ノートを伝えたい人というのは

今ちょっと困ってる人、ちょっと苦しい人、悩んでる人、うまくいってない人

でも、そこを何かしたい、変えたいと思ってる人です。

 

例えばパートやアルバイトでたくさん働きながらでもカツカツで生活して

休みもそんなになくて、たまの休みに好きなことしてるけど

なんか冴えない、なんか苦しいみたいな人です。

好きなことしてるのに抵抗がでるとか、好きなことがそもそも何か分からないとか

そんな人です。

 

自分がずっとそうだったから、伝えたくなるんです。

 

今までは色々してもらう立場ではありましたが

したくなる立場にやりたいことが変わっただけなんです。

今まではずっとしてもらいたかっただけでしたが

伝える方をしたくなった。

 

それが今の私のやりたいこと。

 

いや、なんも技術なんてないですよ。

でもしょうがないですよね、やりたいことが変わったのだから。

 

ブランコに乗ってたけど、飽きたから滑り台に行くみたいなことと

同じ理由で変わったんです。

最近自分の作ったものを売ってみる、というのも

そうゆうことだと思います。

 

なので、その友人に直接連絡を取ることにしました。

すんなり決まりました。

心に従うって、こうゆうことなんだという体験をしました。

 

大勢に届かなくてよかったんです。

届きたい人のもとに届けばそれでよかったんだと。

 

恐れに任せて、常に頭の言う事を聞いてるので

心に従う練習、した方がいいみたいです。