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fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

美しさとか醜さとか、信じるとか苦しむとか。

美しさの背景が美しいとは限らない。

でもその事に気付かない。

 

信じているから。

 

でも従おう、心がそれを美しいと言うなら。

醜さを、不純を知っても尚

美しさを諦めずに。

 

醜さを、不純を知ったら尚

対極にあるそれらを許す為に。

 

 

心は理由なく涙を流して知らせをくれる。

嬉しい時も悲しい時も。

 

それを拾って。

 

傷は抱きしめて。

 

あの人にできる事が私にはできないんだって認めて

楽な方法を探していい。

 

心に負荷がかかってることを先に見破って。

 

あの人を辿らないで。

 

自分の方法を自分に許して。

 

 

未来の自分はいつだって

笑っている。

 

 

それはもう無条件に。

 

 

 

 

 

 

自分のことを真剣に考えたことなんて
実はなかったかもしれない。

いえいえ、
うんと真剣だった、というより
必死だった。

 

でも必死って、大変。
そして、疲れる。

それなのに必死で居続けた。

恐れない為にはどうするか、
自分が傷付かないためには、
人を傷付けないように、
みんなの納得できるような、
認められるには、

ずっと探してた。



人のことを考えてる体の良い人間であることをアピールしながら
自分の枯渇を埋める為の方法を求めた。

それが良い悪いでは無く、ただ欲してた。


欲しいものもその内変わって行く。
でもそれは、欲しいと求め続けるのをやめず

何度も取りに行ったからだった。


その都度、求めて動いたり休んだりしながら。


苦しみを経験してると
その間、生き生きとした潤いのようなものが失われていく。

その内「苦しみ」は

しに行くものになってる事にも気付かないまま。


自分に火がついて燃え尽きて、乾いてしまうような危険なものにも関わらず。


だから「なんだか苦しい」には
いち早く
気付きたい。

そんな時、水は飲んだ方がいい。
こんこんと湧く泉を見つけて
潤いを分けて貰うように。


ちょっとの勇気で弱さと本音をあの人に伝えながら。


それともこれがお似合いだなんて

まだ言うつもりだろうか。

https://www.instagram.com/p/BUUFiIYARZm/

#夕焼け

 

なぜこんな風に思ったのか?

きっかけはあって

上手く言葉になりそうなら書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

落ちてもいいですよ、でもそれ上がる前提だからね。

自分が楽にできる事(バカにしてる)には怒りが出て

自分が憧れてる事には恐れが出て



それは、いつも言われてきたこと。

恐れの裏には怒りの抑圧があると。


ここの所、とてもしんどくて
色んな自己否定や受け入れられないものが
ドバッと出てきてる。

もうダメかもしれないと言う言葉が
口をついて出てくるのが辛くて
これで良いのだを気休めに言っている。


いつもは恐れでしんどくて色んなことを
辞めるという事をして来たけど

恐れに向き合う方が
それを超えられないとどこかで判断した私が選んだのが
今の色んな選択なのだと思う。

怒りが出る方が
もしかしたら自分にはやりやすいかもしれないと
数ヶ月前のどこかで思っていたように感じる。


楽にできることを選んで、案の定
今自分の怒りで、どうにかなりそうだった。

何もしてないのに隣の人に苛立ち

そんな今自分の中に燻ってる理不尽な怒りが
色んなところに飛び火して

それは、他人からすれば八つ当たりで、とばっちりで、
優しくしてくれる人にまで
苛立ちでしかいられない自分に気が狂いそうだった。

これを外に出さずにいたら
外で他の人の怒りのスイッチを入れてしまった。
燻った怒りがもう燻るどころか
ちゃんとはみ出してた。

それで自分はと言えば、
その事でまた自分の中の怒りをぎゅっと押し込めて
喉が痛かった。

悲しくて泣きたくなった。

 

