fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

グラウディング続き(性のことから恋愛まで)

haruradio.hatenablog.com

 

 

グラウディングのことで

指摘されたことがもう一つあって

 

それは

『私の頭の上に管みたいに出てて

そうやって上と繋がりっぱなしだと

結構思考がまとまらなかったり、

ぽーっとするんだよね。』

今まさにこんな感じ。


今までずっとはっきりと目的があった。

 

苦しくて抜け出「したい」

死に「たい」

逃げ「たい」

 

認められ「たい」

自立「したい」

人より優れて「たい」

お金を稼ぎ「たい」

雇われずに働き「たい」

 

それを有る意味ではやりきってきた過去。

その「たい」を

私はずっと叶え続けてきたわけで。

 

最初のほうの死にたいとか逃げたいとかは

自分の感情から逃げていた時に出てきた欲求

後の認められたいとかお金とかは

自分で自分の価値を認められなかったり

否定していたり

そのまんま、ありのまんまの自分でいることに

価値なんてないからという理由で

欲しがっていた欲求

私は小さい頃から結構エゴがたくさん有って

それが強い子供だった。

 

私の両親は真面目に丁寧に私を育ててくれたから

私は抑圧がとても上手にできる子に育った。

 

悪いものには蓋の人生。

 

感情を感じることを許さない1番最初の出来事は

性的なことがきっかけだった。

 

何かいけないことをされているけど

なんだかよく分からない。

こんなに幼いのに

それでも「感じてしまう」という罪悪感が

小さくても育ってしまったのが始まりで

状況的にも見事に「感じてはいけない」という

シチュエーションだった為に

それは絶対のルールになったし

 

あの経験から自分の存在そのものが恥という意識が

自分のそのまま、ありのままを

認めることを絶対に許せなくなったのだろうと思う。

 

感じることって

種類違うと思いきや
ここが1番大元な気がする訳で

怒りとか悲しみとか喜びとか種類は色々だけど

感じるって実は平等なんじゃないかと思う。


感じる事の大元である

性的なことを汚らわしく扱って否定的に捉えると

存在そのものを否定しやすいし

認めることが難しくなる。

 

汚らわしいって厄介だし

お金も似てるとこある。

 

(ちなみに、私はそこに気付いて

最初はとても嫌な思いを自分に感じながら

あえて取り組んだことというのは

自分なりにあるけれど。性もお金も自分がその汚れになるってことかな。)

 

恥や羞恥心は自分でも気付かせないように

自分で隠すから

 

恥だから隠したいって無意識の理由で

自分でもなぜ死にたくなったり
自己否定が強かったり

なぜこんなに自分で自分を苦しめるのをやめられないのかが

とにかく分からなかった。

 

分からないと言いながらも

欲求のままにそれらをやり切ったからこそ

今こうして書けるまでに

自分のやってきたこと一つ一つに

ちゃんと理由があることも分かったし

 

そんな過去さえ

もうこれも私だからなぁという

諦めというか

所詮こんなもんだよね、みたいな普通でいられるようになった。

 

だから欲求はどんなものでも

やってみることで自分なりの理解はやってくると思ってる。

 

でもそれはしくじりの人生で遠回りの人生だし

とっても疲れるわけで。

でもそれもやっぱり私だからだろうな、という所に

行き着いてしまう。

 

ここまで書いておいてなんだけど

これも私という人間の視点からの解釈でしかないから

そうゆうことにしてるだけで

そうゆうことにしてると納得できるからだし

自分が生きやすく都合がいいからなんだと思う。

 

 

それで今は、こんな以前と何も変ってない自分に

何も問題がなくて

この自分で、何も変わらない自分に安心があるのが

前と違うだけ。

前はそこを責めまくって、自分で攻撃してたから

苦しかっただけ。

 

それでも最近また一つ自分が自分に対して

自己否定してることを見つけて

それは上にも書いてきた自分の過去に

由来するのだけど

 

今でも恋愛経験ってほとんどなくて

どうして恋愛できないかということとが

もしかしたらこれが理由か?と思うことがあって

 


