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fantasiaの為の研究ブログ

主に心のこと、頭のこと、意識と無意識、精神的なこと…スムーズに生きる為に経験をoutput

劣等感と優越感の「私」

ずっと自分が劣等感と優越感の狭間を行ったり来たりしています。

 

だから正直いたたまれないし、傷付きやすさが出てきたりしていて

感情が安定しないので正直疲れます。

 

人よりも上であると感じる瞬間と

下であると感じる瞬間を

こんな所にも持ち込んでいたのかと

友人を前にして思いました。

 

友人であっても対等な関係を築けない不甲斐なさは

劣等感と優越感という言葉を当てはめたら納得できました。

 

心の痛みだけをずっと自覚してきましたが

なぜそんな風に痛みが出るのかはずっと分からないままでした。

 

相手の琴線に触れないように接するのは

その相手の反応に確実に傷つく自分がいると分かっているからでした。

だからどこかオープンになり切れず

緊張がそこにありました。

 

案の定、傷付きながら

でも今回はそんな自分をめいいっぱい感じています。

 

全然変わってなかった。

何も変わらない。

成長なんてどこにもなかった。

そして、強くなれたと思い込んでいたものも

結局は崩壊しました。

 

でもそれが壊れるのはどこかで分かっているから

会うのがとても怖かった。

 

過去の不安定な自分、

自己否定や優越感や劣等感が顔を出し始めて

まだそれをこうして言葉にもできなかった頃に出会ってる人達。

 

自分としてそれがあると認められないのだなと

思いました。

 

彼女らを前にすると苦しくなるのは

 

私が憧れから

付き合い出してるからというのが

今回よく分かりました。

 

私のありのままを認めてくれてる友人とは別に

私は彼女達のセンスや見た目やファッションに惹かれたのだなと思いました。

 

対等な付き合いができなかったのも今更の自覚で

当時はどこかに付き合いづらさを隠していたので

心だけが痛んでそのシグナルを発してました。

 

その裏に劣等感と優越感があったなんて

とてもじゃないけど認められなかった。

 

 

今回そのことがわかって、打ちのめされた感じがします。

全く弱かった。

でもその弱さのままの私でいることにしました。

 

傷付くし、劣等感も優越感も満載の自分。

 

当時の色んなものを隠しながらの私とも一緒にいてくれたことを思いながら

その中で、今も変わらなかったことがあって

憧れだけの繋がりだけじゃなかったことも

思い出せました。

 

私に面白いものを教えてくれた彼女達と

好きなことで繋がれてることでした。

 

だからちゃんと声に出した。

 

「あなたと、こうしている時間がとても好きだ」と

 

なんだか、それだけでもう十分でした。

 

 

 

もう不安の自分に安心しよう

もう不安の自分に安心しよう

 

ずっとこうして置き去りにすることが出来なかった

 

捨ててしまいたかった

 

問題を解決して
原因を探して
見つけて
スッキリして

 

 

 

成長したつもり

 

立派な大人になったつもり

 

人よりも優れているつもり

 

そして劣っている自分の姿が

正しい私のポジションだと

そこを目指して帰ろうとする

 

こうやって文章にすると

なんだか拗ねてるみたいだ

 

そして目の前の出来事に
いつも文句しか言ってこなかったよ

 

ごめんね

 

出来る限り、少しずつ
今を見ようとする

 

明日でも昨日でもなく

 

どんな相手にどんな出来事に
どんな風に響くのか靡くのか

いつも見届けていられるようにするから

 

 

 

「自分を大切にする」から始めよう

 

それは心(見えないこと)を

表して(見えること)行くこと

 

なんだね

 

 

ameblo.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

思い込みに気付くには。

 

前提が大事。

なぜならそれが今を作ってるから。

 

自分の前提=現実

前提=思い込み

 

 

 

その思い込みは過去に作られた。

そしてその前提、なかなか気が付けない厄介もの。

 

でもそれに気付くには…

 

 

どんな気持ちで日々過ごしているか?

どんな気持ちで1日の大半を過ごしているのか?

その気持ちはどんな気持ちか?

