不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

大人になりなさいと言われるのはなぜなんだろう?

 

「大人になりなさい」とか

「素直になりなさい」とかを

たまに言われたりする。

 

そのたんびにムッとしてきていたけれど

 

それをなぜ言われるのかや

相手が私についてのどんなポイントで

そう言いたくなるのかがよく分からなかった。

 


私は今まで自己探求ばかりに時間を使ってきた。

 


自分について

悩みや自分のココはなおしたい

みたいな場所を虫眼鏡で見ているような感じかもしれない。

 

でも、ムッとしてる事については

自分では見えなかったし

それは見たくはなかった

という方が正しいかもしれない。

 

 

最近は自己探求を繰り返して自分を分かった所で

それはあまり意味がないような気がしたし

 

追求したり、探したり、直そうと努力したりして

私がよく見て知ってるその自分は

治らないし、治す必要もない気がしてきた。

 


とは言っても、人よりも知っていたいとか

知ることが自分を救うと思ってきたから

そうした行動を今までずっと取ってきただけだけど。

 


でもこの頃自分がやってきた事が

まるで意味がなさすぎて

なんだったんだろうと

拍子抜けする機会ばかりだ。

 

 

それでタイトルの話しだけど

 

私は自分の非を認めたくない(謝れない)とか

変に負けず嫌いだとかがあるのだけど

そうゆう自分をどうやら隠しておきたかったらしい。

 

人の指摘や注意に

腹の中で強烈な怒りや不満を感じているのに

それを隠すために弱くなって

指摘するそっちが悪い

みたいなことをやっていた。

 

自分の正しさを守りたくて、負けたくなくて

その為に弱くなって

自分の思ってることも口にしないで

口にする側をまるで悪にする。

 

 

ずっと弱い自分や怯えたり恐れたりする自分をどうにかしたくて

そんな自分ばかりが目についていたのに

 

そうなってしまうわけじゃなくて

自らそうしていた。

 

しかも

自分の負けや非を認めるのが嫌だから

 

最初から負けるとか弱いとかをやって

腹の中で密かにムカついてるっていう…。

 

 


両親がいつも私に勝ち負けの表現を使って

私を勇気付けようとする。

自分に負けるな、勝てと。


それで、毎度毎度そうじゃないと

跳ね除けようとしてたけど


それに拘ってるのが

私の方だから

 

1番近い人たちが

わざわざそうゆう表現を使うのかもしれないと

ふと、思ったりした。

 

 

 

正しさという鎧を着て

 

最近私は

自分が見下しているものになっている。

だから、それをするのは本当に避けたかった。

でも、自分が達成したい事の為に

それを選ぶのも一つの勇気だった。

 


私が鬱っぽく、いつも死ぬ事ばかりを考えていた頃

倉庫のバイトをしていたことがあった。

 

その仕事は奴隷のように見えていた。

そこで働く人間の心は

私と同じように弱く、そして死んでいて、希望がないと

周りの人様を勝手に不幸せな色眼鏡で見ていた。

 


最近その仕事をたまにしている。

(それが見下すものになっているという事だけど)

でもそこで働く人たちは間違いなくタフだった。

 

一言で言えばそれだった。

全く弱くはなかった。むしろ尊敬だった。

 

 


仕事はお金の事に繋がる。

 

稼げる人とそうではない人と

お金のある人とない人と

自分はどんな仕事をしているかと

どんな仕事ができるのかと

能力の有無

そんな風に

劣等感と優越感のシーソーにお金はよく使われる。

自分が人を判断してるその時

自分が正しさの塊であることに気付いてない。

 


自分が作った優劣の中で

自分そのものはいつも劣等感で

底の方に沈んだ人間のようなセルフイメージだった。

 

劣等感を持っているなら

すでに優越感もどこかに持っている。

 

でも劣等感だけを強く見てたり問題にしてる人は

自分の優越感は隠しておきたいと思っていたりする。


可哀想でいるその立場と良い人でいるというのは

どこか似てる。

 

 

最近

不満や文句や愚痴や不機嫌や怒りなんかのネガティブな腹の底を

まんま浴びせられて

それに私が強烈に怯える事件のようなことが続いていた。

  