それは自分が自分に対して

「気持ち悪い」と思ってること。

誰かを想う時にいつも出てくる自分への気持ち悪さ。


こんな風に考える自分

あんな風に反応する自分

心が先なのはもう分かってる。

身体で反応も分かってる。

 

でもその全部を頭で気持ち悪がってる。

自分の欲求に関して気持ち悪がってる。

求めることを気持ち悪がってる。

 


例えば、

 

一緒にいたい

触れたい

もっとこうしたい

ああしたい

ああなればいい

こうなればいい

でもあれは困る

それは、いわゆる妄想だけど笑

 

心、身体から(今)

いつの間に頭に移行していて(過去、未来)

 

私はよく

心と身体を

頭で力強くねじ込もうとするから

最初から無かったことにしようとする事を

全身で始めるのだなと。

 

ここでグラウディングの話しに戻すけど

私は、そうやって心と身体を

上手に優先できない。

 

こと恋愛に関しては

一生懸命、慌てて妄想して

取りに行こうと頑張ってみたこともあったけど

上手く行かないのは

恋愛モードの自分が既に「気持ち悪い」という臭いを纏ってて

それをベースに頭で闇雲に行動に走って

結局最後に自分でやったことや想いを

全身全霊で蓋する結末になったりする。


それは、自分のどうしたいがはっきりないから。

 

結末に嘆いてうだうだ

ネガティヴな感情に浸ってるのも

行動はしても覚悟が無いから。


自分の気持ちの始末を自分で取ろうとしないから。


ここが結局グラウディングできてない所じゃないかと。

自分の行動、誰のせいにもできないよね。


今の私の頭の上に管の状態って

身体を見ないで

未来や過去やイメージや妄想を見てること。

 

心が感じることに理由はないから

世間とか一般とか社会とかからずれることなんて

普通って思った方がいい。

 

こんなこと考えたり思ったりする自分酷いって

もしそうゆうの出てきちゃったら、有るなら

一旦認める。

 

でもその心で想うことを頭で誤魔化すと

自分でやってることなのに

自分で選んでるに

当事者意識全く無くなる。

 


だから、今の自分はどうしたいか?を考えたうえで

自分の心や身体の今を無かったことにはせずに

 

この心で思ったことは嘘じゃないなら

その上で自分がどんな風に行動して行くのがいいのかを

頭と相談して決めていけばいい。

 

進むや、やるのがいいわけじゃないし

やめるのが悪いわけじゃない。

 

自分で決めてみる。

 

頭は心や身体で感じたことをなかったことにする為に

あれこれ未来や過去やイメージを見ようとする場所じゃなくて

 

今の自分のそのままを見て

気持ち悪いと思うなら

そんな気持ち悪い自分がいることを許可した上で

行動を考える場所のような気がする。

 

 

例えばダイエットだって

痩せた誰かの身体の写真をイメージしてるだけじゃ痩せないし

 

私はどこかイメージに逃げてるかも。

 

美しく踊ることも

美しく踊る誰かをイメージしてたけど

ちゃんと自分の体や指先の角度を

鏡でしっかり見ないと。

 

自分の身体の不完全で

美しくないなと思うところも見ないと。


今の自分の身体を、ここまでという身体の硬さを見ないと。

 

でもそれを否定するのではなく

ただそれであるってこと。


完成のイメージは大事だけど

まず今の自分の技量を知らないと。


そうゆう事実を見て

でもそれを貶さなくていい。


グラウディングってそうゆうことかな。

 

 

 

グラウディングのアドバイスをありがとう。

 

ameblo.jp

 

 

 

 

グラウディングの方法。

 

私はいつも空ばかり見る。

 

綺麗だからだけど

あの空をただ見てるのだろうか?と

この前空を見ながらふと思ったりした。

 

今なら入道雲を見れば、ああ夏だと思ったり

雲の形を見ては似てる何かと重ね合わせたり

 

鳥や、花や、木や…

その大半は情景として眺めてる時間が長いような気がした。

それは、絵本や映像やテレビや

そうゆう過去の何かの記憶と

今見てる目の前の風景を無意識に重ね合わせたりして

 

あの空をただ見るって

もしかしたらただ見てることなんて

少ないかもしれないと

ちょっと訳のわからないことを考えていた。

 


