幸せのためのエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

素直になるほど、自分の弱さが見えてくる

「寂しい?」

そう聞かれて

 

最初は寂しいってどうゆう事か、慌てて考え始めようとしていて

寂しいってどうゆう感情?とか聞こうとして

そうやって複雑にしようとした。

 

今更、寂しいって言うのが恥ずかしくて

そう言えなかったし、認めてこなかったのかもしれない。

 

あの時、死に切れなかった私を抱きしめようとする母親を受け入れられず

その優しさがとても怖かったのは覚えていて

 

ずっと、「寂しい?」という質問の答えは

「そんなこと言えない」と言うのが正解だった。

 

素直に寂しいよと、人前で晒せることは

甘えなんかじゃなかったと

今更初めて知った気がして

 

寂しさをずっと抱えていたから

当たり前に自分は寂しい人間だと思っていたけれど

実はそうじゃなかった。

 

いつも悲しがっていてはいた。

だから涙もすぐに出てきた。

 

でもそれは、もしかしたら

悲しいと寂しいを混同してしまっていたような気がして

まるで引きこもりみたいに

悲しみの殻に自分を閉じ込めて

 

抱えた寂しさを誰かに察して欲しくて

誰かに優しくして欲しくて

 

素直に欲しいって言えないから、ひねくれて

悲しみを盾に

寂しさをどんどん奥の方に追いやったのかな。


それはきっと、甘えてはいけなかったからかもしれない。


可哀想な自分になって

人の気をひこうとするのは

母に頭を撫でてもらいたくて、泣いたふりする子供と同じだった。

 

大人になった今

そうしても、別に構わないけど

それだとずっと文字通り寂しいかなって

今の私は思ったよ。

 

今の私は、またいつもみたいに意固地になって

誰かに私の寂しさを察してもらう為に

可哀想な人をやり続けるか?

 

それとも止めて、

幸せな人であり続けるか?

 

今目の前がどんな状況でも

どんな自分として関わっていくのか?

 

 


「私は寂しいです。本当はとても弱くて

抱きしめて欲しいって普通に思う。」

 


自分の寂しさをずっと認められなかった。

強くなるために

甘えは許されなかったけど

そうやって強さを手に入れて結局愛されたかった。


でも、本当は寂しさが私には当たり前にあって

こんなにも近くにあって

ただ、見ることができなかった。

 

それで「私は寂しい」と

あえて自分で自分に言ってみた。

 

そしたら不思議なのだけど

自分の中の封印してきたキャラクターが許された気がした。

 

私の中に寂しさがあって、弱い人間だって認めたら

傷付かないで済むようなことはもう、

止められるんじゃないかな。

だって弱ければ、傷付くのは当然だから。

 

自分が傷付かないように、相手を傷付けないように

優しさを使う必要もなくなりそうな予感がする。

 

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夢の描き方

以下は、夢の覚え書き。

 

「〝ジオフィックライト〟という

ドラえもんの限定の多機能ペンがあって

 

店員の私という設定で

その限定多機能ペンを求めに来たお客さん相手に

店で永遠その品物探す。

 

お客さんを待たせる。

 

その間あたふた

しきりに焦る。

あるはずという思い込みでガチガチ

全く周りが見えず

「どうしよう…私が悪い」という呪文が

ずっと頭をめぐる。

 

店の中を探す↔︎他スタッフに聞いたり

壊れたロボットみたいに同じ事を繰り返してる。

 

あるはずと信じて疑わず

行動を決して変えない。

散々待たせて、結局店にはなく

平謝り。


そしてやっぱり私が悪いというまるで呪いにでもかかっちゃたみたいに

自分でそこを何度もリピートして立ち尽くしてる(汗 」

 

という夢。

 

まるでしがみつく様に

私が悪い。私が悪い。悪いのは私だから。

私はこう。私はこう。これが私だから。

 

目の前のお客さんにしこたま恐怖してる自分というオチ。

いつもそのオチで終了。


何気なく見た夢も

最後の恐怖感というのがどうも強烈で

あの恐怖感を忘れないといった感じ。

 

それらは、私の現実の中に起こった過去の出来事。

 

ずっと縛られてる

「私が悪い」という立ち位置と

それを延々呪文のように頭の中で唱えてること。

 

そこから抜けられないと思ってるの。

またそうなるって思ってるの。

 

なんでだろう?