今の私はとても不安定で

だから今の自分が誰かに対して
何かをしてあげるられるほど自分を満たして
溢れてないのは確かで

でも、過去の自分とはまるで変わってない事にショックを受けてながらも

自分なりに、なんとか歩みは止めたくないという
訳のわからない想いだけで
今、生きてる気がする。

前と違うのは
こんなこと書いてても
生きる事に希望を見出してる事。

前は自分を責める事がメインだったけど

自分に対するアプローチが前と違う。

そしてどこかにある「それでも大切」という微かな空気。

 

 

自分のパターンを自覚しながらも

今はその自分を受け入れろというお達しのように
残念なことばかりやってくる。

まだそれを残念としか言えないことが辛い。

でも今、現在進行形で起きている全てのことが
今の私に対する最高の〝gift〟なんだと思う。

私がそれを諦められるなら、だけど。

 

 

でも本当はずっと怒りを見るのが辛くて

そこから逃げてきたようにも思う。

 

その自分になるくらいなら

ぶるぶる震えて弱い自分でいた方が愛されるからという思い込みで。

 

 

そして、自分がバカにしてるものに成ろうとする時

いつもひどい苦痛が伴うのは

 

それ程に、無くしたいほどに、

強烈に嫌っている

 

そうゆうこと、なのかな。

 

 

 

 

 

 

お金を稼げない理由

 

今まで学んできたことを、今度は誰かに提供しようと

お金を払って受ける側でいる事から、提供する側へまわろうと

そう思ったのは、最初は単にその資格が与えられたからで

それでお金が稼げるなら

雇われずにいられる自由や大きく稼げるかもしれない欲から

安易に始めたように思う。

 

好奇心や流れから、なんとなく始めた。

 

それをやってみたら、気持ちが折れそうで、折れそうで…

仕方なかった。

 

コレが起業なんて大それていて、とても言えないけど

やろうとしてる事はそれに近い。

副業かもしれないけど。

 

起業しても、失敗することがほとんどと言われている。

自分がやってみても、そう思った。

だって折れそうで、折れそうで

なのだから。

 

辞めたくもなる。

続かないのは苦しいから。

 

でも苦しくなければ、行動など起こせない。

 

それが辞めるであっても、続けるであっても。

 

続ける事は未知で

辞める事は見慣れた風景で

 

どこかでそう思っていた。

 

 

 

自分の欲を諦めずに取りに行く事を繰り返してから

欲しいものを我慢せず、買い続けてみたり

やりたいけどできないことをやってみたりを繰り返して

そうやって我慢をやめてみてから

私はやっと自分を受け入れ始めた経緯があった。

 

 

ただし、欲しいものを取りに行くと、必ず嫌な感情も付きまとった。

 

欲しいものを買えば、お金は無くなるし

それはハラハラするし

誰かに打ち明けなければならないというハードルがあったり

やりたいことをやるのも、勇気や緊張が伴った。

 

欲を許す時、セットになるのは

そうゆう揺さぶりだった。

 

欲から始めた、お金を稼ぐというのは特に

揺さぶり祭りだった。

しかもその揺さぶりが半端なくでかかった。

 

今までは我慢が当たり前の生活の逆をやるのだから

未知の領域だった。

恐れがつきものなのも当然だった。

 

恐れについて

目を開けても何も見えないくらいの暗い空間は足を一歩踏み出すのも怖いという経験をした時に

恐怖はそうゆうものなのだと思った。

 

そして過去の痛みから守ろうとする為に

恐怖して守るのだから。

やっぱり恐怖は機能だった。

 

 

恐怖や苦しみまみれの自分が珍しく安定の時間を過ごせていた時があった。

あんなに苦しんできたのに、それが続けばいいとは思わず

もしこのままこの時間が続けば

心が緩やかに死ぬだろうという別の恐怖を体験した。

 

それは然程強いものではなかったけれど

危機感を伴っていたのは覚えてる。

恐怖ではなく危機感だけだったかもれない。

 

当時の私は、お金の為に自分に出来る仕事をして

自分がしたいことは休みの範囲でたまにできて

余暇を好きなカフェやショッピングで終わらせて

身が入らない仕事がスタートしていくという毎日が続くことに

疑問というか心の空虚を見た。

 