そうされることに私は猛烈に恐怖したけれど

同時に怒りもあった。

 

でもそれは相手が悪いという正しさからの怒りだった。

 

怒りこそ悪で、

「それを人に向けるなんて悪い」

だった。

 

自己主張も同じ類のものになってしまっていて

いつの間にか人に自分の本音を伝えなくなった代わりに

説明する事ばかりが上手くなっていった。

だから私は無駄に話が長かった。

 


私の中で怒りも自己主張も

「人を傷付ける」という位置づけだった。

 

でも実は、

「人からされると自分が傷付く」

というのが先に自分の中にあるからそれだった。

 

自分が傷付くのが本当は怖いのに

人を傷付けるというのを大義名分として使っていて

それはどこか美化されている。

弱い私こそ正しい。

 


いつも不満を言わず我慢してる私の方が正しく、

相手は悪くなっていた。

 


ずっと弱いという立場にいたことで気付かなかったけれど

私は自分の正しさを言葉として伝えない代わりに

弱者で怯えるという態度を相手に示すことで

自分の正しさを誇示してきていたんだと。

 

 
そんな風に見えた時に

人当たりの良さや優しさや気遣いを

本音を隠すのに使っているのも

結構怖いと

初めて感じた。

 

 

そしてあれらの事件は

弱いさを利用してる強さを教えるために

私の所にやってきた強烈な自己主張達だったと

今は思う。

 

 

 

責任という言葉について

 

最近、責任という言葉が気になってしょうがなかった。

 

以前お世話になってた人からは

責任をこんな風に伝えられたことがあった。

 

「責任があるとすれば、それは自分を幸せにすることだけだよ」と。

 

言われた時は、それはそうなんだろうけど、

と思った。

なぜかそう思っていた。

でも、同時にできないとも思った。

 

そして、責任という言葉がずっと

空恐ろしくてしょうがなかった。

 

だからその言葉を前にすると、

とても小さい自分しかいなかった。

 

dictionary.goo.ne.jp

 

 

 

 

 

責任 - Wikipedia

 

 

 

 

 

 

責任を取るということが

何か悪いことを引き受けて、責められることのように思っていて

周りから袋叩きにでもされるような

そんな怖さを持っていた。

 

責任はいつも他人の目とセットだった。

 

 

周りに見せる姿勢のように感じていたから

自分の中の言葉というより、

自分から他者向けの外にある言葉のように感じていた。

 

そこに出来るだけ触れないように生きていたように思う。

 

目的を達成したいなら嫌なことはやらないといけない

という話しは聞いていたけれど

 

私はいつもそこを避けていた。

 

そこを避けているの「そこ」に責任はある気がしていた。

 


最後までやり遂げられない理由はいつも

自分の感情やメンタルのせいだと思っていたけれど

 

そうやって自分はダメだ、どうせ無理、と自分自身が責めていて

 

弱い自分であるということを

例えば収入や

どんな仕事をしてるかや

能力の有無や

社会の仕組みや

 

そうゆう所をフルに使って

 

自分のダメぶり弱さぶりを

周りに証明するために

自ら選んでやっていたように思う。

 

 

私はこんなにも弱いから

だから安心してください。

 

私はこんなにもダメなんで

あなたには危害を加えません。

 

私はこんなにもデリケートなんで

もっと優しく扱ってください。

 

 

自分が自分にしてることにはメリットがあって

そのメリットが欲しいために

自分で自分のパワーを奪ってることに気付けなかった。

 


出来上がった弱さというアイデンティティ

過去の出来事でショックを受けた時に

自分を守る為に新しく作った盾のようなものだった。

 


強さは誰かを傷つける

この私のままでいると危険だという経験が

私から強さを隠した。

 


きっとあの時から、

私は自分でいることを手放して

何かに従うように生きてきたから

 

その代償としての生きづらさがずっとあった。

 

 

苦しみはそうゆう私自身からの訴えだった。

 

 

どんな出来事が起きても

どんな状況に陥っても

自分との約束を例え果たせなくても

 

そうゆう時にこそ使う言葉が

責任なのだと思うようになった。

 

 

私はこの私自身をより良く生かし続けるという責任があるという

誰かに見せる為ではなく

自分の中の言葉になりつつある今だったりする。

 

 

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BdGnxiSFE-T/

 

 

 

 

言葉が世界を作るなら、どんな言葉を自分に向けるだろう

言葉が世界を作るという。

 

それが本当かどうなのか、

それはその言葉に自分の心がどう反応しているかに依る。

 

その言葉を聞いて、見て、耳にして

〝私〟がどんな反応をしているのか?