 

を改めて見渡して

 

そしてそんな今の気持ちの中で

今の自分が駄目だと思って、それを変えたいと思っているなら

 

 

その今の自分を退けないこと。

今のダメな自分を排除しない事。

嫌わない事。

まずは、あってもいいとする事。

 

 

 

これを聞いてもし残念だと思う時は

そんな駄目な自分を排除したいと考えてる時です。

どうにかしたいと考えてる時です。

 

 

 

でもまずはここから。

 

許せなくてもいいんです。

嫌いなままでもいいんです。

 

でも、それをどうにかしようとせずに

あるのを知っていて、取り敢えずそのまま眺めて置いておくんです。

 

 

辛くなるような時ってなぜ辛いのでしょうか?

 

 

どんな出来事をきっかけに、どんな自分が許せないのでしょうか?

 

言葉で書き出してみたりして明確にしてみると

分かっているつもりでも

何もしないより、新しい変化を感じられるかもしれません。

 

色々書きましたが一言でいえば、

自分と向き合ってみる

です。

 

 

 

 

良い思い出より、悪い思い出をずっと掘り起こす癖がある生き物が人間。

 

普通に何もしないと

機能的(脳みその働き)にそうなりやすい。

 

意識して書く事や、自分を掘り下げていくと

気が付けないものに出会えたりします。

 

 

今もし辛いなら

その辛さはサインだから。

 

 

 

 

 

私は過去の傷を何度も掘り起こしてるのかもしれないと思うことがありました。

 

上に書いた事はその時に

自分があえてやってみたことでもあります。

 

今目の前の出来事をきっかけに出てくる

ネガティブな想い。

 

言い換えると、

目の前の出来事をニュートラルだとして

そこに私はマイナスを感じてるんです。

 

 

でもなぜそう感じてしまうのか?

それは自分の過去にヒントがあります。

 

私の場合は

虐められたり、無視をされた経験を

まだ自分が癒せてないのかもしれない

という事が出てきました。

 

 

気付けばいつも

「嫌われてるかもしれない」

という前提で人と接している。

 

嫌われてるから、あの人はこうするんだと

相手の行為にいちいち私が嫌われてると言う理由を付けてました。

 

気付かずに無意識にやってることです。

 

 

出来事をネガティブに感じてるという事は

今の出来事をきっかけにして

自ら傷を掘り起こしに行ってる可能性があります。

 

ネガティブに見えるだけで、そこには何にも問題はないのですが

問題があると思ってしまう。

でもそれは私だからそう見える。

 

 

もし別の誰かだったら、過去が違えば

もっと言うと、記憶に残るような強烈な過去がなければ

同じ出来事でもネガティブに感じるかは別です。

 

その見方は間違いなく私だから

そう見える訳です。

 

 

でも、相手は私のことなんて

多分これっぽっちも考えてないと思います。

 

私はすごく考えてますよね。

 

ネガティブに映るというのがその証拠です。

 

 

先にも書きましたが

良い思い出より、悪い思い出をずっと掘り起こす癖がある生き物が人間

だからです。

 

ネガティブ滞在時間が長いんです。

ただし、何もしないと

です。

 

 

 

思い込みの根源を見つけたら

過去の傷を癒す。

 

そして、もうその思い込みは必要ではないと

自分に言ってあげる。

 

傷を癒す力は信じること。

 

そして

私は愛されてるという新しい前提を作るには

口癖を変えていくといい。

あとは、ポジティブでいられる時間を長くすること。

 

 

 

愛されてるという前提で全てを見渡す。

嫌われても

愛されてるの方が本当だってこと。

 

 

こうして今生きていることが何よりの証。

 

 

以前はこの辺のことがよく分からなかった。

と言うより、信じられなかった。

 

愛されてるってどうゆうことか?

その自信のようなものは、どこからくるのか?

