不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

言葉が世界を作るなら、どんな言葉を自分に向けるだろう

言葉が世界を作るという。

 

それが本当かどうなのか、

それはその言葉に自分の心がどう反応しているかに依る。

 

その言葉を聞いて、見て、耳にして

〝私〟がどんな反応をしているのか?

 

そんな訳ないのか

嘘っぽいのか

その通りなのか

 

それともそんな言葉にもできないほど

心の奥で何かが動くのか

 

どれもこれもそう思ったが正解。

言葉への思いの強さが行動に影響する。

 

信じられないなら

信じられないという強さが。

 


そして不信のきっかけは保身から。

 


責任や覚悟や強さという言葉の前に尻込みするのは

そうなってしまうことを引き受けてしまうと

色々都合が悪いから。

 


私は弱さを必要以上にアピールしている。

 

自分が弱いとイメージしているものを転々と…

 

収入、職業、思考、振る舞いetc...

 

私には力がないといわれそうなアイテムを選んで着ている感じが

最近ますます強くなるのは

その着せ替えをひっきりなしでやっているからかもしれない。

 

一生懸命に「私はそれです。」と

そこにしがみついてる感じに見えるのは

普段自分が取らないであろう行動に踏み切っているから。

 

貴方を傷つけない安心という良い人の着ぐるみを着て

私は弱いんです。だから安心してください。と

誰と分からずに向け続ける無言のアピールの割に

 

それ弱かった出来なくないか?

と思う行動しかしてきてないように思えてきた。

 

自分でも笑えるのだけど、我ながらよくやると思うことしか

してきてないと思った。

 


例えば弱いという在り方のためにしてる仕事も精神状態も生活も

 

強くなければ出来ないんじゃないか?と思ったりした。

 

強かという漢字は

「強」と書くけれど

 

見せかけの弱さという決まった在り方を継続するのも弱ければ

維持も難しいだろうと。

 


そう思ったのはさっき本屋でWIREDを立ち読みしたから。

 


「強さを引き受ける」

 


という言葉に強く惹かれた理由なんて

言葉に出来ない。

 

それで"WIRED"の特集はアイデンティティだった。

 

 

wired.jp

人と関わることを最初から諦めていたのは私の方だった話。

 

今、

ある事情で(自分がそうしたくて)

長野と東京を行ったり来たりしている。

 

仕事も上手く見つけられない見切り発車のまま

収入の目処も立たず

一見そんな面倒なことをわざわざ選んだものの

 

やっぱりお金もそこが尽きて来て

少々怖い想いが出てくる今日この頃。

 

でもそんな緊張感漂いながら

 

わざわざ面倒なことや自分を追い詰めることをした先に

気が付いたことが一つ。

 


それは父との関係であったり

お金との関係で自分がしてる姿勢であったりが

ぼちぼち見え始めている。

 

それは、わざわざすることを選んだ先の

私が明確に言える成果だった。

 

タイトルの通り

私が対人において感じていることは

人との関係性を最初から諦めをスタートにしていたことに気付いたこと。

 

それは関わる中で

自分は人と理解し合えないとか

分かってもらえないとか

それらは、根っこに「どうせ愛されない」という諦めを持って

人と接して来ている在り方が

見えないながらどこか自分の中にあるからだった。

 

だからその代償としての寂しさも薄々感じてはいた。

 

「どうせ」

という口癖が止まないのは

自分の中に大きな諦めがあるから止まないわけで

 

この世の中は全て「どうせ」という

私のかける色眼鏡から見られていて

 

自分のことにしろ

友人にしろ

仕事にしろ

好きなことにしろ

お金にしろ

そして、両親のことにしろ

 


そのほぼ全てにおいて

諦め感というのが漂っていた。

 

でもこれは、大半の人が持つ感覚だと思ってる。

 

それは、危険なことを冒してまで

人は何かをしようとはしないからだし

それは推奨されない共通の感覚をどこかで察知してるから。

 

そんな無謀なことは、危ないから止めろと

自分に近い人ほど

その想いに同調はしてくれなかったりする。

 

