不器用さんの幸せエッセイ集

幸せは見つけるもの✴︎感じるもの✴︎選ぶもの✴︎決めるもの✴︎喜びを生きる為に経験をoutput

疑いかそれとも信頼か?過去を変える今というチカラ

 

私の過去は

例えば今から誰かにそれを言葉として伝えるとして

 

それは酷いものだったと今言う事も出来るし

それは愛されたものだったと今言う事も出来る。

 

起きた事実は淡々と一つだけ。

 

でも、経験した人の数だけの過去は生まれ

しかも時間によってそのカタチも変わっていく。

 

素敵な過去か、それともひどい過去かは

同じ場所、時間、人がいたとしても

同じではなかった。


過去をどう思うかは

その時の感情が関わっていて

 

気持ちの良い晴れやかさを感じたなら

それは良い過去になってみたり

それと全く反対の感情を抱いたなら

それは悪い過去になってみたり。

 


感情は手には取れないけれど

 

体はそれを表してくれる。

 

強張った表情

早くなる息

笑顔

緩む体

 

 

心に抱いたものを体は素直に正確に現して、嘘がない。

 

頭はややこしくしたり、良いと言ったり、やっぱり悪いといい直したり

隠したりする。


そうゆうものも過去の材料になる。


それともうひとつ、大切なことを。

 


そこに疑いがあるか

信頼はあるか。

 


ちなみに私はいつの時も疑いが常にある。

これはもう出てきてしまうから

それをどうにかするのはもしかしたら一生かかりそうで

だから、放って置くことにした。

 
この事はまた別に書くことにして(多分…)

 


疑いは頭で発生して後から出来たもの。

いつも周りの目を気にしている。

 

信頼は最初からそこにあって

心が知ってる。

 

 

私がある一つの経験から感じた感情は

優しさから始まり絶対の信頼を感じていたけれど、

それは常に疑いを通して見ていて

嫉妬や、物乞いのような気持ち

ひどい自己否定や、か弱く力のない自分なんかが

出てきた。

 


その感じた感情だけ見れば本当に酷い過去だった。

 


でも私が経験したあの過去は

とても愛されていた

と言う事にしている。

 


言い聞かせているというよりも多分

最初に自分が感じた信頼を軽く見なかったから。

 

疑いの量は以前とは相変わらず

でもちゃんとそこにあった〝自分の中〟の信頼の方を採用することにした。

 

実は、そこに相手は関係なくて

だから相手はどういう過去になったのかを

私は知らない。

 


ただ、それでも私は信じるという事だった。

でもそこに期待はなくて

それは相手の選択のおかげかもしれない。

私にそれをさせてくれない程離れてしまったから。

でも、だからよかった。

全て自分に矢印を向けることができたから。

 

それを実感する程、

相手の選択や存在、その今全てがギフトに変わっていく。

もちろん、最初からそうだったわけじゃなく

相手の幸せに憎しみだってあった。

 

だからこその〝gift♡〟であって

私がした恋に私が嬉しいと言えた瞬間に

初めて〝gift♡〟として受け取れるんだということを知った感じ。

 

 


そして、その信頼を取ることで

疑いばかりを見ていた過去のやり方ではなく

疑っていたまま信頼もはっきりとあることにしたら


それはいつの間にか私の生きる自信になった。


そして愛されていたという事の証拠集めはしなくなった。

 

信頼を感じていて、愛されていたことを

自分1人だけが分かっていればそれで良いからだった。

そして、その過去に感じたもの汚いもの全てを

自分が大事にしようとしたからだった。

 

 

私は今、何もない。

 

見た目が変わったわけでもなく、何か大きな業績を残したわけでもない。

生活が変わったわけでもなければ

ましてや、ひとりで愛されたと言っているだけで

愛された証なんてどこにも残ってない。

 


もしかしたらとんでも独りよがりかもしれない。

 


でも、それでも良いのではないかと思うようになったのは

信頼を採用した結果かもしれない。

 