 

でも、今は私がずっとそう思い込んでたことなんだと思うから。

 

嫌われてると思うことで

自分を弱さの中に留めていた。

不信の中に、出来ない中に、不幸せの中に

押し込んでいた。

 

その方が安全だと思い込んできた。

 

全て自分の前提で、思い込みで

そうゆう事にしてたマイルール。

 

私から誰かが離れても

愛されてると私が言えること。

そうゆう事にする新しいマイルール。 

 

 

それは同時に相手の自由がそこにあることを意味します。

 

自由が欲しいなら、まず相手の自由を先に許す事。

自由とは相手が自分をどう思うのかに制限をつけないこと。

それは退けることや、受け入れられないことも含まれるということ。

 

相手にどう見られるかを気にしないというのは

そうゆうことでした。

 

これからは、

幸せで愛されているという前提で

1つ1つの世界に触れていく。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BS219KCgHlk/

#幸せ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

口癖が現実を作るって本当だった話し。親と子の関係。

 

前回の続きになります。

 

haruradio.hatenablog.com

 

 

 

当たり前にそれを疑う事なく

 

「母が不幸」

 

だと思ってきました。

 

当たり前だと思ってる事って疑えないから

今でさえ、私の中には要らない思い込みは沢山あると思います。

でも今回は、その要らない思い込みの1つを見つけたので

ここに残しておくことに。

 

その外側に出たときに始めて

いかにそれが不自然だったと気が付けるのですが

中にいるときは分からない。

 

でもそこで慌てなくてよくて

そんな今の自分

例えばサイテーって思えるような自分でいると

自覚することが先かなと思いました。

まずは自覚するだけでいいと思ってます。

その次はサイテーって言わないでみる、なんだと思います。

 

 

 

それで、

私がなぜ母をそんな風に思っていて
それが普通だと思ってきたのか?

 

 

信仰を持つ両親の元で生まれた私は

小さい頃から、その信仰の教えを

育てられる中で教えられてきました。

 

在り方を「こうだ!」と何度も示されてきました。

 

父が口癖のようによく言っていたのは

「これは絶対だ」

「勝たなきゃダメだ」

というのをよく覚えていて

 

母は

「これは幸せになる為だから」

 

ということを

何度も聞かされてきました。

 

今回特に母のことを取り上げる理由は

父のことに関しては

受け入れられない過去がずっとあったのは事実ですが

シンプルに今はもう何も思うところがないからです。

(そのうちまた出てくることがあれば書きますが)

 

 

それで、

母の口癖と信仰について

私はまんまとひっかかっていました。

 

ずっとその信仰や組織に嫌悪感がありました。

それは例えば信仰に対する社会的に悪いイメージも影響していました。

 

信じることがコントロールされている、であったり

盲信が相手に迷惑をかける、であったり

 

この辺は、信じることが素直にできない理由に繋がっているとは思います。

 

実際自分が相手から迷惑を受けていたという過去があって

でも今は、その認識は薄れてきています。

 

あなたは私に迷惑をかけている、と言いたかった私の為に

周りがあったのだなと思います。

その人達を引き寄せていたのは

私だったから。

 

あの時は全力でひたすら相手のせいだと叫びたかった。

だから、それが叶っていたと思います。

 

 

それで母からよく聞いていた

「これは幸せになる為だから」

という言葉の裏にずっと

じゃあ、母は幸せではないんだという認識が生まれていました。

 

もうごくごく自然に。

 

だから不幸な母の娘である私は可哀想な子供でした。

 

不幸が最初にあった。

 

母という命の始まりを

子供の私は不幸でスタートするような連想ゲームで

世の中を見渡すようになっていました。

 

 

私の不幸というフィルターを通されて入ってくる母の話は

全て不幸に映りました。

母に幸せを感じる余地が私には全くといっていいほどなかったのですが

今思えば、私によって不幸に変換されただけのようでした。

 

母は母なりに人生を歩み、自分の意思を貫き

その中で楽しみを見出し、母なりの人生を歩んできた。

母はしっかりと自分の生きたい人生を、母なりに謳歌してました。

そしてその中で感じた喜びは母だけのものです。

 

私が母の不幸で、私にその責任があるように思って来ましたが

私はきっかけではあっても

核心にはなれない。

母の主導権は私にはなかった。

 

そして両親を見て私は

あんな風にはなりたくないと、

ずっとどこかで思って来ていたことも思い出しました。

 

判断して来た相手が、私を産んで育てた両親だったなんて

この時、そんな風に思ってきた自分の心の貧しさに

本当に不幸だと思った。

 

 

ずっと被害者をやっていた私の加害者は

両親や信仰だったし

でも、そうやって

あなたのせい、何かのせいを

吹っ掛けていたのは私の方でした。

 