心配される愛もあるけれど

 

安心の中は

既に経験済みの世界で

自分ができること、知ってること。

 


その安心を続ける限りは、一生変化は得られない

ということが

最近ようやく分かってきた。

 


それで、

その緊張感を感じつつも

私が感じてきた諦めについて

 

友人とシェアする機会があった。

 

私は愛されたいと思ったり

自分にある抑圧を表現してる相手に出会う時

いちいち恐怖する癖を持っている。

 

友人に持つ憧れは

自分が欲しい在り方の一つだから羨ましいのだ。

 

するとその憧れを前に

私は劣等感を露わにする。

 

その在り方の始まりは

父との関係が最初で

 

私は父から1番に愛されたい

という想いがあったことに気付いた。

 

1番にというのは

1番ではない何かがあったからで

 

それは自分の家が宗教の家だったから

ということがわかった。

 


どうやら私は愛情を言葉にしない

恥ずかしがり屋の父の愛を勘違いして

 

私は信仰と自分を天秤にかけたのが

諦めの最初だった。

 

愛されたいという枯渇があれば

そんなことまで理由にしてしまうんだなと

途方も無い感じがしたけれど

 

それはもう仕方ない。

やってきてしまったことだから。

 


それでも対人や父の前で出る恐怖や

今まで自分がやってきたことを

怖いけど相手に伝えた時に

 

始めて、自分が自分にやってきてることが見えて

 

それが

「恐怖や緊張ゆえに人と関われない」という自分のせいであることや

「どうせ理解し合えない、愛されない、喜び合うことはない」という

諦めの姿勢そのものだった。

 

 

恐怖や緊張を理由に

どうせ愛されないことを理由に

 

私が関わりを止めたのだ。

 

自分の方こそ、その理由があった。

 

自分のせいで、感情のせいで、宗教のせいで…

 

何かの要因のせいにして

関われないのではなくて

関わらないように

私がそうした。

 


全て自分がそうしてる。

 


その事実に人は気が付かない。

 

自分を知らないまま

打算と諦めを繰り返して

 

不平と文句もそれは仕方の無いことと

そこも諦め

 

自分はこの位だと諦め

どうせと皮肉り

 


そうゆう当たり前を自分に許して生きている。

 


私は決して上手くは生きられない。

 

でも、今の私にできる可能性はどこまでかを

最近は試してるんだとは思う。

 

 

そうそう、成果としては

いつも父との会話が正しさや論破するされるの

勝ち負けでなされていて

その会話になるのこそ、宗教のせいだと嘆いて

どうせ私の言うことなんて

心に届かないと諦めていたのだけど

そうゆうことも父に全部明かして

 

そうしたら、メールの不慣れな父から

 

「あまり難しく考えるな、

楽しみながら生きていく事がだいじ」

 

という返信が来て、私は号泣する羽目になった。

 

ただこのやり取りが欲しかっただけなのに

それを諦めて

何十年も争い続けてた時間の大きさといったら…。

 

たくさんの時間とお金をかけて

私はこんなに大袈裟にしないと出来ないほど、

ほんのちょっとの勇気も出せなくなって

 

それが諦めることに慣れてそれに気が付かない状態のこと

なんだろうと思った。

 

映画のマトリックスで言えば

あのカプセルの中でずっと眠ってる状態。

 

 

 

 

 

 

 

自分の当たり前に気付くことの大きさ

 

初めての方はこちらからどうぞ。

 

haruradio.hatenablog.com

 

 

〝ちっちゃいからな。

そこが最大にかわいいけどね。

ちっちゃいけどタフだし、健康〟

 


自分の長所をこんなにも分かってくれる友人が

私の近くに今もずっといてくれることが

ありがたい。

 

自分で当たり前すぎて認められてなかった所。

 

むしろ酷使してる自分を責めてたりして…。

 

でもね、

今はそうじゃない。

 

 

だって、使えることがありがたいでしょ。

 

この体でなければ、

多分色んなことが無理なのかもしれない。

 

 

この身体をだいぶ労って来てないけれど

だいぶ嫌ってきたけれど

 