ずっと相手の方、周りの方を気にする事をやめられなかったから。

 

嫌われることが怖くてしょうがなかったから。

 

今は、好きになったその相手に

嫌われても良いと思えるようになってしまった程で。

 


今までその疑いを自分ではいけないと思うことが多かった。

信頼できない事を嘆いていた。

 

それらを私の中の問題と捉えて

いらないゴミと化した邪魔なものとして

見るようになった。

自分の中に留めて置くことが難しくて

捨ててしまいたかった。

 

疑いを始め、他にもそんなのはたくさんあって

 

それは私の外に見える今の便利で

物に溢れて

要らないものはすぐ捨てられる世界の様子と

同じように見えた。

 

 

でも今

その捨てられようとしてる方を

私の片割れとして

認めていく作業を繰り返している。

 


昔の人は循環の中にいた。

排除して、なかったことにするという発想ではなくて

全て土に還すというやり方に沿っていた。

食べたものは体を通して糞尿になり、死んだ肉体も

それらは肥やしになり土に還り

それがまた地球の栄養になる。

 

それはおぞましさや醜さに触れる機会が今よりも常

という世界だと思うわけで。

 

汚いものは臭うし危険だから遠ざけられるけど

 

臭いものであればそれは危険を知らせる為だし

恐怖が備わっているのも生き延びる為のように思う。

 

そうゆう事を考えた時に

私の中にゴミとされ捨てられる部分なんて

本当は一つもないように思えた。

 


今の便利な世の中に生きる中で

私の心の中はいつの間にか

争いや、苦痛や、白黒付ける判断に

明け暮れるようになってしまった。

 

危険なものも悪いものも汚いものも

あるのにない事にするという作業は

苦痛を伴い、対立がある。

 

 

でももし目には見ることはできないけれど

自分の中を循環と捉えるなら

不快な想い程

自分側を疑った方がいい事になる。

 

汚いとされる部分程、土台を支えているなら


その悪しきと頭で判断されたものについて

それを感じた機会の方を私は大切にしたい。


相手はいつも私の存り様しか見せない。

相手の存在や選択のまま、それのどこに自分が反応するのか

私が見るのはいつもその部分。

外の世界には何もない。

 

何かするのは相手にではない。

許すのはいつも自分しかいないように。

 

私が世界にすることが世界から返ってくる。

 

https://www.instagram.com/p/BbYjakGl4NP/

#天使の階段#angel's stairs#ブログ#過去#薄明光線#畑#自然#地球#循環#分離 「あれは天使の階段って言うんだよ」と教えてもらいました。車の中で撮った一枚。

 

 

 

 

不自由を自由に決めてる今

 

私は普段、テレビはあまり見ない。

 

帰省中につき、自分の生活は両親の雰囲気に呑み込まれていたから

テレビの音も生活の1つになっていて

 

煩いと思いながら聞こえる朝のニュースから

タンデム自転車に乗る障害を持った男の子のことが流れてきた。

 

この話しを簡単に要約すれば…

 

体が不自由な為に、引きこもりがちの男の子のお母さんが

それを心配して

何か彼にとってきっかけになればと

タンデム自転車の体験会に申し込んで

 

男の子は怖がっていたものの

勇気を出して乗ってみたら楽しくて

 

普段の引きこもりがちの生活も

その経験を境に、

積極的に行動していく様子が映り出されていた。

 

と、内容はざっくりそんな感じで


詳細は下のアドレスのページの

ちょうど真ん中あたり

 

f:id:haruradio:20171108111633j:plain

 

 NHKニュース おはよう日本[字] 2017.11.06 – Mediacrit

 


最初に自転車に乗ることへの恐れをその彼は

死んでしまう程だと表現していて

 

ああ、彼の恐怖は

表情だけでは汲み取れない程の深さなんだと思った。

 

