不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

痛みと苦しみの時間とどう付き合うか

 

苦しまない人生ってもしかしたら潔癖かもしれない。

なぜそんなにも嫌ってきたんだろう。

自分の中のことなのに

怖かった、出会いたくなかった。

 

今をどうにかするために

変えようと取り組むのが当たり前になってしまってから

 

苦しんでるそのとき

 

いつも自分の中にある「何かが悪い」があって

それと戦っている。

 


苦しみの機会も痛みの機会も

それを感じるなら

そこから逃げない覚悟しよう。

 


自分の中で起こるその苦しみが

こんなにも嫌だから

変えようとしてきたけど

 


自分の苦しみにyes

不満にもyes

文句にも、責めることにも…

 


私の中で今そうやって

yesの私を増やしてる。

 

今までみたいに楽しさや、嬉しさや、美しさや

そちらこそが賞賛で祝福だった。

 

でも元々私は

その逆がたくさんあった。

 

だから私の中にたくさんの悪いが出来た。

 
でも、それは

もう片方の自分を嫌っているということ。

 


媚びる、見張る、恐る、敵対、苛立ち、悪口、厳しさ、醜さ、逃げ、ズルさ、不安、失敗…

 

 

それらと出会わないようにコントロールする人生

環境を変え続ける動機。

 


私が嫌う者たちが私を支配してもいいんだ。

ずっとそれをどうにかしようとしてきた。

支配から逃れようとしたり、そのカタチを変えようとしたり

溺れたり、戦ったり…

 

一度も立ち止まってちゃんと見ることもなかった。

 

 

それくらいあって良いことにはしてこなかった者たちを

私の中でyesにしたら

 


いつも感じる幸せの感度がぐっと上がって

涙さえ出てくる不思議。

 

 

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苦しみがある時はそこに

争いがあり

拒んでいて

抵抗してる。

 

私が私であることを否定してる最中に苦しみがある。

 

 

 

 

 

見えない方の在り方や姿勢が現実を作ってると思った話し。

 


ミスが続いた時

結局はそれさえ自分が呼び込んでたりすると思ったこと。

だから自分がダメとかではないけど


元々抜けてる所(おっちょこちょい)があると自分のことを思っていて

だから、そんな自分だからしょうがないことにしていたこと多々ありで。

 


これは最近あったこと。

 

仕事でミスが続いていて

キツめの指導が入るようになっていた。

 

嫌だなと思いつつ、

それは怒られることが

「責められる」だったからだけど

 

そこには自分が悪いがあって

でも新たに見つけたものもあって

それは私なりの正しさを隠し持っていたことだった。

 

今まで怒られる時に自分を省みることがほぼなかったのはそのせいだった。

 

いつも自分は被害者で、

怒る側を加害者として見ていた私は

どこかで自分のしたことを忘れて

相手が自分にしてくることばかりに目を向け

そして自分は〝相手のせい〟で傷付くようになった。

同時に自分を責めるようになった。

 


でもその裏に自分にしたことに対しては

しょうがない、治らない、だから何もしないだった。

この在り方に気付かなかった。

私は自分をしょうがないことにしてる。

 

抜けてるからしょうがないとしてる時には謙虚さではなく、

傲慢という姿勢があった事には気付かなかった。

 


抜けてるというキャラクターに加え

人を恐れる事を過剰に感じるということは

私には変えようがない事実で理由になっていた。

 

でもそれは見方を変えれば、私の正しさということだった。

 

抜けてるからしょうがないがあると

自分が起こしたミスは

自分にはどうしようもなく変えることができないもの

になっていたけれど

今いる場所では、その抜けてることも恐れていることも許されなかった。

 

というより、今回は許されないほどの頻度でミスが終わらなかった。

それが起こった事実。

 
私は今までのように、そこから退くことを考え出していた。

自分にはもう出来ないからしょうがない、と言って。

 

でもそのしょうがないを許してるのは

私だった。

 

この仕事だから、この給料だから、この役職だから

この程度でも良いという在り方。意識。

色んな理由があるにせよ

その意識がミスを量産してたりするとは思った。

 

 

だから良い悪い、を始めるのをやめて

 

 

怒られることも「責められる」と悪いことにせず

既に起こってしまったミスも責めず

これから入る指導の時に

私のミスに対して、何を言われても構わない

ただ相手の話を素直に聞いてみようと思ってから

その機会に望む事にした。

 