それ用の体だった気がする。

それくらいぴったりに出来てた。

 

 

それでも

使わせてもらいます。の方を選ぶんだと思う。

 

癒すことはとても大切だけど

今は癒すことじゃなくて

使うこと。

 

めいいっぱい使わせてもらって

 

疲れたら

また考える。

 

食べ物のことも

何を取り入れるかを考えられる程のお金も時間も

あまりない。

 

だから、なんでも食べられるその時に

食べられることに感謝する。

 


「どうしよう」と考えるのをやめて

「どうしたい」と問いかける。

 


その答えを行動をしていく。

 

 

信頼について

 

はじめに、

私はブログを2つ持ってる。

 

1つは夢ノートとかアクセサリーとかで

人と繋がる用

ameblo.jp

 

 

そしてここhatenaは自分用。

 

その都度気分で書き方も変えてたり、

オフレコといった感じかもしれないし

人に見せる用の為の下書きかもしれない。

 

だから人にわかるように書こうとしない。

 

精神世界や神やスピリチュアルの見えない方とか

かと言って何かが見えるわけでもないし

ただ、見えないものを信じてる1人なだけ。

 

 

先日、友人と話しをしていた時の感覚を忘れないように

まだそれを言葉にできる程の理解はないけど

備忘録として。

 

込み上げるあの瞬間を忘れないように。

 

 

目に見えないこと、心のことについて

当たり前にそれを話せる友人がいることがありがたい。

 

その時に話していたことは

頭の声と感情、さらにその奥の目

そして愛することについて。


愛することはやっぱり

どこまでも「すること」なんだと

そんな所まで出来ないなんて言い訳もなく

「すること」

 

それは母親の無償の愛と同じ感じがする。

 

自分の身を献上する勢いで「すること」

 

そこに打算の余地もなく、当然に。

でもそれは、手助けするような

なにか加えることではなかった。

 

優しくするのは手を出すこと。

でもそうゆう「する」ではなかった。

 

ただ信じて、見守ることを

「する」だった。

 

どんな事でも例外なく見守る。

どんなあなたであっても決して離れないという毅然さ。

でも、手は貸さない。


それとは逆に

頭の声というのはだいたいロクなことを言わない。

私はそれに飲み込まれている当たり前に慣れ過ぎて

疑うことも出来ない。その声に気付きもしない。

 

でも頭の声に反応して感情が始まる。

そして絡まるそれに苦労してる。

私が分かるのは、その事。

感情に振り回されている、ということは分かってる。

 

私が私を見張り、正そうと手を出し

見守るのではなく、でしゃばり

この自分という存在や能力を小さく見積もり

お前はそれだと言い聞かせ、誘導し

希望を削ぐ。

 

具体的なことを一つ。


私が見知らぬ誰かを見て、批判を始めた時のこと。

私の頭の声はその人のその行為を

〝はしたない〟と呼んだり〝そうすべきではない〟と呼ぶ。

 

例えばそれは、詰め放題の場面だった。

例えばそれは、セールでワゴン内を漁る姿や取り合う姿だった。

例えばそれは、不機嫌に横柄な態度で座る姿だった。


そしてそれらにNOという頭の声が同時発生する。

頭は忙しい。

 

目に映るその場面に自ら反応し

その声を自ら制圧しようとする。

 

でも反応は止められない。

〝はしたない〟と咄嗟に出たのだから。

 

出てくるのは私の中にもそれがあるから。

〝はしたない自分〟〝不機嫌な自分〟

でも頭の声はそれを表に出すのを許さない。

悪いものは排除、退治、そして我慢。

 

反応するのは自分にも同じものがあって

でもそれを悪や敵と見なして

放っておかないから。

 
放って置かない衝動に巻き込まれて

戦ってる。

感情が出るのはそうゆう合図。

 

でもその奥にそれを見守ろうとする目があること。

 

どんな私でも手出しせず、ひたすら見守ろうとする目。

どんな私でも無条件に。

 

そのどんなものも無条件に見守るという信頼は

愛以外に思えなくて

泣きそうになった。

 