今思えば、とても贅沢なのかもしれない。

 

 

「ただ生きることは、こんなにもかけがえのないことなのに」

 

 

その時は何も残せない自分も、普通の自分も、許せなかった。

稼げないことも、自立できないと思っていることも、できないことがダメというのも…もっと色々あるけど

とにかくそのままの自分に許可などできなかった。

 

 

特別でいたかった。誰かより勝りたかった。

 

そう思っていた事をひた隠しにしながら、

そのままでは劣っているからダメという自分を元にしてるから

誰かより上であることや勝ちの発想しかなかった。

 

今のこんな私ではいけないから、変わりたいという欲が

私を安定ではない方に向かわせた。

 

でもそれは茨の道だった。

 

その欲が

誰かや何かよりも上でなければいけないからだった。

 

 

お金を稼げないのは、続けられないから。

お金がついてこないにせよ

ただ続けられない理由は

誰かとの比較や他人の目や偏見に自分が晒されていて

それに耐えられなかったから。

 

私が自分の欲を取りに行く過程で出た揺さぶりは

お金を稼ぐことが「卑しい」人のすることだという認識を持っていたり

自分の好きなものを自分優先で買うというのが

「わがまま」であったり「欲張り」であったり

「傲慢」であったりを自分に感じて

しかも稼げないとなれば、惨めさが出て

そんな自分になることが耐えられなかった。

 

sale会場で見る早い者勝ちで1つのものを奪い合う姿や

1つしかない物を分けることなく自分のものにする独り善がりや

そうすることを禁じられて子供心に傷付いた過去から

欲深さは悪になってしまった。

 

そして、お金と物に見る人間の欲深さに
自分だけは違うと言いたかった。

 

 

一体自分はどっちでいたいのだろう?

 

自分が人よりも美しい心を持ってると良い人主張したいのか?

 

それとも

 

1番最初に書いた、学んだ事を今度は誰かに提供する側になって

何やってるかわからないけど、稼いでるみたいになりたいのか?

 

もっと突っ込むと、そのやりたい事の裏にどんな想いでそうしたいのか?

 

その機会を通じて自分は何を感じたいのか?

 

最初はお金を稼ぐ事を好奇心や流れでそうし始めたと書いたけれど

 

でも、どうしてそれを選んだのかといえば

苦しんだ過去をずっとやってきたからで

 

その苦しむ時間は短い方がいいからだし、

みんなで幸せになればいいのは決まってるからだった。

 

生きやすい方がいいし、その方がスムーズだし

楽しいからだった。

 

苦しみを知っているから

まだそうしてるなら、そんな必要はもうないと言いたかったからだった。

 

そうゆう想いを伝えたい方が良い人をやるよりも優っていた。

それは情熱に近い。

 

それに気付いた時

誰にも見つけられなくても

誰かよりも劣っていようが、優ってなかろうが

ただ続ける選択ができた。

 

言い換えればそれが覚悟って言えるかもしれない。

 

欲しいものをがむしゃらに取りに行く姿に醜さを感じて

遠巻きにそのがむしゃらな人を見下していたのも

優越感からだった。

 

お金を稼ぐことに躍起になる人を

頑張ってる人を

見下してた。

 

自分ががむしゃらに取りにいけないのは

自分が「卑しい」「わがまま」「欲張り」
「傲慢」を嫌うからだった。

 

でも、それを嫌う時点で

自分にそれがあるのを認めてないだけだった。

 

あの人を見て、あんな人ダサいだとか、醜いだとか判断する時点で

自分にもそれがあるって事だった。

 

あの人を見て、違和感。

この人を見て、嫌悪。

 

そうゆう時点で自分にもそれがあって、それがある事を強烈に批判してるから出る「違和感」や「嫌悪」

 

そうゆう気持ちが出る事が実は自己否定からだった。

 

自己否定だって気付き難い、自己否定。

 

だってそれ認めたら、自分の醜さを認めることになるから気付かない。

そうゆう醜さがただあった。

それがありのままの自分だった。

 

 