みんなすでに

自分のしたいことしかしていなかったことに

やっと気付いた時に初めて

相手の人生もまた素晴らしいと言えるのだと思いました。

 

だから今は両親の生き方もまた

かけがえのないものだったと言えます。

それも1つのカタチなんだと。

 

 

お互いに求め合うものは違います。

母が私に求めるものは確かにあります。

そして私もありました。

でもそれは決して交わることはないと今は思います。

 

子供と親の関係こそ、肉体を通して繋がりの深さを前提に考えてしまうけれど

でもやっぱり違うのだと今は思うのです。

 

ずっと答えようとして来たんだと思いますが

答えられないのが当然でした。

私がしなければ、与えなければ母は満たされないと

その責任のようなものを感じて来ましたが

それは私には出来ないことでした。

 

出来ないんです。

母の喜びは母が作っているから。

 

そして私も同じように作っています。

自分を満たせるのは自分しかいないんだと

改めて思いました。

 

私の喜びを母にはきっと理解できないことだと思います。

母の喜びを私は理解できないのと同様に。

 

でもそれは寂しさなんかではなく

だたその違いを知っていればいいのだと思います。

 

 

私は始まりをどんなものにするのか?

 

そして口癖はどんなものにするのか?

 

これからをどう過ごすのか?

 

全部自分で決めてきたんです。

 

過去も今もこれからも。

 

 

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BS20xXiAVKB/

#松本城#桜

 

 

 

自然を撮っていたからこそ気付いたお金にまつわること&東京開催の告知

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たくさんの花が咲いていました。

 

夕暮れの光の色

今日の雲の多さで、ただでさえ夕暮れ時の少ない光量は遮られてましたが

それが良かった。

 

今日という時間はやっぱり一度きりというのを

写真という道具が知らせしてくれます。

 

 

 

 

去年あたりからぐいぐい自分を追い詰めるようなこと

特にお金のことで自分の欲にそれを使うことをし続けていて

欲に溺れるな、なんて自制と

その欲の塊のような自分との付き合いをどうしていくかを

相変わらずやっていますが

 

お金がないという事実に

弱くならなければいけない義務みたいなものが憑いているのは

どこかで周りの目の方を大切に守ってきたからだと思いました。

 

お金と人の存在はイコールにならないものなのに

なぜかそれを基準に

判断することがまかり通ってるのが社会という場所なんだと思います。

 

お金は信用だから。

 

信用を大切にするというのは、

向こう側にいる相手を大切にするということだから

それを守れないということは結局

相手もそして自分も大切にしてないことにはなるのかと思いました。

 

ここまで書いていて 

お金をなんだと思っているのか?

の問いの答えが上に書いたことで

でもそれは今の私の答えであって正解ではない。

 

そうゆう側面からお金を見てるだけであって、

お金を稼いでる人達はまた別の見方で

お金という存在を大切にしていると思います。

 

お金を稼げないことが、ずっと問題だと思ってきたけれど

そしてそれをしないことについても、責めてきたけれど

責めながらも、そうしないのは多分

働くことや仕事をお金の為と割り切って

出来なくなってきてるからのような気がしてるからで。

 

怖いものを抱えたままでも、

とにかく今の自分が気になってることはやってみる。

なぜか、そうなってしまったという言い方の方がしっくりくるのは

夢ノートのせいだとは思うのですが…。

 

心のことを頭で抑えなくなってる証拠だと。

そして、どんどん自分にしかなれなくなっていく。

やり出したら、嫌でも自分にしかなれなくなっていく。

 

もっと言うと、

元々自分でしなかないものを、否定しなくなった。

本当はそれだけです。

ずっと受け入れなかったから辛かっただけ。

 

怖いところを綱渡りしながらも

なんとかやっていて思ったことは

お金がないことで弱くいる必要なんて全くなくて

ただヒヤヒヤはするけれど

自己卑下はいらなかったということを

たくさんの花を見ながら思いました。

 

〝お金があるときの私も、ない時の私も何も変わらなかった〟

 

どこか堂々としていられなかったというのは

誰かに見られてる気がする

他者から駄目だと思われてる気がするだけで

それを責めたり、畏まったりをさせてるのは自分なんだと。

小さくいる必要なんてなかった。

その価値ははかれなかった。

殻や枠や籠がまるで壊れてしまったかのように。

 