 

 

この話したら、考え過ぎって言われたけど

これを夢で見たって事がなんだか強烈なわけで。

 

だからといってこの夢から

無意識でしてるこれらの反応を

急にやめられるわけじゃないけど

 

今までの薄い自覚の仕方とは別物というか、

 

無意識が意識になる。

夢が現実になるってこう⁈

みたいな。

 

意識に上がってきたから、「気になる」って思いに現れて

それでやっぱり、そうゆう切迫してる感じを、苦しんでるのを

もうやめたいと

自分のしたい事として再確認する。

 

自分がどうしたいのかが分かる。

 

生きて行く中で、

自分は結局どうしたいのか?という欲が分かる事で

それをするにはどうすればいいか探し始めたり

行動につながって行く。

 

眠りの中の夢で見て

現実で夢見たいことがはっきりしてくる。

 

『そうゆう恐る自分さえ愛してみたいということ。』

これでもまだ、具体的ではないけど。

 

それでも、

なんにつけても「悪い私」にしてるし

ましてや今の私悪かった?と探してるのが普通になってる事に気づいたし

それ止める為に、決めようとしてる事も出てくる。

 

ちょうどそんな時

Happyちゃんのブログが目に止まって

怯えてる時間は、本来の自分ではない間違った思い込みの表れ

収縮と拡張

ameblo.jp

という記事や

 

 


最近指摘もらってるグラウディングのこと思い出したり

ずっと求めて来た〝自立〟ってどうゆうことかを考えたり

男性性と女性性のこと(自分の恋愛観のこと)とかを

この前にブログでhttp://haruradio.hatenablog.com/entry/2017/08/02/014905

書いたりしていて

 

それらは全部繋がっていて

 

責任があるとすれば

「それは自分を幸せにするということくらいだよ」と

以前言われた言葉を思い出したりしてた。

 

自分を悪者にするということについて

やめたいことをなかなかやめられないと思ってる

自分でいること。

 

傷付きやすいから、またそのショックに出会いたくないって本音。

でも、またそう(怯えや弱さの自分)なっちゃうって言い訳。

 

ショックを受けやすくて、弱い自分にまた出会うのが怖くて

相手が鬼のように見えて

怖い側面だけ見てしまう。

それで、その相手丸ごと逃げたくなる。

怖いのはほんの一部でも。

 

私が傷付いて怯えるという舞台に立つと

その相手は鬼になるけど

昨日の天使も鬼なる。


そんなにコロコロ変わるなら

本当にそうなのか?を問いかけて


私の舞台に怖い相手として向かえるのをやめてみたい。

 

この私の世界とあなたの世界を切り離したい。

私の妄想劇場に間違った配役のあなたで上げたくない。


傷付かないと決めるんじゃなくて

傷付いた後にどうするか?を考えたい。

 

だって傷付きやすいのはもう仕方ないじゃない。

出ちゃうんだから。

 

感情が波のように大きくうねって溺れ掛けてて

でもそこから出ようとすると

さらに溺れてしまう気がするから

 

その抵抗をやめて見たい。

その渦中で最中でスッと力を抜いてみたい。

 

そして、その時間さえ愛おしいと許してみたい。

 

 

目を閉じて怖い夢を見たから

目を開けて新しい夢を描いていける。

 

現実はいきなり変えなくていい。

やれる事を気付いた時に少しずつ行動してみる。

ひたすら、その繰り返し。

 

 

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もう辛い恋愛なんて、しなくていいよね。

私はちゃんと恋愛をしたことがない。

 