頭の声と感情のもっと奥にある

どんなものも見守る目のこと。

 

それは愛以外の何者でもないと思った

日常の中で起こった出来事。

 

 

 

 

 

疑いかそれとも信頼か?過去を変える今というチカラ

 

私の過去は

例えば今から誰かにそれを言葉として伝えるとして

 

それは酷いものだったと今言う事も出来るし

それは愛されたものだったと今言う事も出来る。

 

起きた事実は淡々と一つだけ。

 

でも、経験した人の数だけの過去は生まれ

しかも時間によってそのカタチも変わっていく。

 

素敵な過去か、それともひどい過去かは

同じ場所、時間、人がいたとしても

同じではなかった。


過去をどう思うかは

その時の感情が関わっていて

 

気持ちの良い晴れやかさを感じたなら

それは良い過去になってみたり

それと全く反対の感情を抱いたなら

それは悪い過去になってみたり。

 


感情は手には取れないけれど

 

体はそれを表してくれる。

 

強張った表情

早くなる息

笑顔

緩む体

 

 

心に抱いたものを体は素直に正確に現して、嘘がない。

 

頭はややこしくしたり、良いと言ったり、やっぱり悪いといい直したり

隠したりする。


そうゆうものも過去の材料になる。


それともうひとつ、大切なことを。

 


そこに疑いがあるか

信頼はあるか。

 


ちなみに私はいつの時も疑いが常にある。

これはもう出てきてしまうから

それをどうにかするのはもしかしたら一生かかりそうで

だから、放って置くことにした。

 
この事はまた別に書くことにして(多分…)

 


疑いは頭で発生して後から出来たもの。

いつも周りの目を気にしている。

 

信頼は最初からそこにあって

心が知ってる。

 

 

私がある一つの経験から感じた感情は

優しさから始まり絶対の信頼を感じていたけれど、

それは常に疑いを通して見ていて

嫉妬や、物乞いのような気持ち

ひどい自己否定や、か弱く力のない自分なんかが

出てきた。

 


その感じた感情だけ見れば本当に酷い過去だった。

 


でも私が経験したあの過去は

とても愛されていた

と言う事にしている。

 


言い聞かせているというよりも多分

最初に自分が感じた信頼を軽く見なかったから。

 

疑いの量は以前とは相変わらず

でもちゃんとそこにあった〝自分の中〟の信頼の方を採用することにした。

 

実は、そこに相手は関係なくて

だから相手はどういう過去になったのかを

私は知らない。

 


ただ、それでも私は信じるという事だった。

でもそこに期待はなくて

それは相手の選択のおかげかもしれない。

私にそれをさせてくれない程離れてしまったから。

でも、だからよかった。

全て自分に矢印を向けることができたから。

 

それを実感する程、

相手の選択や存在、その今全てがギフトに変わっていく。

もちろん、最初からそうだったわけじゃなく

相手の幸せに憎しみだってあった。

 

だからこその〝gift♡〟であって

私がした恋に私が嬉しいと言えた瞬間に

初めて〝gift♡〟として受け取れるんだということを知った感じ。

 

 


そして、その信頼を取ることで

疑いばかりを見ていた過去のやり方ではなく

疑っていたまま信頼もはっきりとあることにしたら


それはいつの間にか私の生きる自信になった。


そして愛されていたという事の証拠集めはしなくなった。

 

信頼を感じていて、愛されていたことを

自分1人だけが分かっていればそれで良いからだった。

そして、その過去に感じたもの汚いもの全てを

自分が大事にしようとしたからだった。

 

 

私は今、何もない。

 

見た目が変わったわけでもなく、何か大きな業績を残したわけでもない。

生活が変わったわけでもなければ

ましてや、ひとりで愛されたと言っているだけで

愛された証なんてどこにも残ってない。

 


もしかしたらとんでも独りよがりかもしれない。

 


でも、それでも良いのではないかと思うようになったのは

信頼を採用した結果かもしれない。

 


ずっと相手の方、周りの方を気にする事をやめられなかったから。

 