社会という場所で、あの花のような自然を

自分が再現できるのかどうか。

 

 

 

 

 

 

写真を撮りながら、この道を自転車で通っていた職場のことを思い出してました。

好きなことを仕事にするときに、

落とさなければならないものが出てくる気がします。

相手の求めるものの為にどこまで自分を落とせるか。

 

前の職場にいたその人の売上が伸びたのは

自分のやり方を貫くのではなく、折れて周りの人の意見に素直になれてから

ということを思い出してました。

 

折れるまで、しんどかったと思います。

私はそこが折れないのだと思います。

 

諦めきれない内側の為に恐怖が優って

外側を諦めてきたから。

 

でも、今はそんな過去がダメだったなんて思ってません。

駄目でそこに挑む姿勢でいることより

なんとなく好きに触れながら

なんとなく全部やってみるでいいんだと思います。

 

好きを諦めるのはやめて、好きを続けよう

好きを諦める理由はもう作らない。

そっちを大事にしています。

 

 

そしてどんな働き方であってもいいのだと思います。

会社に所属していても、そうでなくても

稼げても、そうでなくても。

 

どこにいても

あの花のように咲いていられるなら、それでいいと思います。

 

 

自然の中に入るほど、自分の不自然さというのが浮き彫りになります。

 

自然からはあるがままを学べるし

社会という不自然極まりないシステムも

そのルールが絶対ではないというのは

自然が教えてくれます。

 

大前提の命に帰ろう。

 

 

 

 

 

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最後に告知です。

 

 

魔法の夢ノート®︎の講座が4月22日東京であります。

 

前半は夢ノート講座と後半は解説など

生みの親である岡田みな子さんからお話が聞ける機会になります。

私も作ったアクセサリーと共に参加します。

 

生き生きと自分の道を生きる方達から受ける講座です。

同じ空気を吸うのが何よりも理解に繋がるので

人に逢いに来てくださいね。

 

詳細はこちらから↓ 

www.reservestock.jp

 

 

ちなみに夢ノートについての解釈を私はこんな風にしています↓

  

ameblo.jp

感情は抑圧しない。表現することの必要と、出した後に起こること

母の不安と安心と繋がっていること

 

母の幸せと不幸せと繋がっていること

 

そしてそれらを許せないこと

 

それは憎しみにまで及ぶもの

 

私の自由はあなたのせい

 

母の愛が重くて動けなくなる

 

という感覚があったこと

 

 

 

自分のやることで母が喜ぶのを許せないという

どこかの本音を

どこかにしまわずにいました。

あえて自分の嫌だという思いを

隠さずにちゃんと見てました。

 

私は自分が幸せになるということは

それが母に関係があるということと

どこかで繋がっていて

 

そして、母に心配されることと

安心されることとも繋がっていて

母親が私のことで心配するのも、安心するのも

なんだか癪に障りました。

 

「私のことを勝手に自分の悩みにするな」

という怒りが自分の中にずっとあった事に気付けず

拗らせていたので

それが憎しみにまで繋がってました。

自由を求めるほど、束縛が派手に見えてしまう。

 


最近、憎しみや怒りのようなネガティブと言われる方があるなら

「あえて出す」

ということをしています。

それもただ表現してみるということです。

笑うのも、泣くのもできるんだから

今度は怒ってみる。

 

 

対象に直接ぶつけると

私の場合は感情がストレートに出にくいです。

どこかでそれが大きすぎると分かってるので

相手に表現できない。


頭で抑えて状態を説明し出して

理解してという方に向かってしまうので

身体で発散させるというのをやってました。

 

 

出した後に気付いたのは

母にとってはそれも1つの愛情であるということ。

決して相手はその形を変えられないこと。

なぜなら母にとってはそれが愛だと疑わないから。

そして、私がただその形じゃ受け取れなかったこと。


母の生い立ちを思えば、この愛情表現はとても普通なのかもしれない。

 