ずっと縁がないとか、恋愛ができないと言っていた。

でも、もしかしたら

恋愛を許さないからじゃないかと思うようになった。

 

今まで人を好きになった時に

私は自分の気持ちを抑える恋愛しかしたことがない。

優しくされるだけで、簡単に心が動いてしまう自分のことが

たまらなく嫌いだったりした。

なぜか相手のある人ばかりを好きになったりしていた。

 

そしていつも、上に書いた自己否定に気付かないまま

そんな心を自由にはさせなかった。

自分の気持ちがハートになるのを許さなかったのだけど

 

理由なく走り出したり

どこへ行くか、次にどうするか

予想もつかない子供のようなその気持ち(感情)に

私はいつも振り回されていた。

 

それは恋愛のことの限らず

全てのベースとして

自分の中に抱かれる感情を許さないできていたのだと思う。

 

例えば

怒ることもそうだし

怖がることもそうだし

楽しむのさえそうだし

悲しむことだったり

嫉妬したり、恨んだり…

 

でも、気持ちって

湧いてしまうものだから

抑えた分だけどこかにはみ出すのだと思う。

気持ちは我慢する程苦しくなる。ストレス。

自分が我慢に気付いてなくても

体には出たりする。

 


今の私の試みとして

感情が出たらどんなものでもそれをなかった事にしない

というのをやってみている。

もちろん自覚できる範囲で。

 

抑えるのが普通だった私にとって

勇気がいること。

でも、出した勇気の分だけ

自分の心のことが分かるようになってくる。

自覚できる範囲も広くなる。

 

理由なく走り出したり

どこへ行くか、次にどうするか

予想もつかない子供のようなその気持ち(感情)を

今度は遊ばせてみる。見守ってみる。

怪我をするかもしれないけど。


それは、例えば

自分の思いを相手に伝えるという事。

 

これは先月のことだけど

伝えるという勇気を出したら

相手を悪いと思ったその怒りの反応の裏に

もっと関わりたいのにという寂しさが

自分の心の奥に横たわってた。

 

伝えなければ、きっと

そんな自分の寂しさに気付かなかった。

 

あと、誰かを好きになると

気持ちというのは色々強くなるから

恋愛をして出てくる気持ちを抑えこむというのも

もしかしたら自己否定の一つじゃないかと

感じるようになった。

 

自分の気持ちをなかった事にしない。

それがどんなにか恥ずかしくても、情けなくても、醜くても、残念でも。

それがどんなにか熱しやすくて冷めやすいと分かっていても

 

今、どうなのか?

 

相手に愛される事や求めるのをやめて

自分の気持ちをまず確かめる。

 

相手が先か、相手が勝ちか

自分が後か、負けかを捨てていく。

結果は追わない。

 

だって、その結果という幸せな未来は

単なる雛形じゃない?

私の幸せを誰かに振りまこうとしてない?

幸せな結末なんて未来をすぐ用意しようとして

 

今を忘れてない?

 

相手ではなく、私がどうかをちゃんと見て

その自分の気持ちに責任を持つ。

それは、惨めさも覚悟する事。

 

今私にやってきてることや自分の想いは嘘じゃないと

自分の気持ちを自分がちゃんと受け止めたり

あると認めること。

 

それをすることで、より自分らしくなっていく。

求めることが少なくなっていく。

有難さがそこら中にあった事に気付かされていく…

 

んじゃないかな。

 

今はまだ、そんなに確信は持てないけど

そんな気がするよ。

 

 

 

 