 

そんな訳ないのか

嘘っぽいのか

その通りなのか

 

それともそんな言葉にもできないほど

心の奥で何かが動くのか

 

どれもこれもそう思ったが正解。

言葉への思いの強さが行動に影響する。

 

信じられないなら

信じられないという強さが。

 


そして不信のきっかけは保身から。

 


責任や覚悟や強さという言葉の前に尻込みするのは

そうなってしまうことを引き受けてしまうと

色々都合が悪いから。

 


私は弱さを必要以上にアピールしている。

 

自分が弱いとイメージしているものを転々と…

 

収入、職業、思考、振る舞いetc...

 

私には力がないといわれそうなアイテムを選んで着ている感じが

最近ますます強くなるのは

その着せ替えをひっきりなしでやっているからかもしれない。

 

一生懸命に「私はそれです。」と

そこにしがみついてる感じに見えるのは

普段自分が取らないであろう行動に踏み切っているから。

 

貴方を傷つけない安心という良い人の着ぐるみを着て

私は弱いんです。だから安心してください。と

誰と分からずに向け続ける無言のアピールの割に

 

それ弱かったら出来なくないか?

と思う行動しかしてきてないように思えてきた。

 

自分でも笑えるのだけど、我ながらよくやると思うことしか

してきてないと思った。

 


例えば弱いという在り方のためにしてる仕事も精神状態も生活も

 

強くなければ出来ないんじゃないか?と思ったりした。

 

強かという漢字は

「強」と書くけれど

 

見せかけの弱さという決まった在り方を継続するのも弱ければ

維持も難しいだろうと。

 


そう思ったのはさっき本屋でWIREDを立ち読みしたから。

 


「強さを引き受ける」

 


という言葉に強く惹かれた理由なんて

言葉に出来ない。

 

それで"WIRED"の特集はアイデンティティだった。

 

 

wired.jp

人と関わることを最初から諦めていたのは私の方だった話。

 

今、

ある事情で(自分がそうしたくて)

長野と東京を行ったり来たりしている。

 

仕事も上手く見つけられない見切り発車のまま

収入の目処も立たず

一見そんな面倒なことをわざわざ選んだものの

 

やっぱりお金もそこが尽きて来て

少々怖い想いが出てくる今日この頃。

 

でもそんな緊張感漂いながら

 

わざわざ面倒なことや自分を追い詰めることをした先に

気が付いたことが一つ。

 


それは父との関係であったり

お金との関係で自分がしてる姿勢であったりが

ぼちぼち見え始めている。

 

それは、わざわざすることを選んだ先の

私が明確に言える成果だった。

 

タイトルの通り

私が対人において感じていることは

人との関係性を最初から諦めをスタートにしていたことに気付いたこと。

 

それは関わる中で

自分は人と理解し合えないとか

分かってもらえないとか

それらは、根っこに「どうせ愛されない」という諦めを持って

人と接して来ている在り方が

見えないながらどこか自分の中にあるからだった。

 

だからその代償としての寂しさも薄々感じてはいた。

 

「どうせ」

という口癖が止まないのは

自分の中に大きな諦めがあるから止まないわけで

 

この世の中は全て「どうせ」という

私のかける色眼鏡から見られていて

 

自分のことにしろ

友人にしろ

仕事にしろ

好きなことにしろ

お金にしろ

そして、両親のことにしろ

 


そのほぼ全てにおいて

諦め感というのが漂っていた。

 

でもこれは、大半の人が持つ感覚だと思ってる。

 

それは、危険なことを冒してまで

人は何かをしようとはしないからだし

それは推奨されない共通の感覚をどこかで察知してるから。

 

そんな無謀なことは、危ないから止めろと

自分に近い人ほど

その想いに同調はしてくれなかったりする。

 