自分のやりたい思いや欲求には

自分の心からの内側の欲求

自分の外側を守ろうとする欲求とがあって

 

心からの欲求を優先するなら

外側を守る欲求は諦めなくてはいけなくて

 

外側を守る欲求を優先するなら

心からの欲求は諦めなくてはいけなくなる。

 

どっちが良いとか悪いとかではなくて

どうしたいか?ってことなんだと思う。

 

 

頑張らなくていいってよく聞くけど

それが心からの欲求なら頑張れよだった。

 

 

それで今の自分が稼げるようになったからこうして書いてるわけじゃないし

 

ただ以前と違うのは、稼ぐことへの執着がだいぶ落ちているというのは言っていい気がしていて

 

それは稼ぐ事やお金の有無が、自分の存在と何ら関係ないからで

 

「ただ生きることは、こんなにもかけがえのないことなのに」

 

という生きているこの命への尊さのようなものを感じてきてるから。

 

今までならきっと稼げてないのに結果も出てないのに

こうゆう事を書くのが怖かった。

でもそれは結果を残せることが重要で価値があり

そう出来る自分が重要で価値があると思ってきたからだった。

 

だからそんなことができないのに書いてるなら

意味がないと思っていた。

 

でも、今の私にとってはそこが一番ではなかった。

それよりも

存在の方が重要だったことに気付いたから。

 

息ができること、見えること、聴こえること、味わえること、動かせること、良いことも悪いことも感じられるということ、作り出せること、生み出せること…

 

あげればきりがない。

 

それが可能なのはこの地球の上だからで、この地球が見せてくれているもの。

 

 

今生きているという事は同時に与えられてるという事。

 

 

どの選択をとっても間違いではなかった。

 

苦しまないように、傷付かないようにする選択は繰り返してきたから

今度は苦しんだとしても楽しみたい、傷付いたとしても喜びたい。

 

その為に、どんな風にどんなことでそうしたいのか?

どんな自分がいいのか?

 

例えば、会いたい人に会いに行く為にお金を使いたい今があって

それは自分もそうなりたいからで。

 

最近そうゆう欲にお金を使ってる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘘や隠し事がなぜ許せないんだろう

嘘を付かれることも、隠し事をされることも

いつからそれが悪いことになってしまったんだろう。

 

嘘や隠し事がいけないと

教えてこられたからかもしれないけど

 

本当にそれだけなんだろうか?

 

本当はそうされて悲しんでる自分がいるからじゃないか。

その人から愛されてないと思うからじゃないか。

 

そして誰よりも愛されたいと欲張ってるからじゃないか?

 

自分が特別に愛されていたい、必要とされたい

自分が1番にそうされたい。

 

エゴの声。

 

相手が私にすることで悲しくなる理由は

そうゆうエゴからだと思った。

 

相手のすることに自分がどんな反応をしてしまうのかばかりに目がいく。

ショックを受けたり、隠し事なんて良くないと怒ってみたり…

 

本当は隠さなければならない相手の事情の方を優先すればいいだけだった。

だって私はそうする必要がないのだから

何も問題がないわけで。

 

 

私ができることは、その時に出たショックや怒りの裏の隠れた悲しみを

ちゃんと見て癒すくらい。

 

相手にされたことばかりに気を取られて

自分に出てるものを見過ごしてしまう。

いつも、そう。

 

 

 

1番になることを目指そうとすればするほど苦しくなる。

 

愛されてることにまで順番を付けたら

一生勝てないだろう。

 

自分が1番にそれをしないから

いつまでも外側に目がいく。

 

生きてるだけで丸儲けだとか、愛されてるって言葉に

ずっと違和感があって

 

だって、

そのままで誰が愛してくれるっていうんだよっていう

スネやイジケで嘆く自分しかいなかった。

 

そうやっていつまでも見なかった。

誰とも戦わないのに1番怖い感じがするから逃げ続けてるような気がした。

 

 

愛さないという約束はいつから始まってしまったんだろう。

 

本当は誰よりも大切にできるはずなのに。

 

 

でも今はもしかしたらこの経験全てが尊いのかもしれないとまで

思えるようになった。

 