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#蝶#自然#虫#幻想#詩 ♦︎たくさん悲しみたくさん落ち込んでどうしようもない自分を自分1人だけで諦めるしかなくて♦︎恥ずかしいこともそしてどこまでもひとりぼっちなことも意固地でいじけてしまうことも♦︎そうゆうどうしようもなさを諦めて、諦めて、諦めるしかなくて♦︎だって、そうゆうどうしようもなさを1番嫌ってるのは自分だからだよ♦︎心の中は自分1人だけでしか認められない♦︎今感じてるこの寂しさを肩の抜け切った力のない体を感じながら見守ろう♦︎そしたらきっとまた次に行ける♦︎今度は1番ダメなところを知ってるよそう言いながらそんな自分も新しい友達にして♦︎諦めた分だけ優しくなれるから諦めた分だけ許せるようになるから諦めた分だけ広がるから諦めた分だけ柔らかくなるから♦︎自分の弱さを許してみて自分のみっともなさもダメさも、ありにしてみて♦︎強さを追うその前に

 

 

 

グラウディング続き(性のことから恋愛まで)

haruradio.hatenablog.com

 

上の続き。

 

グラウディングのことで

指摘されたことがもう一つあって

 

それは

『私の頭の上に管みたいに出てて

そうやって上と繋がりっぱなしだと

結構思考がまとまらなかったり、

ぽーっとするんだよね。』

今まさにこんな感じ。


今までずっとはっきりと目的があった。

 

苦しくて抜け出「したい」

死に「たい」

逃げ「たい」

 

認められ「たい」

自立「したい」

人より優れて「たい」

お金を稼ぎ「たい」

雇われずに働き「たい」

 

それを有る意味ではやりきってきた過去。

その「たい」を

私はずっと叶え続けてきたわけで。

 

最初のほうの死にたいとか逃げたいとかは

自分の感情から逃げていた時に出てきた欲求

後の認められたいとかお金とかは

自分で自分の価値を認められなかったり

否定していたり

そのまんま、ありのまんまの自分でいることに

価値なんてないからという理由で

欲しがっていた欲求

私は小さい頃から結構エゴがたくさん有って

それが強い子供だった。

 

私の両親は真面目に丁寧に私を育ててくれたから

私は抑圧がとても上手にできる子に育った。

 

悪いものには蓋の人生。

 

感情を感じることを許さない1番最初の出来事は

性的なことがきっかけだった。

 

何かいけないことをされているけど

なんだかよく分からない。

こんなに幼いのに

それでも「感じてしまう」という罪悪感が

小さくても育ってしまったのが始まりで

状況的にも見事に「感じてはいけない」という

シチュエーションだった為に

それは絶対のルールになったし

 

あの経験から自分の存在そのものが恥という意識が

自分のそのまま、ありのままを

認めることを絶対に許せなくなったのだろうと思う。

 

感じることって

種類違うと思いきや
ここが1番大元な気がする訳で

怒りとか悲しみとか喜びとか種類は色々だけど

感じるって実は平等なんじゃないかと思う。


感じる事の大元である

性的なことを汚らわしく扱って否定的に捉えると

存在そのものを否定しやすいし

認めることが難しくなる。

 

汚らわしいって厄介だし

お金も似てるとこある。

 

(ちなみに、私はそこに気付いて

最初はとても嫌な思いを自分に感じながら

あえて取り組んだことというのは

自分なりにあるけれど。性もお金も自分がその汚れになるってことかな。)

 

恥や羞恥心は自分でも気付かせないように

自分で隠すから

 

恥だから隠したいって無意識の理由で

自分でもなぜ死にたくなったり
自己否定が強かったり

なぜこんなに自分で自分を苦しめるのをやめられないのかが

とにかく分からなかった。

 

分からないと言いながらも

欲求のままにそれらをやり切ったからこそ

今こうして書けるまでに

自分のやってきたこと一つ一つに

ちゃんと理由があることも分かったし

 

そんな過去さえ

もうこれも私だからなぁという

諦めというか

所詮こんなもんだよね、みたいな普通でいられるようになった。

 

だから欲求はどんなものでも

やってみることで自分なりの理解はやってくると思ってる。

 

でもそれはしくじりの人生で遠回りの人生だし

とっても疲れるわけで。

でもそれもやっぱり私だからだろうな、という所に

行き着いてしまう。

 