心配される愛もあるけれど

 

安心の中は

既に経験済みの世界で

自分ができること、知ってること。

 


その安心を続ける限りは、一生変化は得られない

ということが

最近ようやく分かってきた。

 


それで、

その緊張感を感じつつも

私が感じてきた諦めについて

 

友人とシェアする機会があった。

 

私は愛されたいと思ったり

自分にある抑圧を表現してる相手に出会う時

いちいち恐怖する癖を持っている。

 

友人に持つ憧れは

自分が欲しい在り方の一つだから羨ましいのだ。

 

するとその憧れを前に

私は劣等感を露わにする。

 

その在り方の始まりは

父との関係が最初で

 

私は父から1番に愛されたい

という想いがあったことに気付いた。

 

1番にというのは

1番ではない何かがあったからで

 

それは自分の家が宗教の家だったから

ということがわかった。

 


どうやら私は愛情を言葉にしない

恥ずかしがり屋の父の愛を勘違いして

 

私は信仰と自分を天秤にかけたのが

諦めの最初だった。

 

愛されたいという枯渇があれば

そんなことまで理由にしてしまうんだなと

途方も無い感じがしたけれど

 

それはもう仕方ない。

やってきてしまったことだから。

 


それでも対人や父の前で出る恐怖や

今まで自分がやってきたことを

怖いけど相手に伝えた時に

 

始めて、自分が自分にやってきてることが見えて

 

それが

「恐怖や緊張ゆえに人と関われない」という自分のせいであることや

「どうせ理解し合えない、愛されない、喜び合うことはない」という

諦めの姿勢そのものだった。

 

 

恐怖や緊張を理由に

どうせ愛されないことを理由に

 

私が関わりを止めたのだ。

 

自分の方こそ、その理由があった。

 

自分のせいで、感情のせいで、宗教のせいで…

 

何かの要因のせいにして

関われないのではなくて

関わらないように

私がそうした。

 


全て自分がそうしてる。

 


その事実に人は気が付かない。

 

自分を知らないまま

打算と諦めを繰り返して

 

不平と文句もそれは仕方の無いことと

そこも諦め

 

自分はこの位だと諦め

どうせと皮肉り

 


そうゆう当たり前を自分に許して生きている。

 


私は決して上手くは生きられない。

 

でも、今の私にできる可能性はどこまでかを

最近は試してるんだとは思う。

 

 

そうそう、成果としては

いつも父との会話が正しさや論破するされるの

勝ち負けでなされていて

その会話になるのこそ、宗教のせいだと嘆いて

どうせ私の言うことなんて

心に届かないと諦めていたのだけど

そうゆうことも父に全部明かして

 

そうしたら、メールの不慣れな父から

 

「あまり難しく考えるな、

楽しみながら生きていく事がだいじ」

 

という返信が来て、私は号泣する羽目になった。

 

ただこのやり取りが欲しかっただけなのに

それを諦めて

何十年も争い続けてた時間の大きさといったら…。

 

たくさんの時間とお金をかけて

私はこんなに大袈裟にしないと出来ないほど、

ほんのちょっとの勇気も出せなくなって

 

それが諦めることに慣れてそれに気が付かない状態のこと

なんだろうと思った。

 

映画のマトリックスで言えば

あのカプセルの中でずっと眠ってる状態。

 

 

 

 

 

 

 

自分の当たり前に気付くことの大きさ

 

初めての方はこちらからどうぞ。

 

haruradio.hatenablog.com

 

 

〝ちっちゃいからな。

そこが最大にかわいいけどね。

ちっちゃいけどタフだし、健康〟

 


自分の長所をこんなにも分かってくれる友人が

私の近くに今もずっといてくれることが

ありがたい。

 

自分で当たり前すぎて認められてなかった所。

 

むしろ酷使してる自分を責めてたりして…。

 

でもね、

今はそうじゃない。

 

 

だって、使えることがありがたいでしょ。

 

この体でなければ、

多分色んなことが無理なのかもしれない。

 

 

この身体をだいぶ労って来てないけれど

だいぶ嫌ってきたけれど

 

それ用の体だった気がする。

それくらいぴったりに出来てた。

 