自分にはどうすることもできない抜けてる事も

恐怖がある事も

理由として主張するのをやめることにして。

 


相手の言う事を

考えてることを思っていることを

何ひとつ否定せず、ただ聞いてみる。

 

 


その時の会話で怒られるという事は

起きなかった。

 

私というキャラクターのままで

でも、どうすればいいのかを

何をすればミスが無くなるのかを

共有する事になった。

 

抜けてる事も、怖い事も

だから出来ない理由にするにではなく

それを持っているからこそ

やれる事を探すという作業を他者と共有する時間になった。

 

自分のウィークポイントは悪いで終わらず

それを何も変えず、しかも公になって、そこで続ける事になっている。

 

ちょうどそんな時に目にした言葉があった。

f:id:haruradio:20180215105115j:plain木下 空さん。

kinoshitahiroshi.com

 


私は今まで自分の中にある厳しさが

全く機能していないと思った。

 

〝厳しさ〟この言葉のイメージは

私の中で単に責めるという

いじめのような危険な存在でしかなかった。

 

だから外側にいる厳しさを感じた人達が

私を責める危険な人達になっていて

自分にも相手にもそうする機会が許せなかった。

それを垣間見る度に、怖くて怯えていた。 


こちらから相手に要望や思いを何かを伝えることが

相手を傷付けると想像するのは

自分がそうされると傷が付くから、という理由がなければ

その想像もできない。

 

だから自分の思いをただ伝えることが恐れになって

ただ伝えるそのことが

難しい事になってしまった。

 


沢山の痛みが私に中にはあって

でもそのどれも嫌わないで、でる自分を責めない。

 

そうやって痛みの海を泳ぎながら見えるものもあって

 

傲慢も謙虚も甘えも厳しさも優しさも冷たさも美しさも醜さも…色々

 

そうゆう相反するものの両方を

ただ経験する事になる今だったりする。

 

 

 

弱さや惨めさが出る時に


過去を振り返ってみたら

自分の弱さも、惨めさもドバっと出てきた。

 

それに浸ってたら簡単に涙も出る…、出せるが正解かも。

 

そうやって自分から悲劇をよくやりに行ってたりする。

 

そこにはストーリーがある

可哀想な主人公というストーリー。

 


でもそんな時は大概、「誰かのせいで」がある。

 

あなたのせい、お前が悪い、などなど…。

 

だってその相手がいなければ

自分が可哀想という立場を取れないから。

 


でも、

そんなストーリーでいいの?

 

自分の見てるその過去も、自分が作った過去だよ。

 

あの時の自分が全部選んだ。

相手も環境も許可して。仕方ないと言いながら自分が許した。

 

そして今その過去を見る時

あの過去を惨めで受け止めるなら

今の自分もまたそれを継続することになる。

 

だから可哀想な被害者を辞める時は

新しいストーリーを作らなきゃいけない。

 

今の自分が何度も書き換える。

 

何度も弱さや、惨めさや、可哀想でいることに戻りそうになるけど

 

でもその度に何度でも。

 

それでいいの?って自分に聞きながら。

 

 

それで、その惨めさも、弱さも、可哀想も

ごっそり抱えながら。

 

そんな自分さえ悪くはしない。

 

そこは男前にごっそり抱えて。

自分の弱さも惨めさを捨てるとかじゃない。

 


何か終わったからここに書いてるわけじゃない。

何か解ったからここに書いてるわけじゃない。

 

強くなったから出来るんじゃない。

変わったからやるんじゃない。

 

弱いまま、変わらないまま

 

何も捨てないで、その自分のままで

どうしようもない自分もいるままで

 

自分のしたい事をやる。

 


今その現実も自分で選んだものだって

しっかり自分で掴む。

 

惨めだ、なんて言う時は他を見てる。

そこには比較があるから。

 

あの人にはできて

自分には出来ないって。

 

その人は幸せで

自分は惨めだって。

 

人の成功や喜びを見て自分はどうせと、

その反応をいつもしてること。

 

〝そんな時こそ気付いてほしい〟

 


あの人が今喜んでいることの方を

その人が笑っていて幸せなことの方を

ちゃんと見て欲しい。

 


誰かの成功や幸せを一緒に祝うこと。

 


それを忘れてる自分に気付いて欲しい。

 


そしたら、

あの人が上手くいってるのだから自分なんて

ではなくて

 

あの人が上手くいってるのだから私もと

思えるから。

 


みんな一緒に幸せになっていい。

 