体験は感情とセットで

どんな感情と目にするものがセットなのか

それは快か不快かと一緒に記憶されてく。

 

だから外側の風景で以前の記憶に近いと

その時の感情が湧いたりする。

 

あの時のセットをまた掘り出すみたいに。

この人苦手みたいな。 

桜の時期なんて特に。

 

そうやって目にするもので気持ちが蘇る。

 

 

風景もただ見てないのだから

人なんてどれ程にただ見る事が出来ないのだろうと思う。

あの人のあれが良い

この人のこれは良くないとか

 

そして、私という存在に関しても

どれだけ良いや悪いを判断して

振り分けて自分という存在を見ているのだろう。

 

私のここがダメ

私なんて…と

そんな風にずっと頭を空にして

目の前の風景を

目の前の人を

そして自分自身を

ただ見る事はない気がした。

 

 

ここからグラウディングの話し。

 

 

グラウディングは私からすれば

現実をしっかり生きるという事で

別に特別なことでもなくて

 

それは自分の意思で

自分の現実を選んで、作って

それは自分の存在を無駄にしない為に

必要な力のようなものだと

今の私は思っている。

 

 

最近、言葉でこうするといいや、ああするといいと

アドバイスをもらったりしていて

でもそれが物では無い時は

自分の方法が、これでいいのかよく分からなかった。

 


今までは何かを得る為に動いていて

ああなりたいとか、欲しいという欲求

常にあって

向かう場所のようなものがあった。

前の方がアドバイスに執着していたし

常に苦しかった。

 

今はそれが薄れていて

苦しみはないけど

ものすごく曖昧な感じを自分に感じる。

強さがなく、力がなく、迷うことが多く

これがいいというよりも

何でもいいという事が多くなった。

 

首の皮一枚とか細い糸で繋がっているような頼りなさを

もう去年末からずっとやっている。

 

現実を動かすという力が湧かずに

それが今の自分には危機感のように感じているけれど

それさえも曖昧という言葉で流されてしまいそうで

少々困っている。

 

今の自分にとって

何かを達成したいという明確な欲求はなくて

達成したいその何かが

よく分からず

 

今は与えられているものをあまり拒む事もせず

受け取っているような生活だったりする。

欲しがっていた時より

有り難いことに、こんなにしてもらって良いんですか⁈みたいに

私の元へやってきていたりはするけど。

 

エネルギッシュで

自分のしたいことに人を巻き込んで行くような人の側にいる今だけど

でもそれができるのは

今の私が自分の意思の力を信じてないからのような気もする。

 

前のような私なんかが…っていう申し訳なさはなくなって

受け取ることに抵抗がなくなって

こんな私でも受け取って良いって言えても

すごく自分には力がない。

 

 

受け取るだけは全然エネルギッシュじゃない。

 

 


前と違うところがもう一つ。

有る事に感謝をするという事。

自分の身体がちゃんと機能していることから

感謝出来るようになった。

 

不満を探すより

今ある環境や人から

有り難さを探すようになった。

 

以前はこうしなければ、ああしなければと

しなければの応酬を自分の中でやっていた為に

ストレスフルだった。

 

グラウディングが出来てないという指摘は、もう前からの事だけど

その中で印象に残ってる話がひとつある。

以前、A4の白い紙の上に好きな絵を描いてと言われた際に

真ん中を境に

上だけにしか絵を埋められなかったのを思い出す。

それも極端に上は鮮やかで、下が空白。

その空白は描けないといった感じだった。

 


自分の事なのに、こんな言い方するのもあんまりだけど

 

自分ではどうする事もできないと

心の奥底で思ってる表れとして

自分の今の選択がある気がしてならない。

 

 


それで、グラウディングとしてもらったアドバイスが何だったのかと言えば

地球と繋がってエネルギーもらうと良いという事だった。

それをするのに

地球と繋がるイメージをしながら瞑想すれば良いと思っていた。

 

上が派手で根のないような空白の私がやる事として

私は常にそうゆうイメージを作り上げていて

それがない、何もイメージしない事が

出来なかった。

 

ただ座る、ただ見るが出来ない。

そして空っぽでいる事が実は怖いということに気付かせてもらった。

 