 

それでも

使わせてもらいます。の方を選ぶんだと思う。

 

癒すことはとても大切だけど

今は癒すことじゃなくて

使うこと。

 

めいいっぱい使わせてもらって

 

疲れたら

また考える。

 

食べ物のことも

何を取り入れるかを考えられる程のお金も時間も

あまりない。

 

だから、なんでも食べられるその時に

食べられることに感謝する。

 


「どうしよう」と考えるのをやめて

「どうしたい」と問いかける。

 


その答えを行動をしていく。

 

 

信頼について

 

はじめに、

私はブログを2つ持ってる。

 

1つは夢ノートとかアクセサリーとかで

人と繋がる用

ameblo.jp

 

 

そしてここhatenaは自分用。

 

その都度気分で書き方も変えてたり、

オフレコといった感じかもしれないし

人に見せる用の為の下書きかもしれない。

 

だから人にわかるように書こうとしない。

 

精神世界や神やスピリチュアルの見えない方とか

かと言って何かが見えるわけでもないし

ただ、見えないものを信じてる1人なだけ。

 

 

先日、友人と話しをしていた時の感覚を忘れないように

まだそれを言葉にできる程の理解はないけど

備忘録として。

 

込み上げるあの瞬間を忘れないように。

 

 

目に見えないこと、心のことについて

当たり前にそれを話せる友人がいることがありがたい。

 

その時に話していたことは

頭の声と感情、さらにその奥の目

そして愛することについて。


愛することはやっぱり

どこまでも「すること」なんだと

そんな所まで出来ないなんて言い訳もなく

「すること」

 

それは母親の無償の愛と同じ感じがする。

 

自分の身を献上する勢いで「すること」

 

そこに打算の余地もなく、当然に。

でもそれは、手助けするような

なにか加えることではなかった。

 

優しくするのは手を出すこと。

でもそうゆう「する」ではなかった。

 

ただ信じて、見守ることを

「する」だった。

 

どんな事でも例外なく見守る。

どんなあなたであっても決して離れないという毅然さ。

でも、手は貸さない。


それとは逆に

頭の声というのはだいたいロクなことを言わない。

私はそれに飲み込まれている当たり前に慣れ過ぎて

疑うことも出来ない。その声に気付きもしない。

 

でも頭の声に反応して感情が始まる。

そして絡まるそれに苦労してる。

私が分かるのは、その事。

感情に振り回されている、ということは分かってる。

 

私が私を見張り、正そうと手を出し

見守るのではなく、でしゃばり

この自分という存在や能力を小さく見積もり

お前はそれだと言い聞かせ、誘導し

希望を削ぐ。

 

具体的なことを一つ。


私が見知らぬ誰かを見て、批判を始めた時のこと。

私の頭の声はその人のその行為を

〝はしたない〟と呼んだり〝そうすべきではない〟と呼ぶ。

 

例えばそれは、詰め放題の場面だった。

例えばそれは、セールでワゴン内を漁る姿や取り合う姿だった。

例えばそれは、不機嫌に横柄な態度で座る姿だった。


そしてそれらにNOという頭の声が同時発生する。

頭は忙しい。

 

目に映るその場面に自ら反応し

その声を自ら制圧しようとする。

 

でも反応は止められない。

〝はしたない〟と咄嗟に出たのだから。

 

出てくるのは私の中にもそれがあるから。

〝はしたない自分〟〝不機嫌な自分〟

でも頭の声はそれを表に出すのを許さない。

悪いものは排除、退治、そして我慢。

 

反応するのは自分にも同じものがあって

でもそれを悪や敵と見なして

放っておかないから。

 
放って置かない衝動に巻き込まれて

戦ってる。

感情が出るのはそうゆう合図。

 

でもその奥にそれを見守ろうとする目があること。

 

どんな私でも手出しせず、ひたすら見守ろうとする目。

どんな私でも無条件に。

 

そのどんなものも無条件に見守るという信頼は

愛以外に思えなくて

泣きそうになった。

 

頭の声と感情のもっと奥にある

どんなものも見守る目のこと。

 

それは愛以外の何者でもないと思った

日常の中で起こった出来事。