 

例え何もできなくても、してなくても、何を感じても、動けなくても、何も残せなくても、誰からも愛されなくても…

 

ここで今感じていることの全てが

ワタシという場所から生まれたカタチで

それは感情や想いや思考の目には見えないものまでを含んだカタチあるものなんだろう。

 

だから、そこから大切にすることが始まり。

 

自分だけが知ってるその見えないカタチ全てを

ありにすること。

それが醜かろうが黒かろうがどうしたって全部見えてしまうから

そっちに嘘を付かないように。

隠したくなるけど。

 

それが唯一ワタシにできること。

 

 

 

 

 

不幸せな母ではなく、私より全然幸せな母だった話し

実家に帰って

両親と久々にゆっくり食事をしました。

 

私は家族といる時に

こんなにリラックスしたことがなかった

というのを

この場に来て初めて知りました。

 

多分、小さい頃から母や父の顔色をずっと伺っていたからだし

だから家族という場所に安心ができなかったのだと思います。

ずっと家族を信じることができなかったんだなと、改めて思います。

 

家族から何か酷いことをされた訳でもなく…と言える今、

それは過去の捉え方が全く変わった証拠のようです。

(実際何もされてないし、愛されてしかきてませんでしたが)

 

自分がずっと家族のせいにしていた、ということに気付けたのは大きいし

自分がずっと家族をジャッジしていた、ということに気付けたのも大きいです。

 

家族のせいで私は不幸だと言ってた自分に気付いたきっかけは

お金からでした。

 

そこから、いつも根底にあった

「あんな人達にはなりたくない」という思いを抱えていた事に気付いたのでした。

 

両親を尊敬できないってどこか悲しいと知りながらも

心はそう思えないのだから仕方ないと諦めていたのですが

 

 

全部、自分でしてる事でした。

 

 

離れた場所で自分にそうゆう心の変化があってから

再び家族と会った時に

初めてぽそっと「幸せだな」と言えました。

やっと言えたというのが、本当だと思います。

 

 

 

帰る日の朝に家族で喫茶店のモーニングをしに行きました。

 

私の横でスポーツ紙を広げる父は

母と娘の会話なんて、聞いているのかどうか今でも謎ですが

 

私が1番生きるのを放棄していた頃の話しを母と話していました。

 

私は外で倒れていたらしいのですが

その辺は記憶になく

その後、どなたかが私を見つけてくれたらしいのですが

 

人が倒れているのを発見して

その後、その人物と関わろうとする人っているのかしら?

というのが私の率直な感想でした。

人気のない場所で人が倒れてるなんて、悪い連想をするにはうってつけなのに。

 

だから、私を助けてくれた人は未だどなたかは分かりませんが

私にはそれは当然だと思ってきました。

 

母いわく、警察に提出された名前も連絡先も架空のものだったようです。

 

ここからは母から見た世界の話しなのですが

お礼などを用意していた母にとって

相手が連絡先を残していなかったのは拍子抜けしたそうです。

 

でも、そのことが母にとってはとても感謝というか、思いやりを感じてきたそうです。

 

私を見つけたあの人もきっと誰かの親で

自分の子供を想うときの親心から、自分の身元を明かさなかったのでは?と

今も思ってきている事を話してくれました。

 

私を助けた誰かは

母にとっては「感謝と思いやりの人」で

私にとっては「人と関わりたくない恐れの人」として

それぞれの中に存在していました。

 

私、助けてもらっておいて

未だにそんな風に人を判断していたことに

もうどうしようもなさを感じたし

これが私の前提なんだと思いました。

 

「人との関わりを避けようとする恐れる人たちばかりの世界」

 

この違いを知った時に

母は私よりも全然幸せを生きてる人だったし

母を見ながらなんとなく

幸せを生きることを頭で考えることが

虚しく映るというか

母はコントロールしてない人だったから。

 

でもそんなどうしようもない自分を知っても

そのどうしようもなさをどうにかすることではなくて

その自分で自分の好きなことしようと思う今があります。

 