だから常に考えを網のように張り巡らせて

イメージを沸かせて

どこからかやってくるであろう、変化球のような流れ弾にも

対応できるように構えている感じというか。

 

 

それで考えない事の怖さって

足の付かない深さの海に

浮き輪無しみたいな恐怖と似てて

 

これって、力抜くことが前提にないから

誰かのサポート無しだと自分では気付けないと思った出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネガティブとポジティブという決まりを壊したくて。

 

 

 

前回の続きというか、もう少し詳しい所を書こうかと。

 

 

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海外から私が今いるこの村にお金を稼ぎに来る人たちが

毎年沢山いる。

 

そして、言葉もあまり通じないで

雇う人、雇われる人の関係があまりに良く無い場合、

精神をやられてそれを苦に死んでしまうという事が

起こるらしい

という話を聞いた。

 

村にある高い橋の上のそうゆう事情。

 

去年は仕事の合間の思い出にと

富士山も見えるような眺めの良い、別の橋の上で記念写真を撮ったのに

そこの橋にも観光名所という表向きの華やかさの裏に

そうゆう事情があるって話を今年聞かされ

なんとも言えない気分になった。

 

そんなことを聞いたら

聞いたそばから印象が変わってしまうではないか、なんてね。

  

そうすると

ここはどこか淀んだ感じがする、とかを言いたくなる自分が居て

そんな風に目の前の山間の村も、聞いた話で綺麗に見てた場所も淀み始める。

 

でもそれは、死について

とてもよろしくない印象が多すぎるからなのだと思う。

感情が激しく揺さぶられたり

例えば、悲しみや、憎しみや、後悔や…

穏やかではないられない感情と

死という出来事がセットだからのように思う。

 

そして生きてく中で、自分で経験できる事以外の

テレビや本や見聞きしたりするものまで含まれて

そこにも感情が伴うからだと思う。

 

自分に関係があること、経験した事には

特別に感情は強くなるだろうし。

 

 

 

 

自分にやってくる出来事のうち、過去に同じような経験があると

人から聞いた話だけでも

余計にその「なんとも言えない気分」や「淀んでる」ように

感じることは強まって

今幸せでも、その今という地点から苦しんだあの時にタイムスリップして

死んで行く人への連想ゲームを始めてたりする。

 

あの時の嫌な気分を今更また持ち出して

他の誰かもそうやって悩んでいるのだろうと

想像することとか。

 

でも一つの出来事があっても

誰かは心配で応えて

誰かは怒りで応えるような

人によって変わる千差万別の世界が現実と言われてるもの。

 

自分にその種がなかったりすれば連想もできないし

苦しむという事をしない人は

他の人もそうだろうという所に

自分の想像を使わない。

 

 

自分もそうだから他者も…という自動的な妄想のループも

自分がそれを生み出しているという自覚や責任を持てると

その事が「意識的に生きる」

ということには繋がるのかも。

 

だから、自分の感情を元に誰かのところに行ってはいけない気がする。

自分で沸いたものは自分にしかケア出来ない。

 

影響を受けないようにするには

他者と自分をちゃんと切り離さないと行けない。

 

同じ時間や場所にいても

自分が見てる世界とあの人が見てる世界は

全く別だったりするから。

 

 

 

 

不快な情報を聞いても

その情報が今の自分にどれだけ関係があるんだろうか?

を考えると

実はあまり関係なかったりする。

 

綺麗に見えるのも

淀んで見えるのも

 

結局は自分が感情を乗せてその風景を

綺麗に見るか

鬱蒼として見るか

淀んで見るかは

 

全てが自分由来だった。

 

どれだけ毎日、イメージしてるんだろう?