嫌われることが怖くてしょうがなかったから。

 

今は、好きになったその相手に

嫌われても良いと思えるようになってしまった程で。

 


今までその疑いを自分ではいけないと思うことが多かった。

信頼できない事を嘆いていた。

 

それらを私の中の問題と捉えて

いらないゴミと化した邪魔なものとして

見るようになった。

自分の中に留めて置くことが難しくて

捨ててしまいたかった。

 

疑いを始め、他にもそんなのはたくさんあって

 

それは私の外に見える今の便利で

物に溢れて

要らないものはすぐ捨てられる世界の様子と

同じように見えた。

 

 

でも今

その捨てられようとしてる方を

私の片割れとして

認めていく作業を繰り返している。

 


昔の人は循環の中にいた。

排除して、なかったことにするという発想ではなくて

全て土に還すというやり方に沿っていた。

食べたものは体を通して糞尿になり、死んだ肉体も

それらは肥やしになり土に還り

それがまた地球の栄養になる。

 

それはおぞましさや醜さに触れる機会が今よりも常

という世界だと思うわけで。

 

汚いものは臭うし危険だから遠ざけられるけど

 

臭いものであればそれは危険を知らせる為だし

恐怖が備わっているのも生き延びる為のように思う。

 

そうゆう事を考えた時に

私の中にゴミとされ捨てられる部分なんて

本当は一つもないように思えた。

 


今の便利な世の中に生きる中で

私の心の中はいつの間にか

争いや、苦痛や、白黒付ける判断に

明け暮れるようになってしまった。

 

危険なものも悪いものも汚いものも

あるのにない事にするという作業は

苦痛を伴い、対立がある。

 

 

でももし目には見ることはできないけれど

自分の中を循環と捉えるなら

不快な想い程

自分側を疑った方がいい事になる。

 

汚いとされる部分程、土台を支えているなら


その悪しきと頭で判断されたものについて

それを感じた機会の方を私は大切にしたい。


相手はいつも私の存り様しか見せない。

相手の存在や選択のまま、それのどこに自分が反応するのか

私が見るのはいつもその部分。

外の世界には何もない。

 

何かするのは相手にではない。

許すのはいつも自分しかいないように。

 

私が世界にすることが世界から返ってくる。

 

https://www.instagram.com/p/BbYjakGl4NP/

#天使の階段#angel's stairs#ブログ#過去#薄明光線#畑#自然#地球#循環#分離 「あれは天使の階段って言うんだよ」と教えてもらいました。車の中で撮った一枚。

 

 

 

 

不自由を自由に決めてる今

 

私は普段、テレビはあまり見ない。

 

帰省中につき、自分の生活は両親の雰囲気に呑み込まれていたから

テレビの音も生活の1つになっていて

 

煩いと思いながら聞こえる朝のニュースから

タンデム自転車に乗る障害を持った男の子のことが流れてきた。

 

この話しを簡単に要約すれば…

 

体が不自由な為に、引きこもりがちの男の子のお母さんが

それを心配して

何か彼にとってきっかけになればと

タンデム自転車の体験会に申し込んで

 

男の子は怖がっていたものの

勇気を出して乗ってみたら楽しくて

 

普段の引きこもりがちの生活も

その経験を境に、

積極的に行動していく様子が映り出されていた。

 

と、内容はざっくりそんな感じで


詳細は下のアドレスのページの

ちょうど真ん中あたり

 

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 NHKニュース おはよう日本[字] 2017.11.06 – Mediacrit

 


最初に自転車に乗ることへの恐れをその彼は

死んでしまう程だと表現していて

 

ああ、彼の恐怖は

表情だけでは汲み取れない程の深さなんだと思った。

 

脚が動かせない身体の不自由さから生まれる制限は

心の制限も作ってしまう。

その不自由さを私は知らない。

 

ありがちなストーリーだとどこかで思ってしまっていて

でも、そのひとつひとつのストーリーは

その人にしか経験できないかけがえのないものだろう。

 


話しを戻して、

 