全ておかげさまとしか言えない今しかなかった。

人を信じられず疑いで生きていたとしても。

 

そうやってこんな私でも生かされてて

だから生きてていいんだって

思えた出来事でした。

 

でも正直いうと、これを書いてから

もやもやし出してるんですけどね。

 

自分と母との関係。

 

私から見たこの世界のお話し。

 

生きている限り多分グレーなものは出続けるけれど

 

今が円満であるなら

過去とかは、懐かしむおつまみくらい

本当にもういいのだとも思うから。

 

 

 

 

 

 

 

 

劣等感と優越感の「私」

ずっと自分が劣等感と優越感の狭間を行ったり来たりしています。

 

だから正直いたたまれないし、傷付きやすさが出てきたりしていて

感情が安定しないので正直疲れます。

 

人よりも上であると感じる瞬間と

下であると感じる瞬間を

こんな所にも持ち込んでいたのかと

友人を前にして思いました。

 

友人であっても対等な関係を築けない不甲斐なさは

劣等感と優越感という言葉を当てはめたら納得できました。

 

心の痛みだけをずっと自覚してきましたが

なぜそんな風に痛みが出るのかはずっと分からないままでした。

 

相手の琴線に触れないように接するのは

その相手の反応に確実に傷つく自分がいると分かっているからでした。

だからどこかオープンになり切れず

緊張がそこにありました。

 

案の定、傷付きながら

でも今回はそんな自分をめいいっぱい感じています。

 

全然変わってなかった。

何も変わらない。

成長なんてどこにもなかった。

そして、強くなれたと思い込んでいたものも

結局は崩壊しました。

 

でもそれが壊れるのはどこかで分かっているから

会うのがとても怖かった。

 

過去の不安定な自分、

自己否定や優越感や劣等感が顔を出し始めて

まだそれをこうして言葉にもできなかった頃に出会ってる人達。

 

自分としてそれがあると認められないのだなと

思いました。

 

彼女らを前にすると苦しくなるのは

 

私が憧れから

付き合い出してるからというのが

今回よく分かりました。

 

私のありのままを認めてくれてる友人とは別に

私は彼女達のセンスや見た目やファッションに惹かれたのだなと思いました。

 

対等な付き合いができなかったのも今更の自覚で

当時はどこかに付き合いづらさを隠していたので

心だけが痛んでそのシグナルを発してました。

 

その裏に劣等感と優越感があったなんて

とてもじゃないけど認められなかった。

 

 

今回そのことがわかって、打ちのめされた感じがします。

全く弱かった。

でもその弱さのままの私でいることにしました。

 

傷付くし、劣等感も優越感も満載の自分。

 

当時の色んなものを隠しながらの私とも一緒にいてくれたことを思いながら

その中で、今も変わらなかったことがあって

憧れだけの繋がりだけじゃなかったことも

思い出せました。

 

私に面白いものを教えてくれた彼女達と

好きなことで繋がれてることでした。

 

だからちゃんと声に出した。

 

「あなたと、こうしている時間がとても好きだ」と

 

なんだか、それだけでもう十分でした。

 

 

 

もう不安の自分に安心しよう

もう不安の自分に安心しよう

 

ずっとこうして置き去りにすることが出来なかった

 

捨ててしまいたかった

 

問題を解決して
原因を探して
見つけて
スッキリして

 

 

 

成長したつもり

 

立派な大人になったつもり

 

人よりも優れているつもり

 

そして劣っている自分の姿が

正しい私のポジションだと

そこを目指して帰ろうとする

 

こうやって文章にすると

なんだか拗ねてるみたいだ

 

そして目の前の出来事に
いつも文句しか言ってこなかったよ

 

ごめんね

 

出来る限り、少しずつ
今を見ようとする

 

明日でも昨日でもなく

 

どんな相手にどんな出来事に
どんな風に響くのか靡くのか

いつも見届けていられるようにするから

 

 

 

「自分を大切にする」から始めよう

 

それは心(見えないこと)を

表して(見えること)行くこと

 

なんだね

 

 

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