ここまで書いておいてなんだけど

これも私という人間の視点からの解釈でしかないから

そうゆうことにしてるだけで

そうゆうことにしてると納得できるからだし

自分が生きやすく都合がいいからなんだと思う。

 

 

それで今は、こんな以前と何も変ってない自分に

何も問題がなくて

この自分で、何も変わらない自分に安心があるのが

前と違うだけ。

前はそこを責めまくって、自分で攻撃してたから

苦しかっただけ。

 

それでも最近また一つ自分が自分に対して

自己否定してることを見つけて

それは上にも書いてきた自分の過去に

由来するのだけど

 

今でも恋愛経験ってほとんどなくて

どうして恋愛できないかということとが

もしかしたらこれが理由か?と思うことがあって

 


それは自分が自分に対して

「気持ち悪い」と思ってること。

誰かを想う時にいつも出てくる自分への気持ち悪さ。


こんな風に考える自分

あんな風に反応する自分

心が先なのはもう分かってる。

身体で反応も分かってる。

 

でもその全部を頭で気持ち悪がってる。

自分の欲求に関して気持ち悪がってる。

求めることを気持ち悪がってる。

 


例えば、

 

一緒にいたい

触れたい

もっとこうしたい

ああしたい

ああなればいい

こうなればいい

でもあれは困る

それは、いわゆる妄想だけど笑

 

心、身体から(今)

いつの間に頭に移行していて(過去、未来)

 

私はよく

心と身体を

頭で力強くねじ込もうとするから

最初から無かったことにしようとする事を

全身で始めるのだなと。

 

ここでグラウディングの話しに戻すけど

私は、そうやって心と身体を

上手に優先できない。

 

こと恋愛に関しては

一生懸命、慌てて妄想して

取りに行こうと頑張ってみたこともあったけど

上手く行かないのは

恋愛モードの自分が既に「気持ち悪い」という臭いを纏ってて

それをベースに頭で闇雲に行動に走って

結局最後に自分でやったことや想いを

全身全霊で蓋する結末になったりする。


それは、自分のどうしたいがはっきりないから。

 

結末に嘆いてうだうだ

ネガティヴな感情に浸ってるのも

行動はしても覚悟が無いから。


自分の気持ちの始末を自分で取ろうとしないから。


ここが結局グラウディングできてない所じゃないかと。

自分の行動、誰のせいにもできないよね。


今の私の頭の上に管の状態って

身体を見ないで

未来や過去やイメージや妄想を見てること。

 

心が感じることに理由はないから

世間とか一般とか社会とかからずれることなんて

普通って思った方がいい。

 

こんなこと考えたり思ったりする自分酷いって

もしそうゆうの出てきちゃったら、有るなら

一旦認める。

 

でもその心で想うことを頭で誤魔化すと

自分でやってることなのに

自分で選んでるに

当事者意識全く無くなる。

 


だから、今の自分はどうしたいか?を考えたうえで

自分の心や身体の今を無かったことにはせずに

 

この心で思ったことは嘘じゃないなら

その上で自分がどんな風に行動して行くのがいいのかを

頭と相談して決めていけばいい。

 

進むや、やるのがいいわけじゃないし

やめるのが悪いわけじゃない。

 

自分で決めてみる。

 

頭は心や身体で感じたことをなかったことにする為に

あれこれ未来や過去やイメージを見ようとする場所じゃなくて

 

今の自分のそのままを見て

気持ち悪いと思うなら

そんな気持ち悪い自分がいることを許可した上で

行動を考える場所のような気がする。

 

 

例えばダイエットだって

痩せた誰かの身体の写真をイメージしてるだけじゃ痩せないし

 

私はどこかイメージに逃げてるかも。

 

美しく踊ることも

美しく踊る誰かをイメージしてたけど

ちゃんと自分の体や指先の角度を

鏡でしっかり見ないと。

 

自分の身体の不完全で

美しくないなと思うところも見ないと。


今の自分の身体を、ここまでという身体の硬さを見ないと。

 