 

自分がやってるということをすぐに忘れて

感情に踊らされるけど

それが出来る豊かさを今

身体があるから、ここにいるから、

心があるから出来ているという有り難さ。

 

いつもいつも、

その豊かさや相手のある事に感謝する日々。

 

https://www.instagram.com/p/BWTiFPtguTo/

#ブログ更新#空#太陽#光#谷川俊太郎✴︎そう言えば「闇は光の母」なんて言葉が出せる谷川さんの詩はそれだけで豊かさを思い出す。言葉はその人の豊かさを表すようだから出来ないと断らず、見ようとすることを始めたい。✴︎闇は光の母だったと。

 

 

このままでいいわけないだろって思えるのは、良い事だと思うんですよ。

先日のこと。

 

午前3時半から畑で収穫。

ヘッドライト装着で暗がりの中、手元のライト頼りに

植物をカマで殺す。って、

 

「えっ⁈」

 

暗がりでする作業は体感覚が敏感になる気がしたから

そんな表現。

 

暗いと見えないと

思う以上に手に触れる感覚が生々しい。

 

手元から伝わる感覚から植物も生き物だという事が

妙に伝わってきて結構びっくり。

 

視覚の情報って膨大だけど

見えるという事が

見えない感覚を大分スルーしているか、奪ってるとも言えて

体感覚の鋭さが素晴らしいと今更感じた。

 

この場所に来てから

色んな生き物の死骸を見た。

 

狸、猫、カラス、鹿。

 

毒殺だったり罠にかかったり、色々死んでいった。

 

動かない彼らを間近で見た。

 

皮膚を剥がされた鹿の太ももの筋肉や胴体を見てからは

シャワーを浴びながら

自分の身体もああなんだろうと思い出して身体を摩った。

 

カラスは最初本物に見えなかった。

ダミーかと思ってた。

都会のダミーに見慣れて、畑でもそれだと思ってた。

 

そして、この場所は人も死ぬらしい。

 

そんな事を見聞きして、やっぱり怖くて暗い場所だったんだと

私の視界からこの世界を暗く見た瞬間だった。

 

そんな事があっても

その死骸は放置されたままではなかった。

 

埋められたり、食べられたり、誰かに処理されて来た。

 

生きていると、そうゆう事にも巡り会う。

 

生きているからだった。

 

それを悪いとか良いとか

簡単に決められないと思った、

なんとなく。

 

 

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タイトルと内容がちぐはぐだけど

今自分に言いたいことをタイトルにしたんだけど

 

自分で自分のことが決められないというのを

長々やって来てる私は

どうやら地上に根をはれてないらしく

 

でも、もうそろそろ

「このままでいいわけないだろ」って急かしたい訳で。

 

 

身体のことやったって、心のことやったって

見えることだって、見えないことだって

それに当事者意識がなかったら

いつまでたっても根なんてはれないだろうよ。

 

 

 

 

至福の感じ方の練習

最近、書くことが何だかままならなくなってきた。

 

多分、書くことが

「自分の頭や心の整理のため」

としていたつもりで

 

本当のところは

「整理して何かを分かりたかったから」

なのだと改めて思う。

 

そしてその分かることや理解や気付きが

誰かよりも知っているという優越感であったり

いつかどこかで役立つと考えてきたからじゃないだろうかと。

 

だって私自身が誰かの言葉や情報を頼りに

今までやってきたからで

 

それは楽しく読んだり学んだりではなくて

苦しみからの脱出を試みて色々探したからで

 

苦しみをどうにかする為に情報を必死に漁ってきてたから。

 

でも、その情報や知識や

書いて自分の中を整理して、分かるという事が

それ程重要でもなくなってきてるように思える今だから

書くことから遠ざかってるように思えた。

 

 

 

自分の為にする事がいちいち

自分には足りないという前提からスタートする事ばかりだったから

もしかするとこのブログも

そうゆう前提でやってきたものような気もして

 

だから書けなくなってるんだろうって。

 

考えて、そして自分で色んなことが分かったら、気付いたら、

私は楽になるって思ってきたから

だから知っていたかったし、気付きたかったんだと。

 

でも今は知ることも、気付くことも

もしかしたらそんなに重要ではないのかもしれない。

 

そして書くということで鍛えられたもの

それは、

 

考える事。

 

 

 

四六時中、忙しないのは

考える事に慣れ過ぎて、そのパンパンに頭が考え事で詰まってる状態を

普通にしてきたから

 

考えない事が怖くて仕方ない。

 

でも考えても

本当に良い答えや解決は

その中にはないのではないかと思うように

自分の価値観や大切にしてたルールが

壊れかけてる。

 

何も行動しないで

迷ってるか、考えてる時間だけを

膨大に過ごしてきたあの頃と

 