 

https://www.instagram.com/p/BSlGmSKgfQG/

✴︎きっと愛は放つもの・そしてそれは帰る見込みを持たないもの・交わることが辿り着く場所のように錯覚してしまう・でもここは、行き違いの想いが交差し合う世界・・それを残念だと思うかどうかは、また別の話・それは期待するより深く、大きく、時に残酷に思えるのは.こちらが限定するから・自分の中のものを誰よりも信じ続けられること・通じ合い、分かち合うその瞬間に感じてるものさえ・相手も同じに受け取るかは想像し得ない・心の中を見ることができるのは自分だけだから・でもその瞬間が確かであると信じられるならそれは・他者を通して自分の心を何よりも大切にしてる証だと・#写真#日常#気付き#ブログ更新

 


そしてこの時期にもう1つ分かったこと。

 

ずっと、母が不幸だと勘違いしてきたこと。

 

これは長くなるので、次の機会に。

 

 

 

弱いままの私で、続けてみる。

相手が私をどう見てるか?

 

それにいちいち反応する自分が居ます。

 

些細な場所でもそれを気にする自分がいます。

 

例えばそれは

お店での店員さんの接し方から始まります。

 

日常の中での自分と他者との関わり方は

人の目を気にして

今の自分は嫌われているのではないか?と

自意識は過剰に反応していたりするのです。

 

それ程、自分自身でいることに

自信がなかったりする瞬間は今でもやってきます。

 

 

相手という存在からの拒絶を何よりも恐れて

それは孤立する事を何よりも恐れているから。

 

私から一人ずつ離れていく事が怖くて、

最後には周りに誰もいなくなってしまうのではないか、

誰も私の存在など忘れていく。

 

自分の存在価値に関することです。

 

私は今でさえ、やっと自分で満たせるようになった自分も見つけましたが

 

自己否定も出てきます。

 

でもそれは、きっと自分のやりたい事をやっているからだと思います。

 

何も起こさなければ楽でいられる環境にずっといられるような気もします。

 

それは苦しむ機会が訪れるのを避けていられますが

心は徐々に活力を失っていく感じがします。

 

でも、やってしまうと

まだ潜んでいた自己否定があぶり出されてきます。

 

苦しんでいる、ということは

私は自分自身の存在を

どこかでまだ否定しているという事。

 

相手にどう見られるか?という恐れがあるその奥に

私自身が自分をどう見ているのか?

何を禁止しているのか?

 

恐れが出るということは

自分が自分に制限をかけているサインです。

 

こうしてはいけないと

こうでなければいけないと

 

それができない自分に強い否定が働くから

対立があるから

外側に怖さを見ることになる。

 

感情とはまた別で

全て自分が自分にしていることです。

 

 

そのきっかけを与えてくれたのは友人でした。

 

 

私はある出来事から

彼女の行為を最初は受け止められず

ショックを受けていました。

 

それは彼女から拒絶されてしまったように感じた出来事でした。

 

でもきっと

彼女も言うのをためらいながらの

私へのお願いだったと思います。

 

でもそれをただ受け止められなかったのは

私にとってその人が特別だったからです。

 

大切だからこそ、心は激しく動くのでした。

 

 

そこでは色んな想いが出てきました。

自信のなさや不安でいっぱいになる。

 

悲しみや寂しさだけではなく

 

自己否定がそこに出てきました。

 

そうゆう自分に対してのダメ出しの時間

 

それが苦しみ。

 

 

 

でも私は、そこで

自分が愛されることしか見えていないのだなということが

ただただ見えてきました。

 

自分がやる事に対する相手の反応に

いつも良いものでないと不安で仕方なくなるというのは

 

相手がどう反応するのか

その自由を奪うことになると。

 

相手は相手の事情があり

それを私は、相手の一部分だけを切り取って

こうに違いないと自分の存在と関連付けて

勝手に自分で傷ついているのです。

 

自分のことで精一杯になって

相手のことなど全然見ようとしていませんでした。

 

相手の反応に動揺しないようにしたいのではなく

 

「相手が見せるどんな反応もそれでOkだと。」

 

それは私から相手が離れていくことを含めるということです。

 

自分が傷付く恐れをみようとするのではなく

相手の視点に立つことを忘れずにいたいと思いました。

 

 

傷付く機会を作ってるのは

いつも自分である事。

 

それに疲れた時に

 

分かる時は来るみたいです。

 

 

自分を知る度に楽になれるから。

 

 

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