脚が動かせない身体の不自由さから生まれる制限は

心の制限も作ってしまう。

その不自由さを私は知らない。

 

ありがちなストーリーだとどこかで思ってしまっていて

でも、そのひとつひとつのストーリーは

その人にしか経験できないかけがえのないものだろう。

 


話しを戻して、

 

彼はその恐怖のまま

周りの大人達のサポートの元

最初はなすがままに自転車に乗せられていた様子だった。

 

そして、実際自転車に乗って

風に靡く様子が映し出された時の表情の変化。

 

まるで初めて〝風〟というものに触れて

それを感じて

その風にでもなったかのように溶けた

彼の表情といったら…。

 

TV画面の映像と音に触れてるだけの

赤の他人である私なのに

涙まで出てしまう。

 

形のない自由な想いに触れて涙が出たんだ。

 

乗れたことや勇気もそうだけど

そこで得られる喜びに触れた。

 


まるで赤ちゃんと同じ。

 

この世に降り立って、初めて触れる地球の感覚みたいに

見るもの感じるものに新鮮でいること。

 

できることが素晴らしいというよりも

それは大切なこと。

 

備わってるこの感性の気付いてますか?と

尋ねられたみたいに。

 

備わっている感性を無駄にしない使い方。

 


彼の姿に触れたら、普段ポロポロと見落としまくりなのを痛感する。

 

太陽の温かさや眩しさの中を

歩ける喜び

 

この体を通して、色んなものを感じられること

 

物も豊富にある時代の中で

ここが地獄か楽園かの違いを作れる程

見てないことばかりだった。

 

体が健康であっても、

心の制限も闇もキツくて深いのが現代だと言うのなら

 

その制限や闇の外が、いかほどか知った時の

開放感と光は神様級かと思ってしまうわけで。

 

いかに暗いか分かるから、どちらも捨てられない。

 

 

どんなに体が健康でも、自由でも

経験したことへの反応を表現できる素直さがない心の制限は

人を死に追いやるほど。

 

手に触れられるものは

触れられないものによってそのカタチが決まる。

 

物理的な制限をどうにかするより

精神的自由を先に許す試みを

諦めないでいたい。

 

 

f:id:haruradio:20171108114325j:plain

 

 

 

 

徒然

髪を切る理由って単に伸びたから

だけじゃないと思ってる。

 

思い出ごっそり削ぎ落とすには

やっぱりいい気がして

 

敢えて自分にすることとして自分で選んでるよって

自分でわかってることがいいというか。

 

気分転換。

 

もう終わり、はい次ってするのに

目に見えない気持ちの決意を

目に見える形で表すことは

気持ちを後押しする。

 

そんなことしても変わらないでしょ。って

頭の声で諦める言葉ばかりじゃ

人生もったいない。

 

 

ところで

 

東京は人が多い。

 

 

この公園も、初めて来た時は

こんなに人は居なかったけれど

でも、今もこの場所はいい場所だと思えるのは

変わらない自分の気持ちだけを大切にしてるから。

 

人の多さに嘆くこともできるけど

そんなこと、きっとしたくないんだろう。

好きが続く理由は、自分の豊かな気持ちを

忘れずに何度も思い出すこと。

 

あの美味しい味を思い出そうとするみたいに。

 

 

 

私は東京にいれなくて、ここを離れたんだと思ってる。

 

今だに過去と同じような人への恐れは出て来るけど

今はそんな自分をどうにかしようなんて思わなくなった。

 

ずっと心の隅で

変われた私を誰かに報告したかったけれど

 

そんな必要ないことがわかって来た。

 

恐れなくなったら

自信がついたら

もっとこんな私であれば…

 

なんてことを

東京にいた時からずっと考えて

〝今〟の自分に満足したことはなかったけど

 

自分に力がなかろうが、弱かろうが、ビビりで何も出来なかろうが

それを自分だけが分かってあげられればよかったんだね。

 

 

変わろうとしなくなると

変わろうと思う方法も責めることもなくなって

そこに向いてた矢印はどこへ行くんだろう?