何にも考えてない最近と比べると

考えないことの方が

本当にゆったり過ごせていて

今という時間の豊かさや至福を

感じやすくなってる。

 

 

考えを頼りにすると

それは過去しか見なくなるから

いつだったかに見聞きした情報や自分の体験を元に

色々巡らせて

 

今という時間に全然気付かない。

 

 

今この空がこんなにも美しい

ただそう感じるだけで

至福だと思える。

 

この時間の豊かさのことだよ。

 

もっとこの感覚を鍛えていこう。

答えなんて出さずに

この感覚を自分の中に充満させて

その時間が1日のうちに増えていくように。

  

 

 

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#ブログ更新ブログ用に再加工いまは雨だよ

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が今生きているということの凄さ

便利が当たり前の時に生まれると

それがなぜ目の前にあるのかも考えないのは自然なことだった。

 

知ることさえ自ら探したら

その答えにビックリしたりする。

 

与えられることに慣れてしまうと

なぜなのかさえ疑わないのに

心は違和感として訴えてくる時があるのは

生きてるこの命が

自分という意識だけのものではないからだろうし

この時間に至るまでに多くが関わっているからだろうと

何か見えないものに馳せてしまう。

 

その心で感じることは嘘じゃないだろうから

最近はその心で感じたことを行動に移すという繰り返しをして来てる。

人に言われてこうだからとか、こうゆう決まりだからとか、

普通はとか、時間がとか、お金がとか…そっちを基準にするというより

怖いけど心で思った方を採用してみる

というやり方。

 

決めるのもそして動くのも

今の自分にその主導権が与えられてる。

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

話に聞いて写真で見るのと

空気や匂いや音や…そうゆう全てで感じる

現場で経験するのとは

やっぱり別なのだった。

 

というのも

今朝鹿が採れたから要らないか?という知らせが始まりで

どうやら解体して食べるという流れになっていた。

狩猟で捕られた鹿は顎と尻尾を切り取られた状態で届けられた。

それらを届け出て「駆除」の証明とするらしい。

というのも鹿の害というのがあるからなのだ。

 

 

もらい主達は自分達の食べるものを

結構自給自足に近い形賄っている。

畑仕事でお金をもらい

自分達の住んでる庭に

トウモロコシやかぼちゃや夏野菜色々を植えていた。

 

そして遂に今朝撃たれた鹿を貰い受けていた。

 

私はグロテスクなのは割と平気だったが

内臓が取り出された時点で部屋に帰った。

やっぱりずっと見てたら、しんどかった。

 

今日鹿の心臓を見た時に

母親の摘出された子宮を思い出した。

 

首だけになった顔に銀蠅がたかり

膝下の細い足と爪

そして皮。

 

 

 

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食べ物だけじゃなく

私達は自分の身に付けてるものも

命の後だってことを中々想像できない。

 

以前ハンズで買った革が部屋にそのままなのを思い出した。

 

財布に鞄、靴

そうやってたくさんのものが

私たちの便利で彩ある生活と生きることを支えている。

 

私はだから獲るな

という立場はとれないけれど

あまりに知らないということが多過ぎるとは思った。

そして見過ごしてると思った。

立ち止まらないと思った。

 

つまりは、「今にいない」ということだった。

 

例えば

食べる時も

着る時も

それがいつもやってる繰り返しであればあるほど

別の事を考えてるのだなと。

 

袖に手を通す時、その着る物の事を考えてるか?

靴を履こうとする時、その靴の事を考えてるか?

食べ物を口にする時、その食べ物の事を考えてるか?

体を洗う時、その水のことを考えてるか?