彼はその恐怖のまま

周りの大人達のサポートの元

最初はなすがままに自転車に乗せられていた様子だった。

 

そして、実際自転車に乗って

風に靡く様子が映し出された時の表情の変化。

 

まるで初めて〝風〟というものに触れて

それを感じて

その風にでもなったかのように溶けた

彼の表情といったら…。

 

TV画面の映像と音に触れてるだけの

赤の他人である私なのに

涙まで出てしまう。

 

形のない自由な想いに触れて涙が出たんだ。

 

乗れたことや勇気もそうだけど

そこで得られる喜びに触れた。

 


まるで赤ちゃんと同じ。

 

この世に降り立って、初めて触れる地球の感覚みたいに

見るもの感じるものに新鮮でいること。

 

できることが素晴らしいというよりも

それは大切なこと。

 

備わってるこの感性の気付いてますか?と

尋ねられたみたいに。

 

備わっている感性を無駄にしない使い方。

 


彼の姿に触れたら、普段ポロポロと見落としまくりなのを痛感する。

 

太陽の温かさや眩しさの中を

歩ける喜び

 

この体を通して、色んなものを感じられること

 

物も豊富にある時代の中で

ここが地獄か楽園かの違いを作れる程

見てないことばかりだった。

 

体が健康であっても、

心の制限も闇もキツくて深いのが現代だと言うのなら

 

その制限や闇の外が、いかほどか知った時の

開放感と光は神様級かと思ってしまうわけで。

 

いかに暗いか分かるから、どちらも捨てられない。

 

 

どんなに体が健康でも、自由でも

経験したことへの反応を表現できる素直さがない心の制限は

人を死に追いやるほど。

 

手に触れられるものは

触れられないものによってそのカタチが決まる。

 

物理的な制限をどうにかするより

精神的自由を先に許す試みを

諦めないでいたい。

 

 

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徒然

髪を切る理由って単に伸びたから

だけじゃないと思ってる。

 

思い出ごっそり削ぎ落とすには

やっぱりいい気がして

 

敢えて自分にすることとして自分で選んでるよって

自分でわかってることがいいというか。

 

気分転換。

 

もう終わり、はい次ってするのに

目に見えない気持ちの決意を

目に見える形で表すことは

気持ちを後押しする。

 

そんなことしても変わらないでしょ。って

頭の声で諦める言葉ばかりじゃ

人生もったいない。

 

 

ところで

 

東京は人が多い。

 

 

この公園も、初めて来た時は

こんなに人は居なかったけれど

でも、今もこの場所はいい場所だと思えるのは

変わらない自分の気持ちだけを大切にしてるから。

 

人の多さに嘆くこともできるけど

そんなこと、きっとしたくないんだろう。

好きが続く理由は、自分の豊かな気持ちを

忘れずに何度も思い出すこと。

 

あの美味しい味を思い出そうとするみたいに。

 

 

 

私は東京にいれなくて、ここを離れたんだと思ってる。

 

今だに過去と同じような人への恐れは出て来るけど

今はそんな自分をどうにかしようなんて思わなくなった。

 

ずっと心の隅で

変われた私を誰かに報告したかったけれど

 

そんな必要ないことがわかって来た。

 

恐れなくなったら

自信がついたら

もっとこんな私であれば…

 

なんてことを

東京にいた時からずっと考えて

〝今〟の自分に満足したことはなかったけど

 

自分に力がなかろうが、弱かろうが、ビビりで何も出来なかろうが

それを自分だけが分かってあげられればよかったんだね。

 

 

変わろうとしなくなると

変わろうと思う方法も責めることもなくなって

そこに向いてた矢印はどこへ行くんだろう?

 

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BbJJrERlJIp/

#公園#好き#秋#人#おひさま#水#park#スワンボート

 

 

 

そうそう、

お世話になってる美容師さんが

いいことを教えてくれた。

 

「好きなものをハッキリさせて

嫌いなものを曖昧にする」

 

 

 

開け放ったドアのように

出入りはいつでもどうぞと

言えるセンスの良さを育てるには

人との関わりは無視できないな。