 

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BbJJrERlJIp/

#公園#好き#秋#人#おひさま#水#park#スワンボート

 

 

 

そうそう、

お世話になってる美容師さんが

いいことを教えてくれた。

 

「好きなものをハッキリさせて

嫌いなものを曖昧にする」

 

 

 

開け放ったドアのように

出入りはいつでもどうぞと

言えるセンスの良さを育てるには

人との関わりは無視できないな。

 

 

 

 

 

 

ちゃんと出来てるって、自分が認めてあげるだけでいい

 

f:id:haruradio:20171102105804j:plain

 

ある人は、あの空を高い空と呼んだ。

わたしは、吸い込まれそうだと返した

 

秋の空。

 

人それぞれ同じものを見ても

同じには見えないんだ。

 

その時、同じ場所と同じ時間にいて

それぞれ中で感じていたものが

どんなものかはカタチは知らないけれど

 

良いものをわたしは感じていた。

 

同じものを前に違う種類の感動があったなら

それは嬉しい。

 

同じことをしても、中で一人でこんがらがると

外が上手くいかなかったり、悪く見えたりする。

 

自分の中の状態が、外の風景を決めてるみたいだった。

 

 


ずっと自分の場所ではない、誰かの生活圏で生きていて

そこでは「お世話になっている」ということが

「自分には力がない」

という理由と結ばれていたように思う。

 

自分のテリトリーではなく

相手のテリトリーの中にいる事。

 

そうゆうある種の抑圧から解放された時に

今までもしていた

ただのありふれた生活が

 

家があり、布団があり、何時に起き、自分の着るもののことや、体を洗うことや

食事はどうするかのこと

 

そうゆう毎日のことを

ちゃんと自分でできていたという実感が感じられた。

 

そんなの出来て当たり前なんて、今はあまり言えそうになかった。

 

そうゆう自由が

今までもずっとそこにあったことに感謝した。

 

求めるうちは気が付かないのは相変わらず。

 

でも自由は不自由が教えてくれた。

自立は家族が教えてくれた。

 

自分が今生きていられるのは、

提供してくれる場所のお陰であり

それを作っている人のお陰であり

居場所が今も尚、存在してくれてるお陰であり

管理してくれる人のお陰であり

 

物と人はお金を介して繋がれていて

 

細かなことを色々選んでは決めている

今尚生存し続けられるお陰様の中に

 

わたしがちゃんといた。

 

 

https://www.instagram.com/p/Ba8Z06lFZMv/

#写真下手#カレーパン#ながら歩き#秋の空

 

 

 

好きってどうゆうことだろう

雨の中、写真を撮りに外へ出る事にした。

 

雨だし、億劫だし

部屋にいれば、近い未来のことは簡単にイメージ出来るけど

 

雨で外に出て、一体何が見えるのかは

外に行かなければ分からない。

雫に見るわずかな光くらいしか、外にはないかもしれない。

 

わずかな光でも見えそうなら

わざわざ出向く価値はある気がした。

 

例え雨でも身体を使えることが、嬉しかった。

 

こんな雨で出掛けるなんて、

という誰かの声に従って

大人しく過ごすのも悪くない。

 

結果を残す事に拘ると

感覚を忘れてしまう。

 

面倒なのにわざわざするのは

自分の中にそれをする事で

引き出される感情を味わいたいからだ。

 

それをすると、どんな感覚になる?