でもそれを否定するのではなく

ただそれであるってこと。


完成のイメージは大事だけど

まず今の自分の技量を知らないと。


そうゆう事実を見て

でもそれを貶さなくていい。


グラウディングってそうゆうことかな。

 

 

 

グラウディングのアドバイスをありがとう。

 

ameblo.jp

 

 

 

 

グラウディングの方法。

 

私はいつも空ばかり見る。

 

綺麗だからだけど

あの空をただ見てるのだろうか?と

この前空を見ながらふと思ったりした。

 

今なら入道雲を見れば、ああ夏だと思ったり

雲の形を見ては似てる何かと重ね合わせたり

 

鳥や、花や、木や…

その大半は情景として眺めてる時間が長いような気がした。

それは、絵本や映像やテレビや

そうゆう過去の何かの記憶と

今見てる目の前の風景を無意識に重ね合わせたりして

 

あの空をただ見るって

もしかしたらただ見てることなんて

少ないかもしれないと

ちょっと訳のわからないことを考えていた。

 


体験は感情とセットで

どんな感情と目にするものがセットなのか

それは快か不快かと一緒に記憶されてく。

 

だから外側の風景で以前の記憶に近いと

その時の感情が湧いたりする。

 

あの時のセットをまた掘り出すみたいに。

この人苦手みたいな。 

桜の時期なんて特に。

 

そうやって目にするもので気持ちが蘇る。

 

 

風景もただ見てないのだから

人なんてどれ程にただ見る事が出来ないのだろうと思う。

あの人のあれが良い

この人のこれは良くないとか

 

そして、私という存在に関しても

どれだけ良いや悪いを判断して

振り分けて自分という存在を見ているのだろう。

 

私のここがダメ

私なんて…と

そんな風にずっと頭を空にして

目の前の風景を

目の前の人を

そして自分自身を

ただ見る事はない気がした。

 

 

ここからグラウディングの話し。

 

 

グラウディングは私からすれば

現実をしっかり生きるという事で

別に特別なことでもなくて

 

それは自分の意思で

自分の現実を選んで、作って

それは自分の存在を無駄にしない為に

必要な力のようなものだと

今の私は思っている。

 

 

最近、言葉でこうするといいや、ああするといいと

アドバイスをもらったりしていて

でもそれが物では無い時は

自分の方法が、これでいいのかよく分からなかった。

 


今までは何かを得る為に動いていて

ああなりたいとか、欲しいという欲求

常にあって

向かう場所のようなものがあった。

前の方がアドバイスに執着していたし

常に苦しかった。

 

今はそれが薄れていて

苦しみはないけど

ものすごく曖昧な感じを自分に感じる。

強さがなく、力がなく、迷うことが多く

これがいいというよりも

何でもいいという事が多くなった。

 

首の皮一枚とか細い糸で繋がっているような頼りなさを

もう去年末からずっとやっている。

 

現実を動かすという力が湧かずに

それが今の自分には危機感のように感じているけれど

それさえも曖昧という言葉で流されてしまいそうで

少々困っている。

 

今の自分にとって

何かを達成したいという明確な欲求はなくて

達成したいその何かが

よく分からず

 

今は与えられているものをあまり拒む事もせず

受け取っているような生活だったりする。

欲しがっていた時より

有り難いことに、こんなにしてもらって良いんですか⁈みたいに

私の元へやってきていたりはするけど。

 

エネルギッシュで

自分のしたいことに人を巻き込んで行くような人の側にいる今だけど

でもそれができるのは

今の私が自分の意思の力を信じてないからのような気もする。

 

前のような私なんかが…っていう申し訳なさはなくなって

受け取ることに抵抗がなくなって

こんな私でも受け取って良いって言えても

すごく自分には力がない。

 

 

受け取るだけは全然エネルギッシュじゃない。

 

 