でも、幸せのカタチは一緒じゃなくていい。

 

そのデザインは自分でできるものだから。

 

 

 

 

 

 

検査。


最近、少し心がクサクサしていた。

 

女性の大事な部分の様子がおかしいから

検査に行っていた。

 

母も、またその姉も、女性特有の癌を患った。

 

母の姉はその事に直面するのを避けて

手遅れだった。

 

母の子宮を私はこの目で見て

術後の母の胸の傷をこの目で見ていた。

 


ちなみに当時はそれを記録していた。

注:結構な悪趣味

 

haruradio.hatenablog.com

 


そして当然だけど

私ももしかしたら…という思いがあった。

 

でもその事もそうだけど

以前に自分がしてきたことを思うと

自分のその子宮という部分にとても申し訳なさが残った。

 

受け入れる器であるその部分はきっと

傷付いていたのではないかと

後ろめたさのような思いがあったから。

 

私が確かに自分で選んだあの過去は

正しかったんだろうかと

今でも疑問に残ったりもする。

 

それは好奇心で、それとも経験が欲しくて、それとも心があって、それとも…

 

今その過去は、決して悪い事にはなっていないけれど

綺麗な思い出だけが残ったわけじゃなかった。

 

だからそれで良かったとは思っている。

 

綺麗だけじゃないから

色んな思いに自分が掻き乱されて、本当にいろんな経験ができた。

 


でも心も身体も今まで生きてきて

実際傷も自分で付けてきたから

本当に色んな負担をかけてしまったに違いないから

今更申し訳なかったと、

 

優しいスタッフさんのいる綺麗なクリニックで考えていた。

 


それでカーテンの隙間から入る西日に照らされて

白い待合室にかかっていたインスト曲がこれだった。

 

 

米米CLUB/愛してる (1995) - YouTube

 これはついで

LOVE LOVE LOVEーDREAMS COME TRUE - Dailymotion動画

 


なんだかとても癒された。

正直、今までそんな風に感じた事もなかった曲だけど。

 

「愛してる」

 

なんて、いつも嘘くさいと思っていながらも

それをまるで良さそうだから使うようにしていたくらいに

縁遠かった言葉。

 

愛さなければいけないわけじゃないし

でも、本当は知りたいとは思っていた。

 


それはどんな事なんだろう?って。

 


私はまだそれを知らないのかもしれないし

生きてるうちに知る機会があるかもわからないし

もしかしたら既に知ってるのかもしれない。

 

それはなにも男女の間だけのものではないんだとは

感じていて

きっと自分で見いだせるもので

 

だってそうでなければ、

この曲を聴いて泣きたくなるような暖かい思いになんて

包まれる事もないだろうから。

 

私の過去は、なにも悪くはならなかったね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何もかも上手くいかないと思う時

 

何もかも上手くいかない、そんな時

 

本当はほんの少しの上手くいかないを

何もかもと言い換えていたりするのかもしれない。

 

ほんの少しの何かがあって

それをまるで大きな出来ないに繋げたりしてる。

 

試して、ダメだった。

試して、ダメだった。

それでも試して、やっぱりダメだった。
.
.
.

 

そんな時こそ見て欲しい場所がある。

 

それの何がダメだったんだろう。

 

それはカタチにならなかったから?

損だけしたから?

どんどん恥ずかしく感じるから?

 

そんな経験ができる

自由さが、平和さが、時間が、体の健康がそれらの土台が

〝ある〟事を思い出せない。

 

何もかも上手くいかないと絶望する。

自分はダメだ、とか

どうせ自分は、など。

 

そこを見てるのも、そう言うのも

自分しかいなくて。

でも先にそんな風に自分を見てるから

そっちの方が外に漏れてて

その自分が人に伝わる。

 

〝他人は自分の鏡〟

 

なんて言葉はずっと傍に置いていたけれど

最近そのことを意識して相手を見ようとした。

 

 

 

 

それで、話を続けると

意識しないと〝ない〟所を見る癖が育っていく。

 

そんな時ほど

細かく〝ある〟を探すタイミング。

 

それでもご飯が食べられること、その体を使って、頭を使って

取り組めたこと、生きていることが維持できているこの環境

見る、読む、聴けること色々、今もできていること沢山。

 

絶望を感じる程

一瞬目が眩むけど

酷く落ち込めるその感性がある程

そうゆう当たり前が有難いことだと気付ける感性の方とも

繋がっていたりする。

 