その感覚に目をやって。

 

好きとはそうゆう事のように思う。

 

自然の綺麗さを

ただ見ることが好きなのかもしれないけど

 

写真とういう方法で自然を見たら、緊張があったのは

時間を通して見てるから。

 

ピンホールという技法の

面倒な撮り方でやってるのは

そうゆう面白さだった。

 

夕方なら1カットに15分。

 

その間、なんだか人間であることを忘れられる気がして

考え事もしないで…

私は、それになりたくて、それを味わいたい。

 

私の「好き」はそうゆうこと。

 

https://www.instagram.com/p/Ba0NxAzlTsm/

#雨#自然#木#写真

https://www.instagram.com/p/Ba0N1jzlp1x/

#雨#写真#自然#雲#霧

https://www.instagram.com/p/Ba0OJv6lAta/

#霧#自然#木#写真#道#雨#ブログ

 

 

 

 

 

 

厳しさは一体誰のためのものだろう

 

f:id:haruradio:20171023203509j:plain

f:id:haruradio:20171023203520j:plain

f:id:haruradio:20171023203527j:plain

f:id:haruradio:20171023203544j:plain

https://www.instagram.com/p/BalBJXHlaf_/

#紅葉#黄色#自然#秋こんな黄色いの見たことないってくらい強烈発色

 

f:id:haruradio:20171023203931j:plain

 

https://www.instagram.com/p/BaloRNXlIrX/

#秋#紅葉#写真なんかしつこいくらい写真あげてるけど本当に綺麗だと思う。何時間前に写真撮って、撮った場所〝生〟には劣るとはいえまた今こうして見ることでその時感じてるモノを強化して、強烈な記憶になる。だからね、それが心地いい感じなら良いんだよ。

https://www.instagram.com/p/BaloqDOlbKE/

葉脈が浮き出るなんてこの瞬間の葉っぱなんだね。地球は美しいって思う。自然は美しい。そのカタチが正にそう。今しか見れないよね。

 

f:id:haruradio:20171023205049j:plain

f:id:haruradio:20171023205123j:plain

f:id:haruradio:20171023205140j:plain

 

 

f:id:haruradio:20171023205150j:plain

 

f:id:haruradio:20171023205401j:plain

f:id:haruradio:20171023205409j:plain

 

本当に綺麗で

この自然の中に居られるのも、あと僅か。

 

私は何もすることがなくて遊び呆けてる。

帰ることもできるけど

ここに居られるのは当たり前じゃないから、遊ぶことにした。

 

 

先日、taoという

和太鼓のパフォーマンスグループのコンサートに連れて行ってもらった。

 

https://www.instagram.com/p/BajasxhFmSL/

#太鼓#tao#コンサート#体育館✴︎色んな意味で衝撃😮今の時代の新しいカタチ。マジで時代変わったんだわ…今までのような厳粛さがなくて和太鼓なのに軽さが凄い。真面目を守ることが、バカバカしく思える。楽しんだもん勝ち。そうゆう世界感。

 

演者が1番楽しんでたと思う。

伝統的な和太鼓のイメージが壊れた。

重厚で厳格な感じがなかった。

もちろんみんな本気だけど

窮屈さ緊張、そうゆうのがない。

演奏中なのに子供が多かったのも含め、みんな自由過ぎ。

 

自分が守ろうとしてるのって

何なんだろう?

楽しむこと、私らしく私自身であることは

 

誰かの許可がいるんだろうか?

 

いらないのに、まだ何かを必死で守ろうとしてる。

 

何となくあの会場の雰囲気と楽しむ彼らに触れたら

今の自分の現状を炙り出された感じになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

劣等感とどう向き合うか?


 

https://www.instagram.com/p/BaXlWjqlUbL/

#今朝#夜明け#早朝#月#星#畑#地球#宇宙

https://www.instagram.com/p/BaayHM9FMVW/

#朝日#夜明け#ブログ

f:id:haruradio:20171019082531j:plain

f:id:haruradio:20171019082509j:plain

https://www.instagram.com/p/BaYux0oFaBV/

#秋#ススキ

 

f:id:haruradio:20171019083248j:plain

f:id:haruradio:20171019083333j:plain

f:id:haruradio:20171019083417j:plain

f:id:haruradio:20171019083438j:plain

https://www.instagram.com/p/BaYsZ04l6a-/

#八ヶ岳#秋#山#自然#写真#森#木#苔

 