前と違うところがもう一つ。

有る事に感謝をするという事。

自分の身体がちゃんと機能していることから

感謝出来るようになった。

 

不満を探すより

今ある環境や人から

有り難さを探すようになった。

 

以前はこうしなければ、ああしなければと

しなければの応酬を自分の中でやっていた為に

ストレスフルだった。

 

グラウディングが出来てないという指摘は、もう前からの事だけど

その中で印象に残ってる話がひとつある。

以前、A4の白い紙の上に好きな絵を描いてと言われた際に

真ん中を境に

上だけにしか絵を埋められなかったのを思い出す。

それも極端に上は鮮やかで、下が空白。

その空白は描けないといった感じだった。

 


自分の事なのに、こんな言い方するのもあんまりだけど

 

自分ではどうする事もできないと

心の奥底で思ってる表れとして

自分の今の選択がある気がしてならない。

 

 


それで、グラウディングとしてもらったアドバイスが何だったのかと言えば

地球と繋がってエネルギーもらうと良いという事だった。

それをするのに

地球と繋がるイメージをしながら瞑想すれば良いと思っていた。

 

上が派手で根のないような空白の私がやる事として

私は常にそうゆうイメージを作り上げていて

それがない、何もイメージしない事が

出来なかった。

 

ただ座る、ただ見るが出来ない。

そして空っぽでいる事が実は怖いということに気付かせてもらった。

 

だから常に考えを網のように張り巡らせて

イメージを沸かせて

どこからかやってくるであろう、変化球のような流れ弾にも

対応できるように構えている感じというか。

 

 

それで考えない事の怖さって

足の付かない深さの海に

浮き輪無しみたいな恐怖と似てて

 

これって、力抜くことが前提にないから

誰かのサポート無しだと自分では気付けないと思った出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネガティブとポジティブという決まりを壊したくて。

 

 

 

前回の続きというか、もう少し詳しい所を書こうかと。

 

 

haruradio.hatenablog.com

  

 

 

海外から私が今いるこの村にお金を稼ぎに来る人たちが

毎年沢山いる。

 

そして、言葉もあまり通じないで

雇う人、雇われる人の関係があまりに良く無い場合、

精神をやられてそれを苦に死んでしまうという事が

起こるらしい

という話を聞いた。

 

村にある高い橋の上のそうゆう事情。

 

去年は仕事の合間の思い出にと

富士山も見えるような眺めの良い、別の橋の上で記念写真を撮ったのに

そこの橋にも観光名所という表向きの華やかさの裏に

そうゆう事情があるって話を今年聞かされ

なんとも言えない気分になった。

 

そんなことを聞いたら

聞いたそばから印象が変わってしまうではないか、なんてね。

  

そうすると

ここはどこか淀んだ感じがする、とかを言いたくなる自分が居て

そんな風に目の前の山間の村も、聞いた話で綺麗に見てた場所も淀み始める。

 

でもそれは、死について

とてもよろしくない印象が多すぎるからなのだと思う。

感情が激しく揺さぶられたり

例えば、悲しみや、憎しみや、後悔や…

穏やかではないられない感情と

死という出来事がセットだからのように思う。

 

そして生きてく中で、自分で経験できる事以外の

テレビや本や見聞きしたりするものまで含まれて

そこにも感情が伴うからだと思う。

 

自分に関係があること、経験した事には

特別に感情は強くなるだろうし。

 

 

 

 

自分にやってくる出来事のうち、過去に同じような経験があると

人から聞いた話だけでも

余計にその「なんとも言えない気分」や「淀んでる」ように

感じることは強まって

今幸せでも、その今という地点から苦しんだあの時にタイムスリップして

死んで行く人への連想ゲームを始めてたりする。

 

あの時の嫌な気分を今更また持ち出して

他の誰かもそうやって悩んでいるのだろうと

想像することとか。

 

でも一つの出来事があっても

誰かは心配で応えて

誰かは怒りで応えるような

人によって変わる千差万別の世界が現実と言われてるもの。

 