 

自分がダメだと力を無くす時

 

 

その理由はどんどん簡単になって行く。

大きな理由に挫かれても、小さな理由に挫かれても

結局やめるなら同じこと。

 

何かが起きてやめることに慣れ親しんでいると

「上手くいかない」という方のハードルがどんどん低くなる。

「上手くいかない」を簡単に沢山許す。

 

低いハードルを沢山飛んで


それは力を無くす練習をしてるのかと思うほど。

まるで力を無くす筋肉でも付けているみたい。

 


そして、その力をなくした落ち込んだムードに

簡単に流されていく。

 

感情に流されて、どんよりした世界が広がる。

そうゆう日常を、パターンを自分の普通にする。

 


それは本当にどうしようもないもの?

なんだろうか。

 

自分にはどうすることもできないもの?

なんだろうか。

 

自分にはそんな力はない?

んだろうか。

 


前の私は確かにそう言っていた。

 

どうしようもなく、大きなもののように思えて

 その感情に流されていたから。

 

と言うよりも、それを許していた。

 

こんな私だから

弱くて、力もなくて、諦めるしと自分に声をかけ

それは仕方がないと

私が1番最初に私を諦めていたから

当然と言えば当然なことなんだけど。

 

その声がけの種類もずっと同じだった。

 

でもそれは

例えば勇気付けることやポジティブでいることや

パワフルで元気でいるそのことが胡散臭いとか

根底でバカにしていたからだった。

 

結局は、自分が成りたいものは既に今やっている

ということだった。

 

人からどう見られるかの方を自分より何より大切にしていた。

 

 

 

それで今はと言えば、

慣れ親しんでいたものに戻りやすい時に

 

 

どんなムードで過ごそうか?

 

 

そうやって自分と相談して

居心地の良さを選ぶ筋肉を付けてるんだったっけ。

 

いつだって何もしなければ、過去に親しんだ自分

社会の普通、みんなのムード

それらの影響に簡単に呑まれてしまうものだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

傷付くこともそれを嫌わなければ、いずれ慣れていく


傷付くことを恐れていたけれど

傷付いても大丈夫だと知っていく機会を

最近まわりからもらっている。

 

傷付いても死なないから、大丈夫。

傷付くなんてきっとそんな程度

でも、そんな風には思えないのが人の常。

 

そしてその傷や痛みは

自分のもの。相手のせいじゃない。

 

傷付くことを必死に守っていた時よりも今の方が

傷付く様な場面が多くなっていたりする。

 

それに影響を受けながらも

 

次を向けるまでの時間が早くなった。

 

以前の私なら、

〝何もないのに〟

一点集中で気分が落ち込ん出る状態を

何時間も無駄に過ごしていた。

わざわざ落ち込みを増幅させるかのように

依存的にカフェに行ってたのはそのせいだった。

 

〝何もないのに〟

未来の不安や自己否定や

自分のやってることへの低過ぎる評価が止まず

重い感情に引っ張られて、戻ってこれなかった。

 

そう言えば、過食もしなくなった。

ストレスを軽減するためにするドカ食いが減ったのだ。

 

今の方が結構キツいことが起こってるはずなのに

心は都度都度傷付いたり、焦ったり、怖がったり…

でも、悲観的でいる時間が少ない。

 

さて、どちらが幸せと言えるのかと言えば

間違いなく今の方だった。

 

〝何もないのに〟

傷付くことを恐れてそれを避けていた時の方が

あれこれ起こる不安を募らせていて、

まるでそれが起こっているようなことばかりを想像していた。

 


だったら、

それが起ころうが起こるまいが

同じに思えた。

 

ちなみに

〝何もないのに〟とは

例えば、まだ起こってないことを心配したり

他の人が自分にしてくる関わり方が

まるで自分を否定してるように見えたりすること。

でもそれはそう見えるだけで

その人から実際に何かをされてる訳ではなかった。

 

 


今はあの時のように

何かが起こる未来への不安や恐れや

自分のやったことの後悔(過去の添削)や

そうゆう答え合わせや正解探しに時間を使わない代わりに

 

自分が今やりたいことの時間に当てることができるようになった。

 

そうゆうことを自分に許せるようになったと言う方が、

正しい表現かもしれない。

 


起こることはどうせ起こる。

 


でもそこで自分は何を感じてるのか?

起こったことで、自分の中にどんな感情が出るのか?