上の写真は今年の秋のお山の様子。

八ヶ岳遊歩道を歩きました。

 

ここから下は去年の同じ場所。

撮影は9月始め頃⬇︎

 

f:id:haruradio:20171019121157j:plain

Yの字に横たわるこの木も

今年秋の上の写真だと、もっと地面に近く横たわっていて

キノコが生えてました。

 

 

 

 

https://www.instagram.com/p/Baahr-Xls_o/

#秋#夏#季節#変化#滝#自然#写真

 

季節は変わり変化し続けて、私達を飽きさせない。

 

 

 

 

タイトルの話しをすると、

私は過去に自分がファッションや写真について

少し学んだことがあって

 

今はそれとは全然違うことをしてるし、住んでる場所も移して

都会からは離れている。

 

先日、学生時代にお世話になった先生から突然連絡が来た。

 

「みんなで集まりませんか?」というようなお誘いだった。

 

 

今や写真を続けて活躍してる人達の中に

私が入っていることがなんだか疑問だった。

と同時に

 

私の中で今の私について

自分が猛烈な恥ずかしさや、劣等感や、今の自分に何もないと思う気持ちが

込み上げて来た。

 

いつもならそんな気持ちを抱えたままで

その人達の中に入って行こうとする気は起きなかったけれど

 

色んなタイミングが重なっている偶然と

連絡をくれた嬉しさを信頼することにして

このやりとりの中に入ってみることにした。

 

何も残せない。何もできない。何もない。

 

久々のやり取りは、そうゆう私を自分自身に感じてくる出来事だった。

いたたまれない気持ちと、

もしかしたら場違いなんじゃないのかという不安と。

 

私は最近起こってくる出来事に

自分がこの年齢になるまで

自分に何も残せていないという現実を見て

げんなりしていたこともあって

 

そうゆう最近の自分の反応や感情と

〝大人になりなさい〟という言葉が

切り離せなかった。

 

私のウィークポイントとも言えるこの反応に

大人になりきれない自分を嘆いていたし

自分はダメなんだと

自己否定にエンジンがかかった。

 

だからこの手のことを書いてると

恥ずかしい自分を晒してる感覚に陥ってしまうパターンがあった。

 

でもそれは

いつも誰かの目を気にしていることから始まっていた。

他者から見られているという方に全力で意識は持っていかれる。

恥ずかしさって

相手あってのもの。

 

本当に見なければならないのは

痛んでる心の方。

それが出る機会を人は選べないけれど

出て来たなら、気にするのは

他者の目じゃなくて

自分で今感じてるヒリヒリするようなその感情の方。

 

 

今は、あまり自分を恥ずかしいとは思わなくなったのは

今までして来た経験や、見て来たものがちゃんと美しかったから。

自分の経験には替えがきかなかったな。

 

好きなものが無くなったように見えたり

自分には力が無いと、弱さに途方に暮れてたりもしていたけど

 

実は好きなものは一貫してるし

力がないことにしていた気がする。

 

行為は同じであっても

心の内側で

自分の痛みや弱さやしてる反応に

厳しい手を緩めていくと

 

その行為の意味合いさえ変わってしまう。

 

だから外側でやってることは

もしかしたらあんまり関係ないのかもしれなくて

 

どんどん行動に起こしてみて、そこで自分の中に何が起こるのか

見てみるだけでも

それが価値のようにも思えてくる。

 

だから、傷付くことや劣等感とか怖いと感じる機会を

これからは大切にしていきたい。

 

行為にかける想いの質を変えると

生きることは楽しくなるのかもしれないから

 

自分が受け入れがたいものの方に寛大になれた時は

その質も変わるように思う。

 

 

生きることや経験そのものや

相手の存在のことや地球での営みのことや…

 

それら外側のことを通して

自分がどんなことを感じているのか?

 

存在を楽しむ為に

上手な選択ができたらいいな。