自分にその種がなかったりすれば連想もできないし

苦しむという事をしない人は

他の人もそうだろうという所に

自分の想像を使わない。

 

 

自分もそうだから他者も…という自動的な妄想のループも

自分がそれを生み出しているという自覚や責任を持てると

その事が「意識的に生きる」

ということには繋がるのかも。

 

だから、自分の感情を元に誰かのところに行ってはいけない気がする。

自分で沸いたものは自分にしかケア出来ない。

 

影響を受けないようにするには

他者と自分をちゃんと切り離さないと行けない。

 

同じ時間や場所にいても

自分が見てる世界とあの人が見てる世界は

全く別だったりするから。

 

 

 

 

不快な情報を聞いても

その情報が今の自分にどれだけ関係があるんだろうか?

を考えると

実はあまり関係なかったりする。

 

綺麗に見えるのも

淀んで見えるのも

 

結局は自分が感情を乗せてその風景を

綺麗に見るか

鬱蒼として見るか

淀んで見るかは

 

全てが自分由来だった。

 

どれだけ毎日、イメージしてるんだろう?

 

自分がやってるということをすぐに忘れて

感情に踊らされるけど

それが出来る豊かさを今

身体があるから、ここにいるから、

心があるから出来ているという有り難さ。

 

いつもいつも、

その豊かさや相手のある事に感謝する日々。

 

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#ブログ更新#空#太陽#光#谷川俊太郎✴︎そう言えば「闇は光の母」なんて言葉が出せる谷川さんの詩はそれだけで豊かさを思い出す。言葉はその人の豊かさを表すようだから出来ないと断らず、見ようとすることを始めたい。✴︎闇は光の母だったと。

 

 

このままでいいわけないだろって思えるのは、良い事だと思うんですよ。

先日のこと。

 

午前3時半から畑で収穫。

ヘッドライト装着で暗がりの中、手元のライト頼りに

植物をカマで殺す。って、

 

「えっ⁈」

 

暗がりでする作業は体感覚が敏感になる気がしたから

そんな表現。

 

暗いと見えないと

思う以上に手に触れる感覚が生々しい。

 

手元から伝わる感覚から植物も生き物だという事が

妙に伝わってきて結構びっくり。

 

視覚の情報って膨大だけど

見えるという事が

見えない感覚を大分スルーしているか、奪ってるとも言えて

体感覚の鋭さが素晴らしいと今更感じた。

 

この場所に来てから

色んな生き物の死骸を見た。

 

狸、猫、カラス、鹿。

 

毒殺だったり罠にかかったり、色々死んでいった。

 

動かない彼らを間近で見た。

 

皮膚を剥がされた鹿の太ももの筋肉や胴体を見てからは

シャワーを浴びながら

自分の身体もああなんだろうと思い出して身体を摩った。

 

カラスは最初本物に見えなかった。

ダミーかと思ってた。

都会のダミーに見慣れて、畑でもそれだと思ってた。

 

そして、この場所は人も死ぬらしい。

 

そんな事を見聞きして、やっぱり怖くて暗い場所だったんだと

私の視界からこの世界を暗く見た瞬間だった。

 

そんな事があっても

その死骸は放置されたままではなかった。

 

埋められたり、食べられたり、誰かに処理されて来た。

 

生きていると、そうゆう事にも巡り会う。

 

生きているからだった。

 

それを悪いとか良いとか

簡単に決められないと思った、

なんとなく。

 

 

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タイトルと内容がちぐはぐだけど

今自分に言いたいことをタイトルにしたんだけど

 

自分で自分のことが決められないというのを

長々やって来てる私は

どうやら地上に根をはれてないらしく

 

でも、もうそろそろ

「このままでいいわけないだろ」って急かしたい訳で。

 

 

身体のことやったって、心のことやったって

見えることだって、見えないことだって

それに当事者意識がなかったら

いつまでたっても根なんてはれないだろうよ。