みんなその起こったことや出来事や相手ばかりを見てしまう。

そうやって何か外に原因を探したり

頭で考えてしまうけれど


まさに落ち込んでるその最中に

痛んでるのはどこで、誰で、どう痛いのか?

自分の方を見る大切な機会だってことを

忘れないようにしたい。

 

だって、痛んでるのは自分自身なのだから。

痛がっているその自分を見ないで、痛んでるその部分も見ないで

その痛むきっかけが自分の方になければ

その痛みさえ起こることもないのだから。

 

 

その痛みの面倒を見るのは

私しかいないのだから。

私がその痛みの原因なのだから。

 

そして「だから悪い」ことにはならないからこそ

そこを見ることが出来るのだから。

 

 

傷付くという機会にオープンでいるほど

結果として自分を第一にできるようになってくる。

 

何かを避ける生き方ではなく

それと共にある生き方。

 

 


心は常に揺れ動いている。

 

きっとそうゆうものなんだ。

 

安心と安定が続く中で

 

心が触れず、止まってしまっていたあの時に

 

私が求めたのは情熱だったから。

 

 

 

傲慢だけにはなりたくなかったのに、まさにそれだった件について

負けられないは謝れない。

その傲慢さを認めたくない。

 


私にそんなものがあるなんて…

とも思ってないのが普通。

私そんなもの持ってませんよって。

私に限ってあるわけないでしょ⁈って。

 

でも、私こそ傲慢で相手をコントロールしようとしていた張本人。

 

その立場や在り方に、気付いてからも

同じように負けられないと自分の正しさの剣を

振りかざし

弱さという盾で身を守ろうとする。

 

その繰り返し。

 

そうやって身を守って生き延びたのだから

消えるでもなく。

 


戦闘または防御態勢になるのが私のコミュニケーションの基本姿勢だったなんて。

 


〝謝れない〟なんて人の話は

自分には関係がないと思ってきた。

そんな人たちを駄目だなぁ、なんて他人事で聞いてた。

 

私はちゃんと謝れるよと。

 


とんでもなかった。

 


相手の正しさや知っているということに

反応するのは

 

それを見つけて、やっつける

という戦闘態勢が私の方にあるからだ。

 

土俵にあげてるのは相手じゃなくて、私の方だった。

 

険悪モードなコミュニケーションを怖がっているけれど

怯えながらいつも私は

それは違うと言って覆そうと機会を狙っていたし

相手の問題を解決して〝あげよう〟としていた。

まさに傲慢。そうゆうコントロール

 

でもそれは私こそ知っていたかったから。

 

だから相手が私よりも知っているということが

許せない瞬間に苛立って

同時に恐れていた。

 

かなわない相手にはひれ伏すようだった。

 

そしていつだって

相手が先に剣を抜くからだと思っていた。

 

それはいつも相手のせいにしてるという事だった。

 

でも自分はいつも自分を駄目だとして自分を責めているから

誰かのせいにしてるなんて想像もつかない。

 

 

外は危険だというその前提が過去に起きた。

それから他者との関わりに

危険が起こった場合を常に想定して

だから、丸腰でなんていられなかった。

 

これを言ったら嫌われるとか、

〇〇したらどう思われるとか、

その他色々、

 

自分の最悪のケースを回避する為に

その最悪を先取りしてる

ガチガチの戦闘態勢。

 

その頭の中の一大妄想劇。

それしかないのかというほどオチが

「自分は被害者」というワンパターン。

 

誰かとの間において何かが起きれば、

自分はきっと傷付くであろうという不安がいつもあるからだった。

 


そもそもその劇場は本当だろうか?

 


自分が傷付くことだけを見て
それに見合うストーリはいつも相手が強く自分は弱かった。


自分のせいだとしながら私の方が、人を悪にして責めていたし

怯えてしまうのも、傷付くのも放っておけず

その弱さを誇張するような演出の劇場しか見たことがなかった。


でも感情は治す類のものではなかった。

涙とか鼻水とか生理現象かって位に

出るものなのだった。

 

傷付くだろうと今を不安に過ごしても

どうせ傷付くんだから

その不安は取り越し苦労だった。

 


ここまで書けば
ちっぽけで傲慢な私が良く分かる。




傲慢で、怯えやすく、正しさでムキになるちっぽけ

色々

 

でもそれを傲慢と決めて意味を付けて

いつもそうやって何かを悪くしてるのは

今日もどこかにありはしないかと探してるのは

私の方だった。