 

そんなこと、いちいち考えない…のか。

 

でも「いただきます」という言葉1つ

今に吸い込まれる。

 

ずっと想うのが難しいのは

それくらい他にたくさんしなければならないという

余裕のなさの中かもしれない。

それとも、そんなことより

もっと大切なことがあるからかもしれない。

 

そのくらい今の人は色んなことに忙しい。

 

 

でも私達は、本当に本当にお陰様なんだなと思う。

 

当たり前に、その繰り返しに

忘れてしまうけれど

人が1人生きているだけで

その背景にはたくさんの命が関わっているんだなと。

 

そんな事も見過ごせる自由を私達は与えられてるんだなと。

 

こうして書いていたって、どうせ何かやれば何か忘れてくんだから

そう言えばそうだったと、どこかで思い出せればいいと思う。

 

 

最近あまりに腑抜けで過ごしていたので

カンフル剤にはなりましたが

 

正直なところ、腑抜けが腑抜けでなくなるまでではなくて

 

もう自然が癒してくれるわけじゃないって時点で

 

自分が今までと同じようなスタンスでいると

一生気の抜けた炭酸のように過ごすことになってしまいそう

と思ってる今だから。

 

 

 

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考えるのを止められないのは、直視出来ないから

今は山の中に篭っている状態。

 

小さな商店は近くにあって

でもスーパーまでは自転車でも20分以上

コンビニは電車で一駅。

 

生活にクルマは欠かせない。

 

誰かが亡くなれば、放送が流れ

 

虫と鳥の声がいつもしている。

 

畑と家の間を車で行き来する毎日。

 

そして去年と同じ顔ぶれと新しい出会い。

 

受け入れてもらえるありがたさ。

 

2度目という機会は

 

去年と同じ私か?それとも…

 

 

 

 

 

ここ最近、

自分に少しエネルギーがないように思う。

 

必死に何かをしようとして来たけれど

その何かをするとか、追うとか曖昧になってきた。

 

ずっと追いかけ続けていたから

満足はいつも未来にあって

その未来の自分の為に

今の自分は色々考えていて

 

例えば

怒られないように、何かを言われないように

そんな事にばかり気を集中して、常に考えで頭がいっぱいなことも

怒られない私という近い未来の為のだし

 

迷ったり

気を使ったり

した方がいいのか、それともしないべきかとかの二者択一をやってたり

 

自分が相手にとって良かれと思ってわざわざしている事が

その相手からいらないと言われると

せっかくしてるのにという不愉快な感情が出てきて

 

すると

私はいちいちそれを〝考えて〟してることなんだ、と

思ったりしていた。

 

そして

頑張ってる自分、良い人やってる自分、弱い自分、

 

そうやって身を粉にする美学に酔ってる自分を目にすると

気に入られる為には、お金を得る為には

何かしなければいけないと思ってる自分がいる。

 

 

 

考え中の時はいつも何かを恐れてる。

 

だからそうならないように考えるのだけど

案外その考えは現実にならない。

怒られそうと思って、頭で怒られそうな場面をイメージして

回避の立ち回りをイメージしても

実際は優しくされ

 

怒られることなんてないだろうと油断して

何も考えてない時に

いきなり怒られる。

 

 

最悪の事態を回避するとか防衛する為に

わざわざしてきたその考え事態が全く的外れ。

人生当たりもしない未来の為に

どのくらい無駄な空想に時間を費やしてるんだろうか。

 

 

そして私がどんな私であっても

相手は私を相手の見たいようにしか見ない。

という感じがここ最近益々強くなる。

 

例えば私がどんなに安心安全だと訴えても

相手に疑いがあれば疑いが採用される。

 

 

 

自分という存在を

清く正しく美しく安心安全と主張しても

自分という存在を

必要以上に相手から守っても

 

受け入れられる人からは受け入れられるし

嫌われる時は嫌われる。

 

だったらそこに私の性格や考え方やどんな私か、というのは

本当に関係あるのか⁈って思えてくる。

 

良い人である為に、愛される為に

ネガティブなものを否定してきて

 

愚痴を言う

怒る

恐る

弱い

傷付く

だらしない

できない

稼げない

ダメ

 

今こんなのしか出てこないけど

自分の中のこうゆうものに修正、変更、更生…

変えようとする全てが無意味で

そんな自分をどうにかしなくても

大丈夫なんじゃないかと思える。

 

どうせ全部は取り越し苦労だから。

 

そんな風に自分に取り組む必要なんて

全然ないんじゃないか?

 

どんな私でも相手は相手好みで私を判断する。

 

相手を基準にするのはやめて

 

自分の中に起こる変化を自分が見続ける為に

 

行動を起こしてみたらいいんじゃないか?

 

どんな感情も優劣なく見届けられるように。